信州新緑紀行その3

 上高地に近い中ノ湯温泉に泊まっている。
 屋根を叩く雨音を聞きながら山峡の一夜を過ごし、翌朝9時過ぎのバスで山を下る。
 霧が山の峰を包み込み、墨絵のようなモノクロームの微妙な諧調が美しい。山の旅ではすっきりとした青空もいいけれど、雨に煙る風景にもしっとりとした情緒があって、それもまたよい。

 さて、同じ宿に泊まっていた大阪のおじさんと一緒に松本に出て、そこからまたひとりになって電車で長野へ向かう。
 旅は今日で終わりであるが、最後に善光寺に詣でて、隣接する長野県信濃美術館と併設の東山魁夷館をみてから帰ろうと思う。
 曇り空の長野駅前から市内バスに乗り、善光寺大門で下車。
 信州は何度も旅しているのに、善光寺参りは初めてである。さすがに老若男女、参拝客が多く、門前の参道も賑やか。いろいろなお店が軒を連ね、梅宮辰夫の漬物屋なんていうのもある。店先の民芸品や饅頭など眺めながら歩くのはなかなか楽しく、心が弾む.まぁ、買いたいものはそんなになかったりするのだが。


 お参りを済ませ、門前で美味しい蕎麦を味わってから善光寺の東隣の城山公園にある信濃美術館へ。
 ここは主として長野県出身画家の作品と信濃の豊かな自然を描いた風景画などを収集している。美術館のモダン建築と信州の風土や歴史や文化が調和した静寂の空間構成が旅の想いを引き立ててくれる。
 それから棟続きの東山魁夷館へ。僕の目当てはむしろこちらである。長野県が、信州に縁の深い東山魁夷画伯から700点余の作品の寄贈を受けて平成2年に開館した美術館。
 展示室に一歩足を踏み入れると、そこはもう東山芸術の世界。独特の清らかに澄みきった色彩感覚で空間が染まっている。さまざまな作家の作品を寄せ集めた美術館とは違った個人美術館ならではの魅力である。
 「自然への祈り」という主題のもとに陳列された透き通るような作品の数々。旅を通じて自然と触れ合い、対話を交わすなかで育んだ心象風景を絵画化した作品はどれも単なる風景画を超えて、もはや優れた宗教画である。以下は展示作品目録に抜粋された東山画伯の言葉。

 「私は人間的な感動が基底に無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染された、荒らされた風景が、人間の心の救いで有り得るはずがない。風景は心の鏡である。庭はその家に住む人の心を最も良く表すものであり、山林にも田園にもそこに住む人々の心が映し出されている。河も海も同じである。その国の風景はその国民の心を象徴するといえよう」(東山魁夷画文集『美の訪れ』より)

 もっと豊かに、もっと速く、もっと便利に、もっと快適に…。自然から遠ざかる一方の現代ニッポン人の心の行く末に対する警鐘のようである。近い将来、長野にも新幹線がやってくる。「不自然」がまたひとつ増える。
 売店で画集や絵葉書など買い求めて、美術館を後にして、もう一度善光寺の境内や門前町をぶらぶらと歩いてから長野駅に戻る。あとはもう帰るだけだ。

 2冊の画集を小脇に抱えて、14時19分発の上野行き特急「あさま22号」の乗客となり、信州をあとにする。近くの座席で中年の女性が僕と同じ画集をめくっている。
 軽井沢を過ぎて、列車は碓氷峠の急勾配を補助機関車の力を借りながら下っていく。対向線路の上に子猿がちょこんと座っているのが一瞬見えた。