常盤伝説

 世田谷に残る伝説に常盤の悲話がある。江戸時代の『名残常盤記』に書かれた話で、写本によりいくつかのヴァリエーションがあるものの、大体こんな感じである。
 戦国時代の世田谷領主だった吉良氏(足利氏の支族)の第7代・吉良頼康には13人の側室がいたという。そのうちのひとりが常盤で、今の九品仏・浄真寺(世田谷区奥沢)の地にあった奥沢城主・大平出羽守の息女だった。頼康は美しい常盤をひときわ寵愛し、常盤が頼康の子を身ごもると、これに嫉妬したほかの側室たちが共謀して常盤のお腹の子は頼康の子ではないというような讒言を頼康の耳に入れ、頼康も常盤を疑うようになる。
城にいられなくなった常盤は死を決意して城を脱し、その際、まだ奥沢城にいた頃から可愛がっていた1羽の白鷺の足に両親に宛てた遺書を結び付けて放ち、鷺は奥沢城の方角へ飛び去った。その鷺をたまたま奥沢城付近で狩りをしていた頼康が射落とし、常盤の遺書を見つけ、常盤への疑念は晴れたものの、頼康が急いで城に帰った時にはすでに常盤の姿はなく、彼女はもうこの世の人でもなかった。深く悔いた頼康は常盤終焉の地に近い駒留八幡(世田谷区上馬)に常盤のお腹にいた胎児を若宮として祀り、その境内に常盤の霊を弁財天として祀った。
常盤の白鷺が射落とされた奥沢の地にはまるで鷺が舞うような姿の白い花が咲き、鷺草と名づけられた。
 また、讒言をした12人の側室は処刑され、12の塚に埋められた。

 まぁ、こんな話だ。
 上馬5‐30‐19には常盤を埋葬したという塚があり、世田谷区指定史跡となっている。史実に基づいた史跡というより、世田谷に残る有名な伝説に関連する地としての史跡指定といえるだろうか。

 住宅街の中にひっそりとある常盤塚。塚石は昭和58年の再建。処刑された側室たちを埋めたという塚は現存せず。
 また、近くを通る世田谷通りには常盤が自害、あるいは殺害された場所という常盤橋の跡があるが、ここには何の案内もない。小川も埋められ、水路跡(烏山川の支流)は緑道になっている。

 橋跡近くの側溝のふたには「世田谷区の花」に選ばれている鷺草(ラン科)があしらわれている。ただ、これは区内ではどこでも見られるものではある。

 『江戸名所図会』に描かれた常盤橋。世田谷通りの200年ほど前の風景。こんな小さな橋が一応、名所だったということか。

 常盤の子を合祀している駒留八幡神社

 その境内にある厳島神社。常盤の霊を弁財天として祀っている。

 水のない池の傍らには常盤橋の遺構が保存されている。明治以降のものか。文字は「常盤橋」ではなく「常磐橋」。

 常磐伝説のどこまでが史実で、どこからが作り話なのか分からないが、世田谷通りが環状7号線(環七)のアンダーパスを越える陸橋が常盤陸橋と命名されているように、伝説は今も生きている。

(きょうの1曲)Pierre Moerlen's GONG/Emotions