「春の小川」記念碑

 1912年に発表された文部省唱歌「春の小川」はかつて東京・渋谷区を流れていた小川がモデルになっているというのはわりとよく知られた話だろう。正確には渋谷のど真ん中を流れる渋谷川の支流・宇田川のさらに支流の小さな流れがモデルとされ、その小川はコウホネが自生したことから河骨川と呼ばれている。
 作詞者で国文学者の高野辰之(1876-1947)が当時、今の渋谷区代々木3丁目(当時の豊多摩郡代々幡村代々木山谷)に住んでいて、近所を流れていた小川に着想を得て、この歌を作詞したというわけである。その頃はまだ、あたり一帯には現在では信じられないような、のどかな田園風景が広がっていたのだ。
 もっとも、歌詞に具体的な地名が出てくるわけではないので、高野が作詞したその他の作品「故郷」「もみじ」「朧月夜」などと同様に、彼が生まれ育った信濃の風景をはじめ、当時の日本ではどこにでもあった美しい風景を歌詞にしたということなのかもしれないけれど。
 とにかく、誰もが知っているあの歌の舞台が渋谷区内を流れていた小川である(らしい)という事実の意外さゆえに、話題になりやすいのだろう。
 当然ながら、歌詞に出てくるような風景はもはや存在せず、河骨川も1964年の東京五輪を前に暗渠化されている。それ以前から周辺の宅地化の進行により、もともとは付近の湧水を集めて流れていた川に生活排水が流れ込み、相当な惨状になっていたはずだ。
 今では昔日の面影はまるで残っていないが、小田急参宮橋駅代々木八幡駅の線路沿いの川跡に記念碑が立っている。


 歌碑に刻まれた歌詞は作詞当時のもので、多くの人が馴染んだものとは異なっている。

 春の小川はさらさら流る
 岸のすみれやれんげの花よ
 にほひめでたく色うつくしく
 咲けよ咲けよとささやく如く
   高野辰之作詞
   岡野貞一作曲

 川跡沿いの電柱には「春の小川」の源流へと導く看板が出ている。



 今は下水道になってしまった「春の小川」。これが社会の進歩ということなのだろう。




 この看板に従って歩くと、水源にたどり着くが、そこはマンションになっていて、もはやまったく何もない。ただガッカリするのみ。

 かつては旧土佐藩主山内家の屋敷があり、庭園に湧水の池があったという。その池の名残は平成の世まで残っていたらしいが、マンション建設により完全に消滅。
 この土地のあちこちに存在した湧水が台地を刻んだ起伏の激しい谷戸地形だけが過ぎ去った時代を物語っている。

春の小川はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史 (フィールド・スタディ文庫6)

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