上総国巡礼サイクリング

 昨年(2006年)から始めた坂東33ヶ所観音霊場めぐりもあとは千葉県内の4ヶ所を残すのみとなった。今日はそのうち第30番、第31番、第32番の3つの札所を自転車でめぐろうと思う。
 いつものように分解して袋に入れた自転車を担いで電車に乗り、JR内房線木更津駅に着いたのが8時49分。駅前で自転車を組み立てて、8時56分に走り出す。

 最初にめざすのは坂東第30番札所の高倉観音・高蔵寺木更津市の内陸の丘陵地帯にある古刹である。
 真正面から朝日を浴びながら広々とした駅前通りを東へ走り、県道23号・木更津末吉線に入ると、市街地をあとに、だんだん丘陵地帯にさしかかる。風景ものどかになってきて、タヌキの図柄の「動物注意」の標識も現われた。もちろん、坂も多くなるが、まだそれほど苦にはならない。
 路上にバッタがたくさんいるので、轢かないように気をつけながら走る。

 丘陵地帯を切り開いた殺風景な研究学園都市「かずさアカデミアパーク」の中を抜けて、木更津駅から10キロほどで、高倉観音入口の案内板が見つかった。
 矢印に従って脇道に入り、急坂を上ると、鬱蒼とした小高い山の上に高倉観音の駐車場。参拝者もちらほら。時刻は9時35分。

 平野山高蔵寺、通称・高倉観音は真言宗豊山派の寺院。縁起によれば、歴史は6世紀、用明天皇の御代にまで遡る。徳儀上人がこの地で修行していたところ、樹上に4寸(約12センチ)の観音像が飛来し、それを村人とともに堂宇を建てて安置したのが始まりだという。
 その後、子宝に恵まれない地元の有力者がこの観音像に祈願したところ、女子を得、のちにこの女子が生んだのが大化の改新の中心人物で、藤原氏の始祖として知られる藤原鎌足だという伝説もあり、この寺の所在地も現在は木更津市矢那だが、かつては鎌足村といったそうだ。実際、ここへ来る途中で小中学校名などに鎌足の名前が伝わっているのを確認してきた。
 さらに天平年間には行基が当寺を訪れ、新たに観音像を刻み、その頭部に飛来の像を納めたといい、これが高倉観音の本尊となっている。

 さて、石段を上がって仁王門をくぐると、正面に1526年再建の本堂(観音堂)。高床式の建築で、屋根は二層になっている。本尊は秘仏で、丑年と午年の10月18日から11月18日に開帳されるとのこと。厨子は扉が閉じられ、その前にお前立ちの観音像が立っている。ここまでは普通のお寺とさほど変わらない。このお寺のすごいところは高床式という建築様式を利用した床下にある。観音堂の床下に「観音浄土巡り」というのがあるのだ。とりあえず拝観料300円を払って入ってみた。

 お堂の床下がまさかこんなことになっているとは思わなかったが、いきなり閻魔大王に迎えられて、まずは「地獄界巡りの間」。続いて「観音浄土界の間」。ここではなんと秘仏のはずの本尊・正観世音菩薩像(像高3.6メートル)の全身を床下からいつでも見上げることができるのだった。そして、「極楽界巡りの間」へと続く。
 とにかく、百体観音像などさまざまな仏像をはじめ、白蛇や天狗や狸や河童の像、男性のシンボルから「18歳未満拝観お断り」の男女和合像(御簾をあげて拝む)まで所狭しと並べられ、壁面には28枚の「観音浄土界・地獄極楽絵図」(地獄に堕ちそうになった狸と河童が観音様に導かれて極楽浄土にたどり着くまでが描かれている)。ほかにも仰天するような仕掛けがあって、とにかく不思議な空間なのであった。

 納経所でご朱印を頂いて、10時05分に出発。次の札所は長南町の笠森観音である。30キロ以上はあるだろうか。
 さらに県道23号線を房総半島の奥地へと分け入る。上空からジェット機の轟音が降ってきた。後方へ遠ざかっていったから羽田へ降下中に違いない。ここからでも東京湾の彼方の羽田までは、あっという間なのだろうけれど、こちらは大地を這うようにゆっくりと移動していく。

 丘陵地帯を越えて、木更津市から君津市に入り、坂を下ると、小櫃(おびつ)川沿いに開けた田園風景が広がった。その小櫃川を渡り、まもなくJR久留里線(木更津〜上総亀山)の線路に出合うと、すぐに小櫃駅前。高倉観音から8キロ。時刻は10時28分。

 線路の向こうにC12型蒸気機関車が保存されている小さな無人駅でしばらく休憩して、10時35分に出発。
 ここから笠森観音へは久留里線沿いに国道410号線を北上し、国道409号線・房総横断道路にぶつかると、これをひたすら東へ行くのが最短経路と思われる。しかし、僕は小櫃から北へは行かず、さらに東へ向かう。
 色褪せた彼岸花の群落がそれでもまだ美しさを残し、コスモスは至るところで咲き競い、薄暗い山林にさしかかれば路上に栗の実が落ちていたりして、すっかり秋の風情。でも、まだツクツクボウシも鳴いている。上り坂では額から汗が流れ落ちる。

(鬱蒼とした丘陵地帯を行く)

 途中、土砂の採取場のある丘陵地帯を抜けて、君津市から市原市に入って、坂を勢いよく下ると、再び鉄道の踏切。今度は養老川の谷沿いを走る小湊鉄道の線路である。ここまで小櫃から9キロ。木更津からは28キロ。時刻は11時07分。

 右手に小さな駅が見えたので、寄ってみた。
 飯給駅。これで「いたぶ」と読む。知らなければ、絶対に読めないが、あとで知ったことにはかなり古くからある地名らしい。
 伝説によれば、日本の古代史上最大の内乱といわれる壬申の乱(672年)で天智天皇の子・大友皇子天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が皇位をめぐって争った折、敗れた大友皇子が実は生き延びて、はるばるこの地まで落ちのびてきた。その時、村人たちが食事を提供したことが地名の由来になっているというのである。
 それはともかく、よい駅である。何もないが、それが実にいい。総じて、小湊鉄道は古きよき時代の鉄道風景が残っていて、味わいがあるが、この駅も素晴らしい。経営は苦しいに違いないが、いつまでもこのまま生き延びてほしいな、と思う。

 飯給駅。千葉県内で最も乗降客の少ない駅(1日平均9人)らしい。


 飯給駅を11時15分にあとにして、養老川を渡ると、県道81号線にぶつかる。この道を南へ行くと養老渓谷方面で、一度自転車で走ったことがある。今日は左折して北へ行く。
 まもなく、小湊鉄道の線路が寄り添ってきて、また駅があった。里見駅である。ここにも立ち寄る。

 前回通った時は駅員がいて、列車の行き違いもできる駅だったが、今は無人。駅前に地元の子どもたちがたむろしている。
 線路は3番線まであり、ほかに貨物ホームの跡も残っているが、現在も使っているのは駅舎のあるホームに接した線路1本だけ。そのホームには誰が手入れをしているのか、秋の花がいろいろ咲いていた。

 

 さらに小湊鉄道沿いに北へ行くと、踏切があって、線路は左から右に移る。そこにあった「踏切注意」の標識が昔ながらの汽車の図柄なら最高なのだけど、残念ながら電車の絵だった。

 車に轢かれた無残な猫の死骸を見て、まもなく高滝駅がある。養老川をせき止めた高滝湖(高滝ダム)の最寄り駅で、駅前には「市原ぞうの国」の送迎バスが止まっている。

 ここももちろん無人駅で、猫が寝そべっていたりして、いかにものどかな雰囲気だが、ちょうどそこへ11時41分発の列車がやってくると、お客が意外にたくさん降りてきて、急に賑やかになった。女性の車掌さんもホームで切符を回収したり、精算したりで忙しそうだ。
 だいぶ長く停まってから2両編成のディーゼルカーが行ってしまい、下車客のほとんどが乗り込んだ送迎バスも行ってしまうと、高滝駅は再び猫の遊ぶ静かな小駅に戻った。この猫たちが先ほどの猫みたいな悲惨な目に遭わないように願いつつ、僕もまたさらに北へと走り出す。

高滝駅。左に今は使われていない線路とホームが見える)


 高滝ダムを渡り、トンネルを抜けて、県道から少し離れた上総久保駅にも寄り道。線路にホームを添えただけの小さな駅である。ほかにも青年が1名、カメラをセットして列車を待っている。小湊鉄道は本当に各駅ごとに独特の味わいがあって、沿線にはこのような鉄道ファンがあちこちにいる。

上総久保駅


 さて、12時05分に上総鶴舞駅までやってきた。ここまで木更津から38キロ。
 お寺めぐりのはずが、すっかりローカル線の駅探訪になってしまっているが、これは予定通り。そのためにわざわざ遠回りをしているのだ。そして、今回の一番のお目当てがここ上総鶴舞駅である。


 1995年夏に初めて自転車で旅行をした時、たまたまこの駅を通りかかって、時代から取り残されたような、昔ながらの風情のある駅の佇まいに魅せられたのだった。その後、この駅が「関東の駅百選」に認定された時もまさに我が意を得たり、という心境で、「好きな駅を挙げよ」と問われたら、真っ先に心に浮かぶ駅のひとつが上総鶴舞駅なのである。まぁ、好きな駅は全国各地にたくさんあるのだけれど…。ここでも写真を撮っている人が2名ほど。

 上総鶴舞駅里見駅と同じように3番線まであり、かつては貨物ホームもあった規模の大きな駅である。しかし、ここも現在は使用しているのは駅舎のあるホームのみで、駅員もいない。
 今は使われなくなったホームにノウゼンカズラが咲いていたというのが記憶の中のこの駅だが、夏が過ぎた今でもオレンジ色の花が2、3輪は咲いていた。


 

 12時20分に上総鶴舞駅を出発。
 正午までには笠森観音に着くつもりだったのに、のんびりしすぎて、予定よりだいぶ遅くなってしまった。笠森観音からその次の清水観音までもけっこう離れているので、急がなければならない。あまり遅くなると、納経所が閉まって、ご朱印がいただけない恐れがあるからだ。

 小湊鉄道と別れて、ここからは国道297号線を大多喜方面へ向かう。この道は1995年夏の自転車旅行で走った道だ。
 清水観音に直行するなら、大多喜までまっすぐ行けばよいが、3キロほど走った地点で国道から左折。いきなり急坂になって、やがてトンネル(歩行者用トンネル併設)を抜けると、左折地点から1.5キロほどで鶴舞の集落に着いた。駅からはずいぶん離れた場所にあるのだ。

 丘陵の上にある鶴舞の中心部から東へ500メートルほど行くと、鶴舞不動尊・西蓮寺というお寺があった。兜のような屋根のちょっと個性的な建築で、立ち寄ってみようかと思ったが、女性が4人、お堂の前で熱心に般若心経を唱えているので、境内の入口から写真を撮るだけにする。

 西蓮寺の前で地図を取り出してルートを確認。この辺に左折すべき地点があるはずなのだ。といっても、手元の地図には西蓮寺なんていう寺は出ておらず、現在地もはっきりしないのだが、お寺の前で北へ折れる、それらしい道があったので、とりあえず曲がってみる。
 やけに細い道で、しかも、路面はやや荒れていて、車もほとんど通らない。本当にこのルートで正しいのかな、と不安になるが、道を間違っていたら引き返せばいいのだ、と自分に言い聞かせつつ進む。
 丘陵の尾根上の山林の中を少し心細い気分で走って行くと、カケスの濁った声が聞こえてきて、まもなく素掘りの短いトンネルをくぐる。

 そして、坂を一気に下ると、田園風景が広がり、やがて国道409号線「房総横断道路」に突き当たった。よかった、よかった。この道で正しかった。奥野という土地である。

 右折して国道を東へ行くと、市原市から長柄町に入り、さらに立派なトンネルを抜けると、たちまち長南町に入って、まもなく「笠森観音」の案内板があった。木更津から45キロ。時刻は12時50分。

 坂東第31番札所・大悲山笠森寺は784年に伝教大師最澄が開いたと伝わる天台宗の別格大本山というだけあって、広い駐車場があり、けっこうたくさんの人が訪れていた。
 僕も駐車場の隅に自転車を止め、山上の寺に続く切通しの間を登っていく。なかなか険しい石段で、お年寄の参拝者にはかなりきつそうだ。
 それにしても、周囲の木々はどれも立派である。霊域として古くから禁伐だったのだろう。スギやマツなどの針葉樹とシイ、タブ、クスなどの照葉樹がどれも巨木に育ち、そびえ立っている。「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されているそうだ。ツクツクボウシが鳴いている。

 「三本杉」と呼ばれる大木を見上げ、さらに登ると「子授けの楠」がある。注連縄が巻かれ、根元に穴の開いたクスノキで、その穴をくぐると子宝に恵まれるという霊木である。

 「子授けの楠」を過ぎると、すぐに色褪せた朱塗りの門。風神・雷神を祀った二天門。その門をくぐると、左手に売店があり、正面には観音堂がそびえ立っていた。

 ふつう、お寺の建物には「そびえ立つ」という表現は使わないものだが、笠森寺の本堂は本当にそびえ立っている。
 「四方懸造り」という日本で唯一の建築様式で、お堂は切り立った岩盤の上に建てられ、周囲にぐるりと回廊を巡らし、それをたくさんの長い柱が支えている。京都の清水寺の舞台がお堂の周りを360度取り巻いているような建築なのである。
 この観音堂は1028年、後一条天皇の勅願によって建てられたと伝えられているが、1960年の修理の際に見つかった墨書銘で桃山時代の再建であることが判明したという。いずれにせよ、松尾芭蕉も訪れ(句碑あり)、二世安藤広重が「諸国名所百景」の中にも描いた古くからの名勝である。

 階段の登り口で、靴を脱ぎ、上履きに履き替え、急な75段の階段を登ると、そこで拝観料100円を払う(ここが納経受付にもなっている)。
 笠森寺の境内そのものが小高い山の上にあり、お堂はさらなる高みに位置しているので、眺めがよい。
 西向きの堂内には本尊の十一面観音を納めた厨子の前の御前立ちの観音様、四天王、地蔵菩薩などの仏像が並び、なかなか見応えがある。また、頭上に渡された縄にたくさんのハンカチが結びつけられているのは、そうすることで観音様に願いが届くという信仰があるからだそうだ。


 ご朱印をいただき、房総の山並みを眺めてから、山を下って、麓の食堂で昼食。

 13時45分に出発。
 次の清水観音は、いすみ市(旧岬町)にあり、ここからだと茂原経由または大多喜経由で、どちらにせよ30キロほどある。今日は大多喜経由で行ってみよう。

 ところで、かつてこの土地に鉄道があった。南総鉄道といい、茂原を起点に1930年に笠森寺まで11.2キロが開業し、1933年には1キロ先の奥野まで延伸され、最終的には小湊鉄道の上総鶴舞をめざしていたそうだが、経営が苦しく、1939年には全線廃止となった短命の鉄道である。
 笠森寺の入口に石材店があったが、あとで調べると、そのあたりが笠森寺駅の跡地だそうだ。そして、笠森寺の前後の区間は現在の国道409号線が廃線跡と重なっているらしい。終点の奥野駅は先ほど、鶴舞からの細道が国道にぶつかったあたりにあったそうだが、それらしい痕跡はまったく気がつかなかった。そして、奥野〜笠森間にあった国道トンネルも昔の鉄道トンネルを改修したものなのだった。

 とにかく、それが昔の鉄道跡とはまったく知らずに国道409号線を東へ行く。すぐにトンネルが2つ連続していたが、これも鉄道トンネルを拡幅したものだとあとで知った。
 
 やがて人家が増えて、長南町の中心部にさしかかる(68年前まではここにも南総鉄道の駅があった)。ここで茂原へ通じる国道から県道147号「長柄・大多喜線」に入って、これを南へ下る。

 道は丘陵の間ののどかな農村地帯を行く。多少の起伏はあるが、大したことはない。
 それよりも、いつのまにか上空に雲が広がってきた。予報では今日は雨の心配はなさそうだったが、かなり怪しげな空模様である。まぁ、とにかく走るしかない。

 長南町役場前を過ぎ、少し行くと、路上に何やら動物が横たわっていた。車にはねられたのだろう。まだ新しい死骸である。タヌキかと思ったが、それにしては、やけに大柄で、尻尾には白黒の縞模様がある。アライグマだ。野生の個体は初めて見た。
 北アメリカ原産のアライグマは近年、各地で繁殖し、農作物を荒らすなどして問題になり、駆除が進められている。とはいえ、べつに彼らに罪があるわけではないし、こうしてアスファルトの上にうつぶせになって、血の海を広げているのを見ると、やはり哀れに思う。

 アライグマの悲惨な姿が目に焼きついて、なんだか重い気分のまま走り続けていると、やがて「熊野の清水」の案内板があった。そういう名水があるそうだ。これは地図にも載っていて、環境省選定「名水百選」にも指定されているらしい。脇道に逸れて、ちょっと寄り道。時刻は14時20分になるところ。
 入口に農産物直売所と蕎麦屋がある熊野神社の境内にその清水は湧き出していた。薄暗い崖下からこんこんと湧き出した水が木製の樋を通じてコイの泳ぐ池に注いでいる。


 ちょうど空っぽになったペットボトルに水を汲んで飲んでいると、あとからクルマでやってきた人たちは大量のポリタンク持参で、おばさんが水を汲んでは、おじさんがクルマに運ぶという作業を繰り返していた。
 ところで、この清水には昔、人々が干ばつで苦しんでいた時に諸国行脚でこの地を訪れた弘法大師空海の法力によって水が湧き出した、という各地によくある伝説が残っている。
 また、室町時代には約100年間にわたって鎌倉の鶴岡八幡宮の領地となり、この湧水が八幡宮直営の湯治場として利用されたという。そのため、この土地は湯谷と呼ばれ、「熊野の清水」の熊野も「ゆや」と読むのが正しいそうだ。
 一応、石段を登って神社にもお参りすると、拝殿に供えられたワンカップのお神酒の中でゴキブリが溺死していた。

 10分ほどで再び走り出し、県道に復帰。さらに南へ下ると、まもなく長南町から大多喜町に入り、小土呂トンネルをくぐって、坂を下ると、大多喜の街はずれの横山という土地で鶴舞で別れて以来の国道297号線にぶつかった。
 大多喜の市街には入らず、夷隅川を渡って、国道465号線へと左折し、東へ向かう。この道も1995年の夏のツーリングで走った道である。
 いすみ鉄道(大原〜上総中野)の線路が寄り添ってきて、大多喜町からいすみ市に入り、しばらくは鉄道と並行して、田園地帯を行く。
 途中、上総中川、国吉の各駅にも立ち寄り、国吉駅前を過ぎてまもなく国道とも線路とも別れて、県道154号線に入った。

(お寺と踏切のある風景)

(誰もいない上総中川駅

(猫のいる国吉駅

 相変わらずのどかな田園風景の中を坦々と走り、旧大原町と旧岬町(いまはどちらもいすみ市)の境の低い丘陵を嘉谷トンネルで越えると、まもなく清水観音の案内板があった。ここで右折して、15時35分に清水寺の駐車場に到着。ここまで笠森寺から31キロ、木更津をスタートして76キロ。

彼岸花の咲く静かな里。写真の小山の上に清水寺はある)

 駐車場に自転車を残し、スギやスダジイなどが生い茂る参道を歩いて登ると、あまりの急坂で、息が切れ、ふくらはぎが張ってきた。
 とにかく、やっと辿り着いた坂東第32番札所・音羽山清水寺。舞台造りで有名な京都の清水寺山号も寺号も一緒で、天台宗の寺。房総半島の片田舎にある、ちょっと立派なお寺といった風情だけれど、さすがは坂東の札所だけあって、僕のほかにも何組かが訪れていた。当然ながら歴史は古い。
 寺伝によれば、平安初期の延暦年間に伝教大師最澄上総国を巡錫中に熊野権現の導きにより京都・音羽の風景に似たこの土地を訪れ、庵を結んだのが始まりだという。その後、弟子の慈覚大師・円仁が訪れ、千手観音像を刻み、さらに蝦夷征伐へ向かう途中に坂上田村麻呂が立ち寄り、堂宇を建立したというのである。

 仁王門をくぐると、左手に納経所、正面に朱塗りの四天門(1822年建立)。その優美な門をくぐると、右には西国・坂東・秩父の百観音の写し本尊を祀る百体観音堂。ここには赤穂四十七士の像と閻魔大王像も安置されている。一方、左手には鎌倉期の十一面観音像を安置する奥の院堂。
 さらに石段を登ると、右に鐘楼。そして、寺名の由来にもなった「千尋の池」。渇水期でも決して涸れたことはないという池である。
 正面には本堂。このお寺は1481年と1813年に火災に遭っていて、この本堂は1817年の再建。堂内は薄暗くて、内陣の様子はよく分からなかったが、厨子に納められた本尊の千手観音像は1481年の火災で下半分を焼失したといい、秘仏である。 

 本堂を拝んだ後、納経所でご朱印をいただく。これで坂東33ヶ所のうち、32ヶ所を巡拝したことになる。あとは南房総の那古観音を残すだけとなったが、今日はこれでおしまいにする。

 16時に清水寺をあとにして、県道に戻り、あとは西陽を背に受けながら最終目的地のJR外房線長者町駅まで4.5キロ。しかし、せっかくここまで来たのだから、太平洋まで走って、海を見てから電車で帰ろう。
 長者町駅の北方で外房線の線路を越え、いすみ市岬町の中心市街を抜け、夷隅川にかかる国道128号線の江東橋に出て、そこから川沿いのサイクリング道路を海へ向かって走る。

 釣人や家族連れが多い夷隅川河口南側の海岸には16時半に着いた。すぐ北側には断崖に囲まれた太東崎。白い灯台が見える。
 今日の太平洋はやけに荒れていて、沖に並べられたテトラポッドにかみつく波が数メートルもの飛沫を上げている。海をバックに愛車の記念写真を撮ってやった。


 16時45分に浜辺をあとにして長者町駅へ。街なかに金木犀の香りが漂っているのにこの秋初めて気がついた。

 …と、これでおしまいならよかったのだが、長者町駅に16時55分に着くと、電車はほんの数分前に出たばかりで、次の電車まで1時間近くも間があることが分かった。
 そんなに待つのなら、と北隣の太東駅まで走る。途中で田園風景の彼方に沈む夕陽を眺め、17時15分に着いた。木更津からの走行距離は94キロになった。

 ここで自転車を分解して袋に収納し、17時51分発の電車で帰る。