奥多摩駅のある奥多摩町氷川の集落と奥多摩湖を結ぶ約9キロの「奥多摩むかし道」を歩いている。奥多摩ビジターセンターでもらった地図は全区間を前半・後半に分けて、表裏に印刷されているが、まだ地図の表側の3分の2ぐらいの場所、境という集落にいる。「境の清泉」でのどを潤し、奥多摩湖まであと6.4キロの標識を見て、さらに歩き出す。現在の時刻は11時を過ぎたところ。
ずっと書き忘れていたが、コロナ対策のマスクはつけたり、はずしたり、である。基本的にはずしているが、向こうから人がやってくる時だけマスク着用。
朝は寒かったが、歩くうちに体も温まり、気温も上がってきたので、上着は脱いでいる。それでも、少し汗ばむ感じ。
少し歩くと、右手の崖上に白髭神社。石段を登って参拝。
白髭神社の見どころは神社そのものより、社殿に覆いかぶさるように斜めにせり出した巨岩である。
奥多摩町教育委員会による説明板によると、この大岩こそがご神体なのだった。
「古代において白髭大神信仰の文化が多摩川をさかのぼり、古代人の思想に一致した神やどる聖地として巨岩のある清浄高顕のこの地に巨岩を御神体として祭祀が営まれました。大岩は秩父古生層のうち石灰岩層の断層が露頭したもの。層脈は多摩川をはさんで対岸へも続いています」
そして、この「白髭大岩」は大正15年に東京都(当時は東京府)の天然記念物にも指定されている。
ここで興味深いのは大岩が石灰岩であるという点だ。石灰岩は南方の暖かい海でサンゴや貝類などの遺骸が堆積してできた岩石であり、それが奥多摩にあるというのが面白い。奥多摩の大地ははるか遠い昔には遥か南方の海の底だったのだ。それが海洋プレートの移動に伴って北上してきて、海洋プレートが大陸プレートの下に潜り込む時に、まるでエスカレーターの上のゴミが終端部で床下に潜り込まずに引っかかるように、海洋プレートから引きはがされて、大陸プレートに押し付けられたわけだ。それを付加体という。奥多摩は古くから石灰石の産地として知られ、また石灰岩層が侵食されて形成された鍾乳洞も数多く存在する。先ほど、奥多摩ビジターセンターで得た知識によると、奥多摩の石灰岩の中からはフズリナやウミユリなど太古の暖かい海に生息した生き物の化石が見つかるという。
次に現れるのは「弁慶の腕ぬき岩」。
続いて、耳神様。
「昔は耳だれや耳が痛い時は、お医者様もいないしどうしようもなかったので穴のあいた小石を見つけて、耳神様に供えて御利益を一心に祈りました。民間信仰のひとつです」
崖に開いた穴に小石がたくさん置かれているが、耳神様の正体がよくわからなかった。岩の裂け目の中に穴の開いた石が置かれているが、あれがご神体だろうか。
いろいろ写真を撮ったりしながら歩いていると、後ろから中国語を話している若い男の二人組が追いついてきた。新型コロナウイルスの影響で、あれだけたくさんいた中国人観光客も今年の春以降、すっかり見かけなくなったが、彼らは日本在住なのだろう。
先ほどまで左下にあった青梅街道がいつのまにか右上に移って見えてきた。むかし道の下を白髭トンネルで抜けてきたのだ。そして、道路のずっと上には鉄道の廃線跡。
いろは楓の巨樹。樹齢200年ほどらしく、特に紅葉が美しく、街道を行く人の目を楽しませてきたという。見ごろは11月中旬~下旬とのこと。
まもなく梅久保の集落。急斜面にへばりつくように民家がある。
そこに無人スタンドがあった。キウイ、柿、よもぎ大福、こんにゃく。全部100円。
缶に百円玉を2枚入れて、大福とキウイ1袋を購入。ちょうど柿の補充におばちゃんが出てきた。
「背中、汗かいてるわよ」と言われる。リュックの下でシャツが汗で濡れて、大きな染みができているようだ。
歩きながら大福を食べる。手作りなのだろう。素朴な見た目だが、抜群にうまい。今までに食べた大福の中でもナンバーワンではないかと思うぐらいだ。奥多摩湖から歩いてきたらしい数人連れと次々とすれ違うので、この先の無人スタンドの大福、とても美味しいですよ、とおすすめしたいところだが、あと1個しかないので、教えてあげない。でも、最後の1個もすぐになくなるだろう。
ピンぼけ! 色は薄いが、ヨモギの香りがいい。
柚子を植えている家が多い。
この辺からようやく案内地図の裏面に入る。
惣岳の集落。積まれた薪が山村の生活を想像させる。
まもなく、惣岳の不動尊。不動尊なのに鳥居がある。説明板によると、明治時代に水根(むかし道の終点付近の集落)の奥平大乗法印と信仰心の厚い奥平庄助によって成田不動尊を勧請・祭祀したものだという。
そばに観音様。
明治だからもはや神仏習合の時代ではないはずだが、この後、奥平家奥都城と刻まれたお墓を見かけたから、奥平家というのは神道の家なのだろう(神道では墓に「〇〇家之墓」と刻まず「〇〇家奥都城」または「奥津城」と刻むのが普通。オクツキと読む)。
不動尊を過ぎると、また地形が急峻になってきた。惣岳渓谷というらしい。
まもなく路傍に「がんどうの馬頭様」。がんどうは厳道のことのようで、昔から細くて険しい道だったため、数多くの馬が谷底に転落して命を落とし、それを供養するために路傍に多くの馬頭観音が造立されたとのこと。ここまでにも多くの馬頭観音があったが、そういうことだったのか。ただ、ここの馬頭様は損壊したのか、姿がよくわからなかった。
まもなく「しだくら橋」。多摩川の渓谷にかかる吊り橋である。通れるのは一度に2人まで、と書いてある。定員2名とはどれだけ脆弱な橋なのか。
渡ってみた。けっこう揺れる。しかも、先入観のせいもあって、踏みしめる板がちょっと頼りない感じである。ちょっと怖い。火野正平さん(@にっぽん縦断こころ旅)は絶対渡れないだろう。
橋の真ん中で写真を撮っていると、サイクリストのおじさんが来て、橋を渡り出す。もう定員いっぱいだ。僕はそこで引き返し、「けっこう揺れますね」などと言い合いながらすれ違う。さらに若者の男女3人組が来て、橋を渡ろうとしている。
「一度に2人しか渡れないみたいですよ」
「あ、そう書いてありますね」
先のサイクリストが対岸まで渡りきったのを見て、男子1名が渡り出す。女子も1名続く。
「おい、揺らすなよ」などと言っている。
さらに数名がやってきて、順番待ちになったが、僕はまた歩き出す。
次に現れたのは「縁結びの地蔵尊」の説明板。お地蔵さんはどこにあるのか、と探したら、斜面の上にひっそりとあった。
「人に知られずにこっそりと二股大根を供えて一心に祈れば『結縁成就』といわれています」とのこと。
お地蔵さんのそばにバッタが1匹。
滝が流れる小さな沢を渡ると、ワサビ田があった。湧水で柿を冷やしている。
その先にあった建物は廃墟化していた。
奥多摩寮の表札がある。
その近くには馬の水飲み場。崖から染み出た水を貯めているようだ。
いまは廃墟しかないが、昔はここに立て場があり、馬方衆が馬を休ませ、茶店で一服したのだ。今よりずっと賑わっていたのだろう。そんな時代に思いを馳せながら、ここでおにぎりを1個食べる。
まだまだ続く。次回で奥多摩湖までたどりつけるだろうか?