勝光院

 世田谷区桜1丁目にある延命山勝光院。南北朝時代建武2(1335)年、初代世田谷領主・吉良治家の開基と伝えられ、当初は竜鳳寺といい、次いで興善寺と改め、その後、中興開基・7代頼康の法名にちなんで頼康の養子・氏朝(8代=最後の世田谷城主)が勝光院と改称し、同時に臨済宗から曹洞宗に改宗した。
 戦国末期、小田原北条氏の滅亡と同時に清和源氏の血を引く足利一族の名門・吉良氏も没落するが、江戸に入った徳川家康は勝光院に寺領30石の朱印状を与えるという破格の待遇をする。徳川家も源氏の後裔と称していた関係か。かつての世田谷村桜木が勝光院領で、今は世田谷区桜1丁目となっている地域である。
 世田谷を離れた吉良氏も徳川家の旗本として上総国に領地を得て存続し、その後も旧領である世田谷の勝光院を菩提寺とした。境内には江戸時代以降の吉良氏の墓所がある。
 勝光院参道。


 吉良家の墓所

 地蔵尊。背後の竹林は「せたがや百景」にも選定されている。

 勝光院は世田谷城からは烏山川の低湿地帯をはさんだ南西側の台地上に立地し、戦時には西からの敵に備える砦としての役割もあったと言われる。この竹林も吉良氏が敵の視界を遮り、進軍を妨げるために城の周辺各所に竹を密植したという名残かもしれない。
 梵鐘。元禄11(1698)年の制作。第二次世界大戦中に供出させられたが、鋳つぶされずに終戦を迎えた。

 本堂。本尊は虚空蔵菩薩