藤蔵と勝五郎の道を歩く(2)

 いまから200年ほど前の江戸時代に多摩地方で実際にあったと伝わる生まれ変わりの物語。前記事では「藤蔵と勝五郎の道を歩く」と題しながら一歩も進まなかったが、ここからいよいよ歩き出します。

 今回のスタート地点は京王相模原線の南大沢駅多摩ニュータウンの一角を占め、大型商業施設やアウトレットモール、シネマコンプレックスなどが立ち並び、東京都立大学もあり、初めて駅に降りると、びっくりするような発展ぶりだが、昔は武蔵国多摩郡大沢村で、起伏の激しい丘陵地帯の真ん中を大田川(多摩川水系)が流れる静かな農村だった。多摩郡明治11年に東西南北に4分割され、この一帯は南多摩郡に帰属し、また多摩郡には大沢村が二つ存在したので、こちらは南のほうの大沢村ということで、南多摩郡南大沢村に改名している。現在は東京都八王子市南大沢である。

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 高台から南大沢の街を振り返る。

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 さて、南大沢から北へ丘を越えて多摩川の支流・大栗川が南西から北東へ流れる谷に下ってくると下柚木(しもゆぎ)である。大田平橋で大栗川を渡ると、由木街道にぶつかり、これを東へ向かう。このあたりには上柚木・下柚木・由木といった地名が混在しているが、古来・多摩郡由木村だったのが、江戸初期に上柚木・下柚木に分かれ、明治22(1889)年に町村制が施行され、上柚木・下柚木・南大沢・中野など11の村が合併して神奈川県南多摩郡由木村が成立したのだった。当時、多摩地方は神奈川県に属し、明治26年東京府に移管されている。由木村が八王子市に編入されたのは昭和39年のことである。

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(下柚木の柳沢の池。湧水を集めた溜池。湧水の豊富な土地だったようだ)

 とにかく由木街道を東へ1キロほど行くと、野猿街道と合流。この付近が旧由木村の中心だったようで、北側の丘に永林寺がある。ここに小谷田勝五郎の墓があるのだ。

 金峰山永林寺(曹洞宗)は訪ねてみると、予想以上に立派な大寺院だった。

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 寺の創建は戦国時代の天文元(1532)年、上杉氏の重臣・大石源左衛門尉定久(1491-1549)が居館・由木城から滝山城に移るのに際して叔父の僧長純を開山として寺を開いた。当初は永麟寺と号していたが、後に永林寺に改められている。

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(裏山は由木城址として史跡に指定されている。大石定久公の像が立つ)


 このお寺そのものも見どころが多いが、とりあえず勝五郎のお墓を探す。予め写真で見ていたので、大石定久の墓所を過ぎ、墓地の左寄りの一帯を探すと、すぐに小谷田家の墓が見つかり、その中に勝五郎の墓があった。

 潭底潜龍居士というのが勝五郎の戒名である。側面には「明治二己巳年十二月四日」、「施主与右ヱ門」とある。与右衛門は実子のなかった勝五郎の養子である。

 勝五郎のお墓は元は勝五郎の生家の裏山にあったが、多摩ニュータウンの造成で、生家跡も墓地も失われ、昭和60年頃、永林寺に一族の墓とともに移されたのだという。

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 150年以上前に亡くなった、縁もゆかりもない、でも不思議な親しみを感じる人物のお墓に手を合わせ、勝五郎の魂はその後も誰かに生まれ変わったのだろうか、などと考えながら寺をあとにし、野猿街道をひたすら北東方向へ歩く。西方にある野猿峠にちなむ道路名だが、いかにも新興住宅街らしい雰囲気で、あまり面白みはない道だ。北側の山裾に旧道が残っているが、クルマが行き交う新しい道の歩道を黙々と歩く。

 永林寺から3キロ近く歩くと、それまでのニュータウンらしい風景から一変、左手に昔ながらの農村風景が広がった。そこが八王子市東中野。昔の多摩郡中野村。勝五郎が生まれ育ち、生涯を過ごした土地である。山林に囲まれて、田んぼや畑が広がり、実りの季節を迎えた稲田には案山子が立っている。まさかこんな風景が残っているとは予想していなかったので、ちょっと感動する。

 ちなみに、なぜ旧中野村が今は東中野かというと、多摩郡には中野村が二つあったため、東のほうの中野村ということで、明治15年東中野村に改称し、明治22年の合併で由木村東中野となり、昭和39年に八王子市に編入され、現在の地名になっているわけだ

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 野猿街道を少し東へ進むと村の鎮守、熊野神社南北朝期の暦応元(1338)年に紀州熊野三社を勧請して創建されたとの伝承を持つ神社で、勝五郎もお参りしたはずである。藤蔵の魂が勝五郎に生まれ変わる前、白いひげを生やした黒衣の老人に導かれて、中野村へ来た時、最初に訪れたのがこの神社だったともいう。勝五郎から話を聞き、『勝五郎再生紀聞』を著した国学者平田篤胤は白いひげの黒衣の老人を中野村の産土神とみなしている。

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 境内にはご神木の大イチョウがそびえている。文久元(1861)年に植えられたもので、当時、勝五郎は47歳。この木のことも知っていたはずだ。

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 旧道を通って野猿街道から中央大学への道路が分かれる交差点まで戻る。この付近に勝五郎が独立後に住んだ家があった。彼は農業の傍ら、付近の山で採れる篠竹で編んだ目籠を作って売っていたようだ。

 このマンション付近が勝五郎が亡くなるまで過ごした家のあった場所らしい。道は野猿街道旧道。

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 勝五郎の生家の近くにあった神社と地蔵堂

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 谷津入(やついり)地蔵堂。勝五郎も手を合わせていたであろうお地蔵さん。

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 谷津入はこの地域の地名で、八つの谷があったことに由来するという。実際、丘陵地に多くの谷戸が入り組み、複雑な地形をなしている。勝五郎の家は千谷戸という谷沿いにあったが、開発により消えてしまったわけだ。

 賽の神。 

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 神社の名前は書かれていないが、駒形神社御嶽神社が合祀されているらしい。狛犬がオオカミっぽいのは御嶽神社だからか。

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 この畑の向こうに勝五郎の生家や墓地があったそうだが、ニュータウン造成で跡形もなく消え、「東京森都心」の名で住宅建設が行われている。

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 地蔵尊前の道を左へ行くと、いきなりニュータウンに出て、そこに勝五郎の生家跡の説明板がある(下写真の中段の園地)。

 ニュータウンから見下ろす鬱蒼とした森。この森は往時のままだろうか。

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 このあたりの山林にはびっしりと篠竹が密生している。目籠作りの材料には事欠かなかったろう。

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 谷津入の西側の山の上にある愛宕神社。一説には慶長元(1596)年の創建とも伝わる古社。

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 さて、勝五郎の生家跡はもはや存在しないが、勝五郎の生まれた小谷田家の本家筋の家は江戸時代の建物が改修されているとはいえ、今も残っている。文化年間の建築と推定され、藤蔵や勝五郎と同時代の建物だ。

 東中野バス停の向こうに見える古民家がそれだ。勝五郎の祖父・勘蔵(文政4年没)の兄・忠次郎の家で、今もその子孫にあたる方が住んでいるそうだ。

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 勝五郎の存命時は茅葺屋根だったのだろう。そして、彼もこの家を訪れたことがあったに違いない。

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 さて、ここから勝五郎が自分の前世だった藤蔵の暮らしていた程久保村へと向かった道をたどることにする。でも、今日はここまで。

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(昭和41年測図「武蔵府中」(部分)に加筆)
 

 つづく