大山(前編)

 神奈川県の大山(標高1,252m)へ行ってきた。
 丹沢山系の東南端にそびえるなだらかなピラミッド形の大山は古くから祭祀の場となった霊山で、またの名を「雨降(あふり)山」ともいい、これは山が常に雲や霧を生み、雨を降らすことに由来すると言われ、雨乞い信仰でも知られている。山頂には平安時代延喜式神名帳にも記載された古社で、大山祇神オオヤマツミ)を祀る阿夫利神社が鎮座し、さらに奈良・東大寺の開山(初代住職)として知られる良弁(ろうべん)僧正(689‐773、相模国出身説あり)が天平勝宝7(755)年に入山して不動明王を本尊とする雨降山大山寺を創建。その後、神仏習合して修験道霊場となり、山頂に祀られたご神体の霊石にちなみ、「石尊大権現」と称されるようになった。江戸時代には関東各地に大山講が組織され、大山詣が盛んとなり、現代でも社寺参詣や登山ハイキングで人気の山である。

伊勢原駅から見た大山)
 小田急線の伊勢原駅から大山ケーブル行きのバスに乗り、終点の一つ手前の良弁滝バス停で下車。ここには良弁僧正が大山に入山して最初に水行を行った良弁滝があり、傍らには良弁43歳の時の姿を刻んだという坐像を安置する開山堂がある。

 良弁滝は高さ一丈三尺。4メートル弱で、竜の口から水が落ちている。

(開山堂)
 かつて大山講の人々は良弁滝や少し下流愛宕滝などで禊をしてから大山登山を開始したが、もちろん、僕は滝を見るだけである。
 良弁滝からはバス通りを離れて、「豆腐坂」の名がある旧道を行く。豆腐は大山の名物で、夏山の時期に参詣者が奴豆腐を手のひらにのせて歩きながら食べ、のどの渇きをを癒したことからその名がついたという。
 道沿いにも豆腐料理の店や「先導師○○」と書かれた宿坊・旅館が並んでいる。戦国時代、大山の修験者は武装集団と化しており、豊臣秀吉の小田原攻撃の際には北条氏に味方したため、徳川家康が関東に入ると、修験者たちは武装解除の上、下山を命じられた。彼らは大山の麓に居住し、宿坊を開いて門前町を形成し、御師となって関東一円に大山信仰を広めて歩いた。その布教と営業を兼ねた活動により、各地にたくさんの大山講が成立したわけだ。その御師が明治に入ると、先導師と呼ばれるようになり、それぞれの宿坊には縁のある講の名を朱文字で彫った石柱が並んでいる。


 旧道はまもなく新道と合流し、ここからは「こま参道」を行く。古くから土産物として知られた大山独楽を描いたタイルを埋め込んだ石段で、両側に宿坊や旅館、豆腐料理や猪鍋を出す食堂、土産物屋が並んでいるが、年末でひっそりとしている。年が明ければ、大変な賑わいになるのだろう。石段は362段あるそうだ。

 こま参道を登りきると大山ケーブル駅で、ここからはケーブルカーがあるが、僕は乗らずに歩いて登る。ここで標高は400メートルだそうだ。


(お堂の右が男坂、左が女坂)
 さらに石段を登ると、八意思兼(やつごころおもいかね)神社があり、ここで登山道は男坂と女坂に分かれる。男坂は距離は短いが急な石段が続き、見どころも少ないらしい。女坂は途中に大山寺があるので、こちらを選ぶ。
 女坂には「七不思議」というのがある。その1は「弘法の水」。弘法大師が岩に杖を突いたら水が湧き出たといい、夏でも水が涸れることがなく、水量も変わらないという。

 その2「子育て地蔵」。最初は普通のお地蔵様だったが、いつのまにか童顔に変わっていたという。このお地蔵様に祈願すると、子どもがすくすくと育つそうだ。

 その3「爪切り地蔵」。弘法大師が一夜のうちに手の爪だけで彫ったというお地蔵様。何事も一心に集中努力すれば実現できる教えだそうだ。

 ふーん、と思いながら、そのお地蔵様を眺めていると、左下の沢でガサガサと音がして、見たら、シカがいた。

 すっかり冬毛に変わったメスだ。死角になっていた斜面下にもう1頭いて、僕に気づくと、驚いたように逃げていく。つられて、もう1頭も逃げ、白い尻を見せながら斜面を駆け上がり、十分に距離をおいたところで、足を止めた。

 野生のシカに遭えただけでも、歩いて登ってよかったと思う。

 さて、七不思議のその4は「逆さ菩提樹」。幹が上に行くほど太くなり、逆さまに生えているように見えるというが、今の菩提樹は二代目だそうで、上に行くほど細い。普通だ。

 そうやって、登っていくと、前不動の古色蒼然としたお堂がある。

 前不動を過ぎると、まもなく長い石段が現れる。両側に童子像が並んでいる。色あせたモミジがまだ葉を落とさずに頭上を覆う石段を登っていくと、大山寺だ。もとは標高700メートルほどの現在の阿夫利神社下社の位置にあったそうだが、明治初期の神仏分離によって、現在地に移されたとのこと。


 本日は本尊の不動明王像が御開帳されていた。鎌倉時代の文永11(1264)年に鎌倉大楽寺の願行上人が鋳造した鉄造の不動明王で、その時々の将軍家から武士、庶民に至るまで広く崇敬されたお不動様だ。
 明治初期の廃仏毀釈の時には仏像を破壊しようと暴徒が押しかけたところ、お不動様の形相が血も凍るような恐ろしいものに一変していたといい、あまりの恐ろしさに誰一人として手を出せず、破壊を免れたそうだ。大山寺の再建が逸早く許されたのも、お不動様の怒りを早く鎮めなければ、と誰も再興に反対しなかったからだという。



 その不動明王像や五大明王など、内陣に安置された貴重な仏像を拝観し、龍神をまつる池などを眺めて、初詣の準備で慌ただしく、いくらか雑然とした大山寺をあとにさらに登る。
 すぐに「女坂の七不思議」その5の「無明橋」。話をしながら橋を渡ると、橋から落ちたり、忘れ物、落とし物をするなど災いが起きるという。黙って渡ったので、何も起こらず。

 橋のそばに「山寒し心の底や水の月」という芭蕉の句碑があった。

 さらに登ると、七不思議のその6。「潮音洞」。崖に小さな洞があり、近づいて心を静め、耳を澄ませると、遠い潮騒が聞こえるという。木々を揺らす風の音と野鳥の声が聞こえるばかり。

 七不思議その7は「眼方石」。人の眼の形をした石に触れて祈願すれば、不思議と眼の病が治るという言い伝えがあるというが、どれがその石なのかよく分からない。岩の上に観音像が立っている。

 女坂も終盤は急な石段が続き、冬だというのに、額から汗が流れる。そして、男坂と合流し、茶店などが現れると、標高700メートルほどの阿夫利神社の下社だ。ケーブルカーの終点もここである。

 振り向けば、眼下に相模平野。その向こうに相模湾。江の島も三浦半島もその向こうに房総半島も見える。


 きらめく海に伊豆大島も浮かんでいる。

 江戸時代、江戸から大山へ詣でた人々はその後、藤沢・江の島へ出て、鎌倉を見物して帰るのが定番コースだったという。山の上からこれだけはっきり海に浮かぶ江の島が見えれば、それは行ってみたくなるだろうな、と思う。ここから江の島までは40キロほど。江戸の人にとっては大した距離ではなかったのだろう。
 さて、一休みした後、ここから標高1,252メートルの山頂をめざして、さらに登るわけだが、長くなりそうなので、後編に続く。