喜多見の里

 世田谷区喜多見は区内でも農村時代の面影を残し、歴史遺産も多い土地である。
 喜多見の古道「いかだ道」と「中通」の交差点にある地蔵尊庚申塔

 その傍らには「念仏車」。石柱の中に六角形の車がはめ込まれ、各面に「南無阿弥陀佛」の文字が書かれている。念仏を唱えながらこの車を一回転させる毎にお経を一巻読むのと同じ功徳があるという。地元の「女念仏講中」の人々が文政4(1821)年に建立したものだという。

 「南」の文字が読める。

 「陀」「佛」の文字が見える。

 多摩川沿いの低地と武蔵野台地の間の段丘上に位置する喜多見には古くから人が住みついており、多くの古墳が残っている。
 稲荷塚古墳。
 横穴式石室をもつ円墳で、古墳時代後期7世紀の族長墓とみられている。圭頭太刀、鉄鏃、耳環などの副葬品が発掘されている。


 その稲荷塚古墳より古い第六天塚古墳。古墳時代中期の5世紀末〜6世紀初頭の築造。江戸後期の『新編武蔵風土記稿』によると、江戸時代には塚の上に第六天が祀られ、松の木が生えていたというが、この松は大正時代に伐採され、今は竹が密生している。

 ちなみに第六天とは仏教では欲界の六欲天の最高位に位置する他化自在天(たけじざいてん)のことで、他人の快楽を自らの喜びとし、人々を悦楽に耽るように仕向けることで仏道の修行を妨げる魔王と考えられた。一方で、その強大な魔力ゆえに密教、とりわけ修験道で信仰されたともいう。また、比叡山延暦寺を焼き打ちし、本願寺一向宗門徒とも戦うなど仏教勢力の制圧に乗り出した織田信長が自らを第六天魔王と称したこともよく知られている。その第六天がこの地に祀られていたわけだ。
 第六天魔王はもとはヒンドゥー教シヴァ神が仏教に取り入れられたものだともいうが、日本では神仏習合し、さらに明治以降の神仏分離廃仏毀釈の流れで仏教から切り離され、神道における神代七代のうち神々がはじめて男女に分かれた第六代「面足命・惶根命(オモダルノミコト・カシコネノミコト)」の両神を第六天として祀るようになった。
 いずれにしても、強大な魔力をもつ第六天が災難を除ける存在として信仰の対象になったり、神道の男女神と同一視されたことで縁結びや夫婦和合の神となったり、さらには第六天魔王が人間の1,600年を1日と数えて1万6,000歳の寿命を持つということから、長寿をもたらす神ともなったと思われる。一方で、祟る神として恐れられてもいたようで、世田谷区内でも第六天を祀る場所の樹木を伐るとケガをしたり死んだりするとか、その跡地を農地にしても作物が育たない、といった話が伝わっている。
 その第六天。区内では喜多見のほかに大蔵、岡本、用賀に祀られていて、今は移転しているものもあるが、旧地はなぜかほぼ一直線に等間隔で並んでいる。なかでも岡本の第六天は今は岡本八幡神社に遷座しているが、跡地を通る道路がそこだけあまりに不自然な急カーブで避けて通っているから、現代まで祟り話は生き残っているようだ。

 さて、喜多見は江戸を開発した江戸氏が戦国期に江戸の地を太田道灌に譲って移り住んだ土地であり、江戸時代には喜多見藩が存在した地でもある。江戸氏は徳川家の旗本に取り立てられると喜多見氏と改め、その後、大名に列するまでになり、喜多見藩主として慶元寺前に陣屋を構えたが、元禄2(1689)年に一族の刀傷事件が原因で改易され(改易理由については異説もあり)、喜多見藩は廃された。
 第六天塚古墳に隣接する須賀神社は古墳だったといわれる塚の上に社殿が建つ。江戸氏の後裔、喜多見重勝が承応年間(1652−54)に居館内の庭園に勧請したのが始まりだという。ムクノキやケヤキの大木に囲まれたこの小さな社は8月の湯花神事で知られる。大釜で沸かした湯を笹の葉をつかって振り撒き、湯がかかると無病息災でいられるという素朴な民間信仰。世田谷区の無形文化財に指定されている。




 神木にはカラスやヒヨドリにまじってワカケホンセイインコも。木にいくつも洞があるので、ねぐらにしているのだろう。

 喜多見氏の菩提寺、慶元寺。もとは平安末期の文治2(1186)年に江戸の紅葉山(現在の皇居内)に江戸太郎重長が創建した東福寺が始まりで、その後、江戸氏とともに喜多見の地に移ってきたわけだ。境内にはたくさんの小さな古墳があるという。

 慶元寺の三重塔。

 慶元寺の西には奈良時代天平12(740)年に創建との伝承を持つ氷川神社。古墳がたくさんある地域なので、その時代から神社があっても不思議ではないが、多摩川の洪水により古い記録は失われており、確かなことは分からない。その後、江戸氏(喜多見氏)によって再興され、樹林に囲まれた長い参道に立つ二の鳥居は承応3(1654)年に喜多見重勝・重恒兄弟が寄進したもので、世田谷区内では最古のもの。

 二の鳥居。


 今回は時間がなくて、じっくり見られなかったが、また機会を改めて喜多見探索をしてみようと思う。