茨城県の筑波山にある、かつて祖父が住んでいた今は廃屋同然の家で迎える朝。
明け方、庭でウグイスが啼いたので目が覚めた。どこかでコジュケイの声もする。
この家に泊まるのもこれが最後だろうと思いながら、戸締りをして、7時20分に出発。
筑波山神社の参道入口近くに自転車を止め、境内を抜けて、宮脇駅から8時発のケーブルカーに乗る。時刻表だと始発は9時10分だが、山頂で商売をしている人たちのために8時の便があるのだ。車内は若干の観光客を含めた人間と荷物でいっぱいになった。
標高差約500メートルを8分で登り、山頂の御幸ヶ原へ。ここは筑波山のふたつの峰、女体山(876m)と男体山(870m)の間の鞍部に位置し、昔ながらの土産物屋や回転式展望台などがほとんど変わらずにあって、少年時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。
(注)当時、筑波山の標高は女体山の876mとされていたが、この年の11月に877mに訂正されている。男体山も871mに修正。
筑波山には何度も登ったが、今回は男体山の周囲をめぐる自然研究路というのを発見し、初めて歩いてみた。ブナなどがようやく芽吹きを始めた頃で、まだ桜も咲いている。
「チョチョビー」とさえずるセンダイムシクイや「ポポ、ポポ、ポポ、ポポ・・・」と鳴くツツドリの声もする。ほかにも美しい声でさえずる小鳥がいて、持参の双眼鏡でのぞいてみたが、野鳥の知識が乏しいので、正体は分からなかった。
古来、ここで拝むと出世すると言われ、間宮林蔵も参拝したという「立身岩」など見物して(そういえば、拝むのを忘れた)、研究路を一周した後、男体山頂にも登って素晴らしい眺望を堪能し、9時40分のケーブルカーで下山。10時過ぎには自転車で走り出す。
山をあとにするのは名残惜しかったが、登山道路を麓へ下り、帰りは筑波鉄道の線路跡を土浦まで走る、今はずっと自転車道になっているから無視するわけにはいかない。
(旧筑波駅前から筑波山を見上げる)
かつて筑波町の役場があった北条にある常陸北条駅の跡は今は草むしたホームが残るだけで、自転車道は駅構内の脇をすり抜けている。かつて駅舎があった場所に住宅が建設中だった。
広々とした田園地帯を坦々と走ると小田の集落。ここには常陸小田駅があったが、その前後の区間は自転車道が途切れているので、一般道を通って集落の中の駅跡を訪ねてみた。
この駅は中学生の頃、用もないのに降りてみたことがある。当時からローカル線のひなびた駅に心惹かれる変わった子どもだったわけだ。
当時の駅舎は消えたが、ホームは残り、線路跡には雑草が生い茂って、タンポポがたくさん咲いている。ホーム上には駅名標がそのまま残り、名所案内板は枠だけが立っている。この駅周辺で名所といえば、まずは小田城址で、南北朝の動乱期に南朝方の重臣・北畠親房が滞在し、「大日本は神国なり」で始まる『神皇正統記』を書いた場所として知られ、国の史跡に指定されている。
かつての線路は城跡を貫いて通っていたそうなので、史跡保全の観点から線路跡をそのまま自転車道に転用するわけにはいかず、ここだけ自転車道が途切れているのかもしれない。
小田の集落のはずれで復活した自転車道はどこまでものどかな田園を行く。サイクリングや散歩を楽しむ人々とも数多く行き会う。筑波山はだいぶ遠くなった。
次の駅は田土部。ここはコンクリート造りのホームが残っている。
次の常陸藤沢駅は一昨年は自転車道は完成しておらず、踏切部分にはレールも残っていたが、今は相対式ホームの間を新しい道が通り、踏切のレールも消えていた。
単線にホームを添えただけの小駅だった坂田は今は跡形もない。近くの民家の前に駅名標が置いてあるのを前回確認している。
次の虫掛は確か相対式ホームだったと記憶しているが、上りホームだけがそのまま残り、ホームに植えられた木々が今も元気に新しい葉を広げていた。
つくば市から新治村を経て、ここはもう土浦市。あたりは水田よりも蓮田が多くなる。土浦はレンコンの名産地である。ヨシの生えた休耕田ではオオヨシキリが「ギョギョシ、ギョギョシ」と大きな声でさえずっていた。
土浦市街に入って、自転車道も終わり。新土浦駅は今も往時の姿を留め、驚いたことに国道を横切る踏切の線路がまだ残っていた。
さて、正午前に土浦に着き、梅宮辰夫のコロッケ&カレーショップ「梅辰亭」で昼食。
あとは国道6号線「水戸街道」をひたすら東京めざして突っ走り、16時40分に帰宅。意外に早く着いた。
本日の走行距離は110.9キロ。2日間で224.1キロ走ったことになる。