信州新緑紀行その2


 諏訪湖畔に立つ北澤美術館を訪れるのは、これが2度目である。ここは一般にはアールヌーヴォーのガラス工芸のコレクションで有名だが、同時に現代日本画の名品を集めた展示室もあって、そこの静謐な雰囲気が僕は好きだ。売店で画集を買い求めて、湖に面した喫茶室でページをめくりつつ、お茶を飲むひとときもなかなかいいものである。

 八重桜の咲く湖畔をあとに上諏訪駅から電車で松本へ出て、今日はこれから上高地へ向かう。朝のうちは晴れていた空模様も少し怪しくなってきた。せめて夕方まで雨は待ってほしい。

 松本電鉄の小さな電車で新島々まで30分、そこからバスで梓川の谷に沿って登って1時間15分。12時50分に上高地のバスターミナルに到着。これが3度目の上高地である。
 標高およそ1,500メートル。晴れやかな新緑を期待していたけれど、まだ少し早いようだ。周囲の白樺やカラマツも冬枯れのままで、5月とはいえ、ここはまだ早春の佇まいである。梓川の流れも鈍く輝くばかりで、いかにも冷たそう。残雪の穂高連峰は山頂付近を雲に隠している。彩りの乏しい眺め。心に思い描いてのは風薫り緑輝く爽やかな風景。だいぶ違う。まぁ、旅なんてそんなものだ。

 ところで、過去2回は河童橋から下流大正池方面を散策したので、今回は梓川の上流へと歩いてみよう。
 河童橋梓川にかかる吊り橋で、上高地のシンボルでもあるが、まずは大勢の観光客に交じって橋の上から穂高連峰や焼岳を見上げ、それから熊笹におおわれた森林の小径を奥地へと歩きだす。めざすのは2キロ余り上流の明神池である。徒歩60分と案内板にある。

 起伏に富んだハイキングコースは小さな渓流をいくつも渡りながら梓川に沿って続く。今日は曇り空で、光彩には恵まれないものの、森も水も清純そのもの。犯しがたいほどの美しさ。これで晴れていたら、どんなに素晴らしいだろう。


 梓川は原生林の中を幾筋にも分かれて流れ、ところどころで池のように静かな水面を広げている。水辺に立つと、イワナの姿を見かけたり、オシドリマガモの夫婦に出会ったりする。


 オシドリは極彩色の雄ももちろんきれいだけれど、やや地味めの雌の抑えた色調もなかなか上品で美しい。マガモの雄は首より上が光沢のある濃緑色で、嘴は鮮やかな黄色。対する雌は全身が茶褐色で、嘴も真っ黒。まるで色気がない。いずれも雄のほうが派手であるということは、結婚の主導権は雌が握っているということだ。雄は一生懸命にオシャレをして雌の気を引こうとしているわけだ。最近、人間界でも男がオシャレをするようになったというのは、そういう理由か。


 それはともかく、初めは冬枯れに見えた風景だけれど、春の兆しはそこかしこで見つかった。木々の梢をじっくり観察すれば、もうすぐ若葉が芽吹くのがわかるし、常緑の針葉樹の葉も心なしか若々しく感じられる。湿地に敷かれた木道の隙間には小さな赤紫色の花が人知れず咲いていた。

 森の中では昨日に続いてニホンカモシカにも出会った。今回は運がいい。
 カモシカは木々に囲まれた小さな空き地にすわっていた。距離は約30メートル。体毛は全身茶褐色で、頬の部分にだけ白い毛がふさふさと生えている。

 そこへ若い男の2人組がやってきた。カモシカにはまるで気づかずに通り過ぎようとするので、教えてあげる。
「あっ、ホンマや」
 そのあとに続いてきた4人グループも足を止めている。しかし、皆さん、それほど感動した様子も見せずに、すぐ立ち去ってしまう。街で野良猫を見つけて、ちょっと立ち止まるのと同じ程度の反応である。僕としては、なんだかちょっと物足りない。

 さて、明神池に着いた。穂高連峰明神岳の麓、原生林に囲まれた幽邃の池。清澄な水面に姿を映す針葉樹の緑や白樺の幹の白さが美しい。

 池畔に鎮座するお宮は昨日の朝一番で参拝した穂高神社の奥宮。祭神は穂高見命(ほたかみのみこと)。海神(わたつみのかみ)の御子で、神武天皇の叔父神にあたり、日本アルプス総鎮守の神、海陸交通の守護神でもあるという。
 山紫水明の穢れない風景に神聖な山の霊気が漂い、池に棲むオシドリマガモイワナまでが、あたかも神の化身であるかのように感じられた。

 帰路は明神橋を渡って、梓川左岸を戻る。
 途中、朽ちかけた枯木のそばを通りかかると、上からぽろぽろと木屑が降ってきた。見上げると、大柄なアカゲラが2羽、丹念に幹をつついていた。
 この世界には本当にさまざまな生命の形がある。人間というのもそのうちの一つに過ぎない。人命が地球より重いなどというのは思い上がりである。上高地を歩いていると、そう思う。

 河童橋に帰着寸前、ついに雨がぽつぽつと降りだし、あっという間に本降りになった。散策は終わりにして、16時のバスに乗る。
 今日は上高地から15分ほど下った中ノ湯温泉の一軒宿に泊まる。梓川の峡谷沿いの古びた宿である。ここに泊まるのも3度目。

 川沿いにいい露天風呂があったが、これは飛騨へ抜ける安房峠のトンネル工事のあおりで消えてしまった。いずれ復活するのかどうか。