藤蔵と勝五郎の道を歩く(1)

 「自分」という存在は物理的な「身体」(肉体)と非物理的な「精神」(心、意識、魂)から成り立っている。両者は常に一体なのだろうか。肉体の誕生とともに精神も芽生え、肉体の死とともに精神も滅びるのだろうか。肉体が一回限りの存在であるのと同じように、魂も一回限りの存在なのか。

 そんなことをあれこれ考えることがたまにある。
 たとえば、母が少女時代に伊豆で海水浴をしていて波にのまれて溺れかけたという話は何度も聞かされたが、「あの時は本当に死ぬかと思った」という母が実際にそこで命を落としていたら、自分はこの世に生まれていないのだと考える一方で、この肉体は生まれなくても、そのことを考えている「ぼく」の意識(魂)はどこかで別の母親から別の体とともに生まれているのではないか、などと想像してみたりもする。肉体と魂は一体なのか。それとも肉体と魂は別々の存在で、別の組み合わせもありうるのか。死んで肉体を失っても魂だけが生き続けるなんてことがあるのだろうか。

 こんなことはいくら考えても、答えを確かめる術はないわけだが、最近、東京都日野市の図書館で不思議な物語に偶然出会った。いわゆる「勝五郎生まれ変わりの物語」だ。今から200年ほど前、江戸時代後期の多摩地方が舞台である。といっても、民話でも伝説でもない。主人公は実在の人物であり、本人やその周辺からの証言に基づくリアルタイムの記録が複数残されているのだ。

 

 登場人物の一人は小谷田勝五郎(こやたかつごろう)。文化12(1815)年10月10日に武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)で父・源蔵と母・せいの間に生まれ、明治2(1869)年12月4日に55歳で亡くなっている。以下、年齢はすべて当時の慣習に従い、生誕時を1歳とし、全員が正月で1つ年をとる数え年で表記。

 もう一人の人物は須崎藤蔵(すざきとうぞう)。勝五郎より10年早い文化2(1805)年に中野村の北に隣接する多摩郡程久保村(現在の東京都日野市程久保)で父・藤五郎(久兵衛)と母・しづの間に生まれている。父・藤五郎は藤蔵が生まれた翌年、文化3年8月27日に48歳で亡くなり、その翌年、母しづと再婚した半四郎(須崎家に婿入り)が継父となり、藤蔵のことを大層可愛がったという。しかし、藤蔵は文化7(1810)年、疱瘡にかかり、2月4日の朝、わずか6歳で生涯を閉じてしまう。

 小谷田家と須崎家は隣村とはいえ、山を隔てて1里(4キロ)ほど離れており、縁もゆかりもないはずだった。

 ところが、勝五郎が8歳になった文政5(1822)年11月、姉に「お姉ちゃんはこの家に生まれる前はどこにいたのか」と問い、「生まれる前のことなんて知るわけがない」という姉に対して、自分は生まれる前は程久保村の藤蔵という子どもだったと言い出したのである。家族は初め信じようとしなかったが、おばあちゃん子だった勝五郎が祖母のつやに語ったところによれば、次のような話である。

 藤蔵は6歳の時に死んでしまったものの、魂だけが抜け出して、葬式で藤蔵の亡骸を入れた棺桶を山の墓地に運ぶ時は桶の上に乗っていた。棺桶を墓穴に下ろす際にドスンという大きな音がしたことを覚えている。その後、家に帰り、泣いている母親に声をかけたが、誰も気づかなかった。そのうち白いひげを生やした黒衣の老人がどこからともなく現れ、手招きされるままについていくと、そこはきれいな花が咲き、昼も夜もなく暑くも寒くもない場所で、藤蔵の魂はそこで楽しい日々を過ごす。たまには家に帰って、念仏を唱える声を聞いたりもした。供えてあるものを食べることはできなかったが、牡丹餅の湯気が美味しく感じられた。

 数日が経ったと思った頃、また白いひげの老人が現れ、3年が経ったから生まれ変わるのだといって連れてこられたのが勝五郎の生家だった。藤蔵の魂はしばらく竈の陰にじっと潜んでいたが、この時、勝五郎の母、せいが家計を助けるため江戸に奉公に出るという相談を父・源蔵としているのを聞いており、せいは実際に江戸へ行ったものの、身ごもっていることが分かり、中野村に帰ってきて、勝五郎を出産したのだった。

 勝五郎の前世の記憶は4歳ごろまでは非常にはっきりしていたそうだが、だんだん記憶は薄れてきたと後に本人が語っている。

 勝五郎の話を聞いた祖母つやが程久保村のことを知っている人たちに聞いてみると、実際に藤蔵という子どもが実在し、勝五郎が語った通りに6歳で疱瘡により亡くなっていたことが分かった。また、勝五郎が知るはずもない母親の江戸への奉公の話を聞いて知っていたことからも、家族は話が本当かもしれないと思うようになった。勝五郎が生まれ変わった少年だという話はあっという間に知れ渡り、勝五郎には「ほどくぼ小僧」というあだ名がつき、見物に来る人も現れた。勝五郎はそれを嫌がり、前世の記憶を語ったことを後悔したという。

 それでも、9歳になった勝五郎は程久保村の藤蔵の家を訪ねてみたい、死んだ父の墓参りがしたい、と祖母にせがむようになり、文政6(1823)年1月20日、72歳になった祖母とともに勝五郎としては初めて程久保村を訪れた。程久保川の清流に沿い、村の8割が山林という村は上流部が上程久保(上分)、下流部が下程久保(下分)と呼ばれ、中野村から寂しい山道を越えて上程久保に下ってくると、祖母が家はこのあたりかと尋ねた。勝五郎は「いや、もっと先だよ」と細い坂道をどんどん下っていき、やがて下程久保に入って「ここだよ」と迷うことなく一軒の農家に駆け込んでいった。

 まさにそこが藤蔵の生まれた家だった。藤蔵の母しづ(当時49歳)と継父の半四郎(50歳)は勝五郎に生きていれば18歳になっているはずの藤蔵の面影を見出し、死んだわが子が帰ってきたかのようだと驚くとともに大いに喜んだという。勝五郎は初めて来たはずの家の中のこともよく知っていて、向かいにある「たばこや」(屋号)の庭の木が昔はなかった、などと言い当てて、みんなを驚かせたりした。

 勝五郎の生まれ変わりの話は近隣の村にまで知られるようになり、やがて10里(約40キロ)離れた江戸にまで広まることになった。

 そのきっかけは一人の侍が中野村にある勝五郎の生家を訪ねてきたことだった。文政6年2月のある日のことである。

 侍の名は池田(松平)定常(1767-1833)。鳥取藩の支藩の元藩主で、号は冠山。わずか2万石の小藩の大名に過ぎなかったが、学問にすぐれた文人大名として知られ、隠居後は江戸で地誌の編纂などに力を注ぎ、古歌に詠まれた武蔵野の名所を考証した『武蔵名所考』を文政7年に刊行しているので、当時、多摩地域にも頻繁に出かけていたと思われ、その途中でたまたま勝五郎の話を耳にしたと推測できる。隠居の身とはいえ、元大名が片田舎の百姓の家をいきなり訪ねてくるなどということは極めて異例のことであるが、当時57歳だった池田冠山が勝五郎の話に強く惹かれたのには理由があった。

 冠山には8男16女と多くの子がいたが、なかでも冠山51歳の時に生まれた末娘の露姫を特に可愛がっていた。しかし、文政5年11月27日、勝五郎が前世の記憶を語ったのと同じ頃に露姫は藤蔵と同じく疱瘡に罹り、数え6歳で世を去ったのだった。失意のどん底にあった冠山はそれから間もなく、勝五郎の生まれ変わりの話を知り、自分の愛娘も同じように生まれ変わることを祈念し、自ら勝五郎の話を聞きに訪れたのだと思われる。

 しかし、いきなりやってきた立派なお侍に勝五郎は気後れして、うまく話ができず、代わりに祖母のつやが語った話を冠山は『勝五郎再生前世話』としてまとめ、これを友人・知人に見せたことで、江戸に広まる大きなきっかけになったようである。この時に写本も数多く生まれている。

 こうして騒ぎが大きくなると、中野村領主の旗本・多門伝八郎も荒唐無稽な話と捨て置くことができなくなったのか、源蔵・勝五郎父子を4月5日に江戸に呼び出し、話を聞いて、調書を幕府の御書院番頭に提出している(「多門伝八郎届出書」)。いわば公文書に記録されたことになる。

 父子は4月26日まで江戸に滞在したが、この時、勝五郎に強い関心を抱いていた国学者平田篤胤(1776-1843)が勝五郎を自分の屋敷に招き、聞き取った話を『勝五郎再生紀聞』という書物にまとめている。篤胤は8月に上洛し、自らの著書を仁孝天皇光格上皇に献上。この時に『勝五郎再生紀聞』も上皇の上覧に供せられ、それは宮中の人々にも広く読まれ、都でも勝五郎の話が知られるようになった。

 勝五郎の父、源蔵は農業の傍ら、農閑期には地元で採れる篠竹で目籠を編み、周辺からも買い集めて江戸で売りさばく商売をしており、その後も勝五郎を江戸に伴うことが何度かあったようで、勝五郎が11歳になった文政8(1825)年8月にも篤胤の開いていた私塾「気吹舎」を訪れ、門人になったことが記録に残っているが、詳しいことは分からない。

 勝五郎はその後、中野村に戻り、普通の農民として生涯を送り、明治2年12月4日に生涯を終えている。父と同様に勝五郎も農業と目籠仲買の兼業で、それなりに裕福な暮らしをしたのではないか、と言われている。

 勝五郎は二度の結婚をしているが、実子はなく、養子の与右衛門(牛込神楽坂の生まれ。勝五郎が目籠の商いで江戸に出た際に縁があったか?)が後を継いだが、勝五郎の死後、横浜へ移住しており、その後の消息は不明。勝五郎の生家も独立後に住んだ家も今はニュータウン造成により跡形もない。ただ、小谷田家の本家筋(勝五郎の祖父の兄の子孫)の家は今も八王子市東中野に江戸時代の建物が改修を経ながらも現存している。

 勝五郎の話はその後、小泉八雲ラフカディオ・ハーン、1850-1904)が池田冠山の著書(写本)などを参考に「The Rebirth of  Katsugoro」を書き、この一編を含む書物が米英で出版されている。

 こうした生まれ変わりの話は現在に至るまで全世界で数多く存在するが、このように本人の証言が細かく記録された例は極めて珍しく、貴重だという。

 さて、前置きが長くなってしまったが、今回は勝五郎の墓をまずお参りし、その後、勝五郎が生涯を過ごした旧中野村を訪ね、彼が祖母とともに歩いた道に思いをはせながら、程久保へ向かい、勝五郎の前世である藤蔵の実家を通り、最後は藤蔵の墓参りで終わるというコースを歩いてみた。

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〈勝五郎が自分の前世・藤蔵の生家をめざして歩いた道)

 

 つづく