筑波山麓・廃線跡サイクリング

    「つくば」へは輪行
 昨日の中秋の名月がまだ西の空に輝く5時過ぎに家を出て、自転車を分解・パッキングして、小田急線、地下鉄千代田線を乗り継ぎ、北千住で「つくばエクスプレス」に乗り換える。先月24日に開業したばかりの新しい鉄道だ。
 6時31分発の区間快速つくば行き。休日の早朝ということで、車内はガラガラ。輪行ではほかの乗客の迷惑にならないように、ということに最も気を遣うので、これは助かる。なにしろ、僕の乗った車両はほかにお客が1人しかいないのだ。

 終点のつくばは自転車がとても便利な街なので、この最新の鉄道に乗ってみようという方は輪行でもいいし、折りたたみ自転車でもあれば持っていくと、楽しめると思う。
 さて、終点のつくばには7時13分に着いた。自転車を担いで地上に出て、さっそく組み立てる。

     筑波山へ走る

 車内で、つくばから筑波山方面へ向かうか、それとも土浦へ出て、霞ヶ浦を一周してみるか迷っていたのだが、結局、筑波山周辺を走ることにする。かつて土浦〜岩瀬間40.1キロを結んでいた関東鉄道筑波線(昭和54年に筑波鉄道として分離独立。昭和62年全線廃止)の線路跡が自転車道になっているので、とりあえず全区間走ってみたい。
 ところで、筑波山はかつて祖父が住んでいた山であり、子どもの頃、家族で何度も出かけたし、筑波線も何度となく利用した。数年前に東京から1泊2日で自転車で行ってみたことも2度あり(1997年10月と1999年5月。片道110キロほど)、廃線跡自転車道も筑波〜土浦間は走ったことがある。なので、今回は廃線跡の北半分、筑波〜岩瀬間が目当てである。

 さて、つくば駅からまず学園東大通りを北へ向かう。車道は車が猛スピードで走っていて危険なので、歩道をゆっくり走る。交差点ごとに小さな段差があったり、時折、路面がガタガタしていたりするが、安全第一だ。
 大学や研究施設が点在する中を行くうちに、学園都市を抜け、だんだん田舎の雰囲気に変わってきた。薄青く霞んだ筑波山も迫ってきた。僕にとっては懐かしい風景でもある。
 やがて国道125号線に突き当たり、ここを右折。桜川を渡り、次の交差点を越えたところで、筑波線の廃線跡「つくばりんりんロード」に出会う。これを北へ行くと、まもなく目の前に筑波山(標高877m)が姿を現わす。かつてこの区間は小さなディーゼルカーが山をバックに走る写真撮影の名所だった。

 男体山、女体山の二峰に分かれた筑波のやや霞んだ姿を見上げながら、コスモスの咲く道をのんびり走っていくと、旧筑波駅に到着。時刻は8時18分頃。1時間弱で着いた。

     筑波駅

 かつての筑波駅は1番線から3番線まである大きな駅で、行楽シーズンには上野から直通する臨時列車「筑波号」も運転され、筑波線内は12系客車をDD501というこげ茶色の小さなディーゼル機関車が牽いていたものだ。
 筑波駅に到着する気動車

 筑波駅に着いた「筑波号」。


 DD501。

関東鉄道筑波線〜筑波鉄道の乗車券・入場券。

 さて、その筑波駅。今もバスのターミナルとして健在である。前回はそのままだった改札口はさすがに消えていたが、「筑波駅」の看板はどうやら新調したようだ。レールが撤去された以外はほぼ往時のままの姿を留めていた駅の構内は、いつのまにか旧ホームを活用した自転車道の休憩所として整備され、2本のホームの間の線路跡も埋め立てられ、芝生になっていた。ベンチでサイクリストが2人休んでいる。僕もここでひと休み。

 1997年の筑波駅跡。

 現在の筑波駅跡。

 現在でも「筑波駅」。


     筑波山

 ここまで来たら、岩瀬方面へ向かう前にやはり筑波山にも上ってみよう。といっても、中腹の筑波山神社までだが。今は完全に廃屋と化しているはずの祖父の家も見てみたい。
 というわけで、筑波駅前をあとに走り始める。登山道路に突き当たった地点に神社まで3.2キロの表示があった。距離は大したことないが、坂は意外にきつい。しかも強い陽射しが照りつけ、暑くて、たちまち汗だくになる。おまけにギアチェンジをした途端にチェーンがはずれたりもする。

 なんとか神社前に着いた。標高は240メートルほど。立ち並ぶ旅館やホテル、土産物屋は昔とほとんど変わらない。よく言えば昭和の雰囲気を残しており、悪く言えば、時代に取り残された観光地という感じがしないでもないが、行楽客が車やバスで次々とやってきて、賑わってはいる。
 ケーブルカーで山頂まで行ってみようかとも思ったが、それはやめて、想像以上に荒れ果ててしまった祖父の家を見ただけで、また山を下ってきた。

(筑波駅前からみた筑波山。1997年10月)

     筑波線跡をたどる(筑波〜岩瀬)

 筑波駅から改めて自転車道を岩瀬方面へ走り出す。すぐに朽ちかけた勾配標があった。鉄道時代の貴重な遺物である。

 筑波線の土浦〜筑波間は何度も乗ったが、筑波〜岩瀬間は中学時代に1度乗ったきりで、従って、あまりよく覚えていない。まぁ、全区間にわたって関東平野ののどかな田園地帯を走っていたことは間違いない。

 筑波山を右に見上げながら、田圃や畑の中を行く。カンナなど夏の名残の花とコスモスなど秋の花があちこちに咲いている。彼岸花も咲いている。
 気分よく走っていくと、やがて自転車道は途切れ、左に並行する道路に合流してしまった。このあたりに上大島という駅があったはずだが、駅の跡はどこにも見当たらない。道路を新しく造ったか拡幅した際にすべて飲み込まれてしまったのだろう。
 朝から何も食べていないので、セブンイレブン上大島店でおにぎりなどを買う。でも、外は陽射しが強くて、休む場所がない。
 つくば市から真壁町に入り、幅の広い道路の歩道を行くと、酒寄というバス停を通りかかる。ふと見ると、道路の右手に盛り土の花壇があり、そこに駅名板の枠だけが残っていた。その横に小さく「旧酒寄駅」の表示。どうやらホームの跡であるらしい。上大島の次の駅である。

 酒寄駅跡の少し北で道路の下から線路跡が現われ、再び自転車道となって左へ分かれていく。道路は上り坂となって緑の丘を越えていくが、自転車道は相変わらず平坦な田畑の中をどこまでも続く。単調ではあるが、誰の遊び心なのか、道がくねくねと蛇行したり、カクンカクンと妙な起伏がつけられている場所もあった。
 次の駅は紫尾で、ここには相対式のホームが残っていた。ただ、旧駅名を示すものは見当たらないから、知らなければ、何駅の跡なのか分からない。

(紫尾駅跡)
 続いて、また駅の跡があった。ゆるやかにカーブする線路跡の右側にだけホームが残っていて、花壇や家庭菜園に利用されている。そばに桃山というバス停があるので、そこが常陸桃山駅の跡と分かる。駅の先で交差する道路には踏切の跡も残っていた。

常陸桃山駅跡)

 常陸桃山駅の次は真壁駅である。筑波からちょうど10キロ地点。沿線では筑波と並ぶ主要駅だった。駅舎は取り壊され更地になっているが、旧駅前広場は昔も今も路線バスの発着場になっている。
 構内は筑波駅と同様に休憩所として整備され、上りホームの桜の木の下でサイクリングのおじさんが休んでいる。木陰で気持ちよさそうではあるが、枝先の葉っぱが無くなっているのは、毛虫がいるせいだろう。この自転車道沿いにはたくさんの桜が植樹されているが、ほとんどが毛虫の被害を受けており、あたりは毛虫のフンだらけ、葉っぱは食い荒らされ、時には路上にも大きな黒い毛虫が這っていたりするのだ。なので、桜の木の下は避けて、やっと朝食にする。時刻は10時になるところ。

(真壁駅跡)
 さて、岩瀬まであと9.9キロ。真壁駅を出発して、まもなく自転車道の左脇に距離標があった。土浦からのキロ数を示す「31」という数字が読み取れた。

 再び相対式ホームの駅跡が見えてきた。何の表示もないが、樺穂駅の跡。この地方では筑波山に次ぐ高さの加波山(709m)が間近に見える。

(樺穂駅跡)
 次は片側ホームの東飯田駅跡。ここまで走ってきて、気づくのは、筑波駅や真壁駅を別にすれば、どの駅も集落のはずれの何もない場所にあったらしい、ということ。駅跡の周辺にはほとんど1軒の商店も見当たらない。もともと歴史のある土地柄だから、古い集落の中に鉄道を通すことができず、従って、駅も集落の外に設置されたのだろう。それでも利用者が多ければ、駅を中心に新たな町が発達したのだろうが、ほとんどの駅ではそうならないまま廃止の日を迎えた、ということか。同じように集落の外に建設されたバイパス道路沿いにはコンビニやスーパーマーケット、ラーメン店、レストラン、パチンコ店…などがどんどん増えているのとは対照的だ。

(東飯田駅跡)                     

 真壁から5.3キロで雨引休憩所。相対式ホームのある雨引駅の跡である。近くに雨引観音というのがあるそうだが、恐らく山を少し登らねばならないのだろう。今回はパス。といっても、次回があるかどうか分からないが。

(雨引駅跡)

 雨引の次は岩瀬である。この間4.6キロ。途中、草刈り作業をしていたり、工事現場があったり、線路跡が道路で分断され、近くの横断歩道まで迂回しないといけなかったりしたが、最後まで走りやすい道であることには変わりがない。アップダウンもほとんどないし、誰でも安全に楽に走れる道である。実際、本格派のロードレーサーから親子連れやママチャリのおばちゃんまで老若男女、たくさんの人がサイクリングを楽しんでいた。
 白い花が咲くソバ畑が見え、ツクツクボウシが賑やかな林の中を右へカーブしていくと、その先にJR水戸線の架線柱が見えてきて、まもなく終点の岩瀬駅跡に到着。筑波から19.9キロ。時刻は10時40分。

 岩瀬駅の筑波線関連施設は完全に消滅し、跡地の一部は駐車場になり、あとは芝生になっていた。水戸線の踏切を渡って、JR側の駅舎で高校生の茨城弁を聞きながらひと休み。ちょうど到着した電車から輪行の青年が降りてきて、駅前で自転車を組み立てている。彼も筑波線跡を走るのだろうか。

     城下町・真壁は文化財の街

 11時頃、岩瀬を出発し、同じ道を真壁まで戻る。 
 真壁は古い城下町なので、少し街なかを走ってみた。走り出して、すぐ気がつくことは、街並みが古く、しかも、やたらに文化財が多い、ということである。それも神社仏閣ではなく、今も現役の民家や商店、旅館などが文化財になっているのだ。カメラ片手に散策する人も多い。途中で立ち寄った歴史民俗資料館で入手したパンフレットによれば、これらは登録文化財というそうだ。
 そもそも文化財には指定文化財登録文化財があるそうで、登録文化財とは次のようなものだという。

 「建築後50年を経過した住宅や蔵のほか、煙突、橋など幅広い建造物について保存および活用を進めるため、平成8年に文化財保護法の改正によって登録文化財制度が成立しました。この制度により国の文化財原簿に登録されたものが、国の有形登録文化財、いわゆる『登録文化財』です。指定文化財と異なり、緩やかな規制で文化財を自由に活用できることが特徴です」(「真壁の登録文化財」より)

 約400年前の町割りがそのまま残る真壁には江戸時代から明治・大正・昭和初期までに建てられた見世蔵、土蔵、門などが約200棟も残り、町では平成11年から文化財の登録を進め、平成16年4月の時点で77棟の登録を受けているそうだ。この数は日本一(町村)であるらしい。

 蔵造りの建物や築地塀が続く町並みの間をゆっくり回り、国指定史跡の真壁城跡(築城は平安末期)も訪ねてみると、一部が町民体育館になっていた。館内からは大音量の「チャンチキおけさ」が聞こえ、お年寄りがたくさん集まっている。そういえば、今日は敬老の日なのだった。

     筑波線跡をたどる(筑波〜土浦)

 真壁から筑波駅に戻り、駅に近い食堂で遅い昼食。それから、筑波線跡を土浦めざして、また走り出す。筑波〜土浦間は20.2キロである。
 筑波山に見送られて、南へ4キロ半ほど行くと、北条。今はつくば市の一部になった旧筑波町の役場があった集落である。筑波山万葉集にも詠まれ、古くから信仰の山として多くの人が訪れたが、筑波詣でのための「つくば道」はここ北条から筑波山へほぼまっすぐに伸びている。いつか歩いてみたい古道である。
 風情のある古い町並みが残る北条の集落に立ち寄ってから、町のはずれにある常陸北条駅跡を訪れる。ここも相対式ホームがあったはずだが、上りホームはなくなり、跡地には民家が建っていた。自転車道はなぜか駅構内の脇をすり抜けている。

常陸北条駅跡)

(1997年10月の常陸北条駅跡)

 国道125号線の下をくぐって、広々とした田園地帯を行くと、やがて常陸小田。この駅には中学生の頃、用もないのに降りてみたことがある。当時からローカル線の鄙びた小駅に心惹かれる妙な子どもだったわけだ。
 前回1999年5月に通った時、この駅の前後の区間だけ自転車道が途切れ、相対式ホームの駅跡は駅舎とレールが撤去された状態で草に埋もれていた。駅名板も残っていた。自転車道はいつの間にか完成していたが、かつての駅名を示すものは何もない。

常陸小田駅跡)

(1999年5月の常陸小田駅)          

 その常陸小田駅跡を過ぎると、自転車道はまっすぐ伸びる線路跡から大きく西へ逸れるように曲がりくねって続いていた。実は常陸小田駅付近の線路は小田城址のど真ん中を突っ切っており、今も発掘調査が行われている様子。そこで城跡を迂回するように自転車道を建設したようだ。

 小田城は南北朝時代南朝方の重臣北畠親房が滞在し、「大日本は神国なり」で始まる有名な歴史書神皇正統記』を書いた場所として知られる。皇国史観のバイブルみたいな書物で、城跡が昭和10年国史跡に指定されている。


 小高い丘を迂回した自転車道が再び線路跡と合流すると、あとはまた平凡な田園風景の中を行く。草むらでコオロギに混じってリーン、リーンとスズムシが鳴いている。自然界でこの声を聞くのは初めてのような気がする。
 次の駅は田土部(たどべ)。単線にホームを添えただけの小さな駅。ホーム上は雑草が生い茂っている。

(田土部駅跡)
 再び相対式ホームの常陸藤沢は今は休憩所として整備されている。サイクリングの親子連れが休憩している。僕も“駅前商店”でアイスを買って休む。暑い。

常陸藤沢駅跡)
 次の坂田駅はほぼ完全に消滅してしまったようで、いつの間にか通り過ぎてしまった。以前、近くの民家の前に駅名板が置いてあったが、今もあるかどうかは確認しなかった。
 坂田駅駅名標(1997年10月撮影)。

 常盤自動車道をくぐって土浦市に入ると、急に蓮田が目立ってくる。土浦はレンコンの名産地である。シラサギがあちこちにいる。そんな蓮田に隣接するのが虫掛駅。ここは相対式ホームだったと記憶しているが、下りホームは消え、上りホームだけが残っている。そばに土浦から4キロ地点を示す距離標が立っていた。

 周囲に住宅が増えてきた。終点はもうすぐだ。
 国道と交差すると新土浦。ここに前回までは踏切のレールが残っていたが、さすがにそれは消えていた。

(新土浦駅跡)

(1999年5月の新土浦駅跡)

 片側ホームの新土浦を出ると、すぐに真鍋信号場跡。ここに機関区があり、筑波線のディーゼルカーのねぐらとなっていた。その跡地は駐車場やグラウンドになっている。

(現役時代の真鍋信号場)
 それにしても、あのディーゼルカー。せめて1両ぐらい、たとえば筑波駅あたりに保存展示してあってもよさそうに思うのだが、もうすべてこの世から消えてしまったのだろうか(つくば学園都市の公園に1両だけ保存されているらしいが)。この「りんりんロード」沿いにはホームの跡だけはあちこちに残っているが、それは撤去する手間と費用を惜しんだ結果のように思えるし、鉄道時代の遺跡を積極的に保存しようという気持ちはあまり感じられなかった。あくまでも跡地を利用して自転車道を整備しただけ、といった感じである。

 さて、いよいよ次は土浦だ。市内を流れる川に架かっていた鉄橋は跡形もなく姿を消し、その部分だけ近くの道路橋を迂回するようになっていたが、線路跡はその先も自転車道として続き、常磐線に寄り添い、土浦駅にさしかかる直前で終わっていた。こちらは休憩所も何もなく、岩瀬から40キロも続いてきた自転車道の終点にしては呆気ない感じだった。到着は15時半。

 この後、常磐線のガードをくぐって霞ヶ浦の湖畔に出て、しばらく休憩し、それから県道24号線を10キロばかり走って、つくばエクスプレスつくば駅には16時半に戻った。サイクルコンピュータによれば、今日の走行距離は103キロほどだが、スタート時になぜかしばらく作動していなかったので、実際にはあと数キロは余計に走ったはずである。