水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』

謎の渡来人 秦氏 (文春新書)

謎の渡来人 秦氏 (文春新書)

 日本の古代史における「秦氏」というと、中国・朝鮮半島方面からの渡来系豪族で、関東に住む人間としては、神奈川県の秦野市も昔、秦氏が移住し開発したことに由来する地名らしい、ということをなんとなく知っているぐらいだったが、秦氏とは古代日本において最大の人口を誇り、関東から北九州まで各地に広く分散して居住した氏族であったらしい。
 著者の水谷氏は秦氏を専門的に研究しているわけではないが、多くの文献を渉猟しつつ、文献史学の観点から先行研究にも検討を加え、謎に包まれた秦氏の実像に迫ろうとする試みで、また本書では秦氏に縁のある土地に実際に出かけていく紀行的要素も加わっているのが特徴といえる(ちょっと中途半端にも感じるが)。
 さて、朝鮮半島から多くの人々を引き連れて日本列島に渡ってきた秦氏の出自については、中国・秦の始皇帝の後裔と称していたともいうが、著者は中国・秦の遺民と称する人々を中心に朝鮮半島各地の人々も含んでいただろうと推測している。つまり秦氏とは多くの人民を従えて日本列島に渡来した、いわば「植民団」のようなものか。その後、列島各地に分散し、地元農民たちをも配下に加えて勢力を拡大しつつ、その先進技術を駆使して農業、養蚕や機織り、酒造り、鉱山開発、水運や馬による商業活動などに従事し、その高い経済力に基づく貢納によって財政の拡大に寄与して、大和政権にとっても無視できない存在になったようだ。
 その秦氏の本拠地となったのが山背国、今の京都市とその周辺。京都市東部の深草と西部の桂・嵯峨・太秦地域(太秦秦氏との関係が深い地名)であり、いまでもしばしば氾濫する桂川の治水工事なども行ったという。伏見稲荷神社や松尾大社も古来、秦氏氏神として奉斎した神社であり、また弥勒菩薩半跏像で有名な太秦広隆寺の前身、蜂岡寺も聖徳太子の側近だった秦河勝聖徳太子から譲り受けた仏像(これが同寺に二体伝わる弥勒菩薩像のうちの一体か?)を本尊として創建したという。
 聖徳太子の長男、山背大兄王はその呼称から山背国の秦氏のもとで養育された可能性を著者は指摘しているが、山背大兄王一族が蘇我入鹿に滅ぼされた時、秦氏は王を救うために動くことをせず、いわば見放す形で、以後、中央政界から距離を置くようになる。
 当時の政治の中心地からはずれた山背地方の開発を進め、今の京都市一帯をなかば領国化していた秦氏と中央政界が再び接近するのは言うまでもなく平城京から長岡京、そして平安京への遷都によってであった。
 遷都を断行した桓武天皇は渡来系豪族の女性・高野新笠を母に持つ異色の天皇であり、秦氏をはじめ多くの渡来系豪族が根付いた土地に都を遷し、さらに渡来人を政権に重用する(たとえば坂上田村麻呂も渡来系)。自らの即位時にも中国風の即位儀礼を行ったという。
 当時の考えに従えば、渡来人の血を引くという事実は天皇として確実にマイナス要素だったはずの桓武天皇が古い都を棄て、遷都にこだわった背景には天命思想があるという。
 天智天皇の後、壬申の乱を経て、天智の弟、天武天皇の系統が続いてきたが、孝謙(称徳)女帝を最後に途絶えると、天智の孫、光仁天皇が即位。ただし、光仁の皇后は天武系の井上内親王聖武天皇の娘)であり、その息子の他戸(おさべ)親王が皇太子であった。ところが、この皇后と皇太子は突然、地位を剥奪され天皇を呪詛したという罪で逮捕・監禁され、3年後に同時に亡くなった。代わりに皇太子となったのが山部親王、のちの桓武天皇なのであった。そこには凄惨な権力闘争の匂いがするが、とにかく桓武は自らの即位を「革命」ととらえ、天武系の都・平城京にかわる天智系の新しい都の造営を考えたのだろうという。そして、その遷都先は秦氏の開発した土地なのであった。
 実際、長岡京への遷都事業には多くの秦氏関係者が参画している。長官の藤原種継の母も秦氏の女性だった。
しかし、種継は何者かに暗殺されてしまう。種継暗殺への関与を疑われた皇太子の早良親王桓武の弟)は自殺に追い込まれ、桓武はその怨霊に悩まされることとなる。そのせいか、桓武長岡京をあっさりと廃して同じ山背の葛野(かどの)の地への再遷都を決め、新都を「平安京」と名づけた。同時に山背国は「山城国」と改称された。
平安京の造宮職長官もまた秦氏の女性を母に持つ藤原小黒麻呂が任じられている。桓武天皇の強力な指導の下、政界の実力者・藤原氏の中でも秦氏と関係の深い人物が中心となり、財政面も含めて秦氏の協力を得ながら遷都事業を推進したということなのだろう。ちなみに平安京大内裏秦河勝の邸宅跡であるという伝承もあるそうだ。
こうして桓武天皇平安京で新たな政治を始めるが、渡来系豪族を優遇し、渡来系豪族の娘を娶ったりもするなかに秦氏の名前はほとんど見られなくなる。これを著者は政治の前面には出ない、という秦氏の禁欲主義が貫かれた結果ととらえている。
再び政治の表舞台から消えた秦氏であるが、その後裔を称する氏族は幅が広く、能楽の大成者・世阿弥の元の名は秦元清であったし、薩摩の大名・島津氏も秦氏の後裔であるという。
 最後に著者は秦氏をあえて蘇我氏と比較して、秦氏蘇我氏のように権力に近づくことせず、山背を本拠に、各地にも勢力を広げ、地域開発、経済活動に専念し経済基盤を築いていったことが地味ながらも息の長い繁栄に繋がったという。
 また、宗教に関して、いたずらに外来の神々を持ち込むのではなく、定着した先の土着の神を尊重し、対立より共存共栄をはかる合理的・現実的な態度が特徴的であり、一方で古くて因習的な信仰からの脱却を図る文明的・現実主義的な世界観も持ち合わせていたと指摘し、その影響は現代の日本人にも及んでいるという。
 ところで、7世紀に書かれた中国の『隋書』倭国伝に九州の「竹斯国」(筑紫国=いまの福岡県)の東に「秦王国」があり、そこに住んでいるのは中国人と同じであるという記述があるという。中国から日本列島を訪れた人がその土地の住人を自分たちと同じ中国人と認識したということは中国風の風習が見られたという事でもあるだろうが、何よりも彼らが中国語を話していたということなのだろう。こういう渡来人たちも日本人のルーツであることには変わりがない。
 この「秦王国」の位置については諸説あるようだが、著者は豊前(福岡東部〜大分北部)と考えている。実際、8世紀初めの戸籍によれば、この地方は人口のほとんどを秦氏の関係者が占めていたという。
 中国や朝鮮半島から人がどんどん流入して、在来の倭人と混血を繰り返しながら今の日本人ができあがったわけだが、日本人や日本という国の成り立ち以上に日本語という言葉は一体どのように成立したのだろうか、と思う。当時の日本人はどんな言葉を話していたのだろう?