三軒茶屋の道標

 現在の国道246号線都心部では青山通り、渋谷以西では玉川通りなどと呼ばれるが、その元となった道は昔、矢倉沢往還と呼ばれていた。矢倉沢とは箱根の北にある足柄峠の麓にあった関所の所在地である。古代の東海道は箱根峠ではなく足柄峠を越えていたのだ。
 その矢倉沢往還は世田谷区の三軒茶屋から今の世田谷通りに入り、世田谷区世田谷のボロ市通り(戦国時代の世田谷宿)を経由して二子の渡しへ行き、多摩川を越えていた。
 江戸時代に入ると、矢倉沢往還は相模の大山へ行くための道として大山道と呼ばれるようになった。江戸の町人文化が成熟期を迎えた文化文政時代(1804年‐1830年)には信仰と行楽を兼ねた大山参詣がますます盛んになり、二子への近道として世田谷を経由しない新ルートが開かれた。それが現在の玉川通りである。新旧の大山道の追分には信楽(石橋楼)、角屋、田中屋という3軒の茶屋があったことから三軒茶屋という地名が生まれた。ただし、三軒茶屋が正式な町名になったのは昭和7年に世田谷区が成立した時のこと。

(現在の三軒茶屋。左が玉川通り、右が世田谷通り。ついでに右折は茶沢通り)

 とにかく、三軒茶屋の追分に立派な道標がある。本来は渋谷方面に向いていたのが、現在は横を向いてしまっているが、正面には「左 相州道 大山道」と彫られ、左側面には「右 富士 世田谷 登戸道」と刻まれている。右側面には「此方 二子通」とある。

 そして道標上部には不動明王の石像が鎮座している。大山が不動信仰の霊場だからだろう。


 この道標が建立されたのは寛延2年、つまり1749年のこと。そして文化9年、つまり1812年に再建されたという。近道の新大山道ができたのが文化文政時代であるならば、それ以前の1749年に建立された道標とはどんなものだったのだろうか。

(きょうの1曲)Franco Battiato/Summer on a Solitary Beach