水谷千秋『謎の豪族 蘇我氏』

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

謎の豪族 蘇我氏 (文春新書)

 日本の古代史における蘇我氏というと、天皇を凌ぐほどの権勢を振るい、大化の改新に先立つ乙巳の変中大兄皇子らによって滅ぼされた逆賊的なイメージが強く、僕も学校で日本史を習った当時はそんな風に思っていた。授業で蘇我入鹿の名前が出た時に誰もがイルカを連想して、クラスに笑いが起きた、そんな記憶がある。入鹿の祖父・蘇我馬子の名にも同じく笑いが起きたと思う。どちらもイルカとかウマとか現代的な感覚からは珍妙な名前に思えて笑ったわけだが、蘇我氏の悪者イメージがことさら嘲笑に繋がったと言えるかもしれない。
 もちろん、こんな一方的な歴史観はその後、修正され、今の歴史教科書ではもう少し公平な見方に改められているはずで、蘇我氏を単なる悪逆の徒とみなすのは古い歴史観に違いない。
 蘇我氏に対してそんな昔ながらの印象を抱いたまま一生を過ごしても何も問題はないが、僕の中ではいつの頃からか、蘇我氏、なかでも馬子が政治家としてちょっと気になる存在になったのも確かで、もう少し蘇我氏について知りたいと思うようになった。そんな時にこれはよい入門書だと思う。
 当時の文献を丹念に読み込み、先行研究も幅広く視野に入れつつ再検討を加え、古代日本において一時代を築き、またたく間に滅んだ蘇我氏に新たな光を当てようとする試み。ここでは明確な記録の残る稲目・馬子・蝦夷・入鹿の4代を中心に取り上げている。
 蘇我氏といえば、仏教伝来時に天皇家や他の豪族に先がけて逸早くこれを受容し、最初の本格的仏教寺院を創建したほか、軍事や土木建築、行財政の実務能力に秀でた渡来人を配下に従えていたことから蘇我氏も渡来人であるという説があるが、著者はこれを否定しつつ、謎の多い出自に迫り、大和国高市郡曾我を本拠とする豪族だったと推測する。
 その蘇我氏が歴史の舞台に本格的に登場するのは6世紀初めごろから。武烈天皇崩御後、天皇家断絶の危機に際し、都から離れた近江の湖北地方出身で「応神天皇の五世孫」と称する継体天皇を擁立するにあたって蘇我稲目が一定の功績をあげて頭角を現し、その後の後継争いでも欽明天皇の即位に尽力し、同天皇に稲目の2人の娘を嫁がせて、天皇家外戚として地位を高めたようだ。その後、大伴氏が没落し、ライバル物部氏も滅ぼすと蘇我氏は大和政権を完全に主導するようになった。
 従来の天皇家という絶対的権威に近づくことによって蘇我氏の地位も上昇したという見方に対して、王権が弱体化する状況において、大陸の先端的な知識や技術をもつ渡来人たちを従える蘇我氏に支えられた「蘇我氏あっての王権」という全く逆の図式を提示しているのが興味深い。
 それは稲目の子、蘇我馬子が甥にあたる崇峻天皇と対立すると、天皇を暗殺するという前代未聞の事件を起こしながら、大きな問題になっていないのも蘇我氏の権勢が天皇を凌駕するほどに高まっていたことを物語っているのだろう。
 蘇我馬子といえば、彼の姪にあたる推古天皇のもとで摂政厩戸皇子とともに政権を担当し、のちに厩戸皇子聖徳太子として神聖化される中ですべてが太子の業績とされたものの、実際は政権の主導権は馬子が掌握していたようだ。
 著者は蘇我氏が二つの貌を持っていたという。ひとつは大和政権の政治・経済・軍事の実務に携わる渡来人集団を率いる官僚組織のトップとしての貌。この点において、蘇我氏の存在がなければ政権は成り立たなかったわけだ。
 もうひとつが豪族としての貌。馬子以降、有力豪族として天皇家を凌ぐまでに力を高めたが故に蘇我氏は滅ぼされたということになる。
 厩戸皇子蘇我馬子の共同政権の成果がすべて「聖徳太子」の業績として歴史に残ったように、蘇我氏が渡来人を通じて取り入れた先端的な技術や仏教といった大陸文明、戸籍制度や官僚制、蘇我氏が育て上げた飛鳥という都市、そのような成果が「大化の改新」によってすべて「横取り」されたという松本清張の指摘も興味深い。蘇我氏の配下にいた渡来人もまた新政権によって「横取り」されたわけだ。大化改新から律令国家の成立へと進む古代日本の基礎は蘇我氏によって築かれたといってもいいのかもしれない。
 古代史というのは分からないことだらけだが、だからこそ面白い。この時代のことをもう少し知りたくなったし、この水谷千秋氏の著作ももう少し読んでみようかと思う。

東京国立博物館法隆寺宝物館にある7世紀ごろの金銅仏。渡来人が作ったのか、あるいは仏像そのものが朝鮮半島から渡来したものなのか…)