初夏の奥多摩を歩く(その1)

 昨日(12日)、奥多摩へ行ってきた。予定よりも早く5時20分頃、家を出て、小田急線、南武線青梅線を乗り継ぐ。昨年の秋に「奥多摩むかし道」を歩いて、今度は新緑の季節に歩きたいと思っていたのだが、新型コロナの感染拡大で緊急事態宣言が出ているし、つい出かけそびれたまま、梅雨入りが迫ってきた。東京都は不要不急の外出は控えろ、というが、梅雨に入る前に急いで出かけてきた。なので、不要かもしれないが、不急ではないのだ(?)。

 とにかく、立川から乗った青梅線は御嶽止まりで、ホームで次の奥多摩まで20分ほど待つ(これは去年と同じパターンだ)。電車を降りると、キセキレイの声がまず聞こえてくる。ウグイスもあちこちでさえずっている。ツバメも飛んでいる。線路際の木にはコゲラの姿も見られた。ついでに上空をカワウが飛んでいた。

 今ごろの季節の山といえば、オオルリキビタキなど夏鳥のことがまず思い浮かぶ。声を聞くことはできるだろうが、どこかで姿を見ることができるだろうか。キビタキは簡単ではないが、オオルリは可能性が高いと思っているのだが、さてどうなるか。

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 青梅線の電車は中央線の車両と同じで、味気ないが、奥多摩仕様の電車も走っている(御嶽駅にて)。

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 「東京アドベンチャーライン」だそうだ。

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 次の電車を待つ間に、予定を変更して、このまま御嶽で下車して、御岳山に登って、あきる野市側の養沢に下るというのも面白いな、などと考えるが、予定通り、奥多摩行きに乗車。昨秋は鳩ノ巣で途中下車したが、今回は奥多摩駅まで行くつもり

 しかし、やはり気が変わって、鳩ノ巣の次、終点の一つ手前の白丸駅で何となく降りてみた。8時10分着。

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 山間の小さな無人駅。

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 駅の脇の踏切で僕の珍重する汽車の図柄の標識を発見。

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 白丸駅に降りてみて初めて分かったことだが、ここは画家・川合玉堂が戦時中に疎開していた土地だそうだ。

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 下車した時には多摩川の渓谷方面に下るつもりだったが、道しるべに従って、山の斜面につけられた小道を上っていく。

 何やら鳥がいたが、曇り空で暗くて正体が分からない。写真を撮って、あとで確認したら、ホオジロだった。

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 遠くでホトトギスも鳴いている。上空ではトビ。あとはキセキレイ、ウグイス、カワラヒワキジバト、スズメ、ヒヨドリコゲラなど。

 川合玉堂も歩いた道。

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 玉堂が白丸で過ごしたのは昭和19年12月から1年ほど。当時、すでに70歳を過ぎた老境にあったが、絵画だけでなく、歌集を何冊も刊行するなど、創作活動は衰えることがなかった。玉堂は昭和20年12月に白丸から御嶽に移り、そこで昭和32年に84歳で亡くなるまで過ごしている。

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 家々の庭先に咲く花や畑の作物の育ち具合など観察しながら散策していると、神社に出た。元栖神社。こういう名前の神社は初めてだ。祭神は猿田彦命

 鳥居をくぐると、正面には舞台。その傍らに銀杏の巨木。左手の石段を上がったところに杉木立に囲まれた社殿。

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 境内には川合玉堂の歌碑があった。

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 囃子いま 調べ高まり 獅子荒るる ときしもひびく警戒警報

 この神社の夏の祭礼で行われる獅子舞を玉堂が見たのは昭和20年7月16日のこと。すでに東京は焼け野原となり、牛込若宮町にあった玉堂の自宅も5月に戦災で焼失していた。そんな状況下、疎開先で夏祭りの獅子舞を見る心境とはどんなものだっただろうか。

 神社をあとにさらに白丸を散策。

 彼方に望む三角の山。天地山といい、標高は981メートル。奥多摩槍の別名があるという。

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 川合玉堂も歌に詠み、そして、しばしば描いたという。

 名に負える天地嶽は人知らず 奥多摩槍といはば知らまく

 

 白丸の観音堂。十一面観音が奉安されている。

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 お堂の中を覗いてみたが、暗くて、よく分からない。きっと素朴な仏様が納められているのだろうと思っていたが、この日、最後に訪れた小河内ダムの「奥多摩水と緑のふれあい館」に写真があった。今年、東京都の文化財に指定されたそうだ。

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 白丸の石水山杣入観音堂の木造十一面観音立像は厨子に納められ、像高82.4センチ。脇侍として不動明王毘沙門天を従えている。像内の墨書銘によると、慈阿弥陀仏と称する人物が大勘定を行い、徳治2(1307)年に定快という仏師が61歳の時に制作したものと判明したとのこと。定快は青梅・塩船観音時の二十八部衆立像(国指定重要文化財)の制作者として知られているそうだ。この十一面観音像も鎌倉時代の仏像で、制作年と作者が明らかになっているところに重要な意味があるという。

 観音堂の脇にあった注意書き。

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 観音堂の前を通る昔の街道を等高線に沿うように行くと杣入橋を渡り、まもなく青梅線の線路を左下に見下ろし、「数馬の切通し」の道標で舗装路から山道に入る。この山道は昔の古道だろう。いま下から車の騒音が聞こえる青梅街道の前身である古道だ。

 まもなく、岩盤を切り開いた切通しに出た。これは写真で見た記憶がある。

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 それまで険しい山越えの道しかなかった、この交通の難所で、江戸時代の元禄の頃(1700年頃)、岩盤に火を焚き水をかけて岩を脆くして、ツルハシと石ノミだけで開削したのが「数馬の切通し」である。

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 傍らに供養碑が立っている。宝暦年間(1751-63)に建立されたもの。宝暦4年?

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 「從留浦村氷川數馬迄道供養」と彫られているのかな。留浦(とずら)村は小河内ダムの建設で水没した多摩川上流の村で、その留浦村より氷川・数馬までの道の供養ということだから、その区間の交通を支えてくれている大切な道を供養して、安全を祈願したのだろう。各地で見られる石橋供養塔と同じで、昔の人は岩盤を切り開いた道にも霊魂のようなものが存在すると考えていたのだろう。このルートは宝暦4(1754)年にも大掛かりな道普請が行われたというから、供養塔はその時に建てられたものなのかもしれない。

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 切通しを抜けると、もうひとつ切通しがある。

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 その先は崖っぷちの道。落石の危険もありそうだし、「マムシ注意」の看板も頭に残っているし、クマが出るかもしれないし、いろいろ不安。

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 道はやがて途切れていたので、そこで引き返す。

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 数馬の切通しを反対側から。

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 舗装路まで戻り、坂を下って青梅街道に出て、氷川方面へ。すぐに数馬の切通しの下をくぐる白丸トンネル(126m)があるが、そこから左へ旧道が分かれ、まもなく大正12年に開通した古いトンネル(数馬隧道というらしい)がある。

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 このゴツゴツとした手掘りのトンネルを見て思い出すのは川合玉堂の「二重石門」という作品である。同じトンネルではないか?

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川合玉堂「二重石門」、昭和27年)

 作品ではタイトル通り、トンネル(石門)が二つ連なっており、そこは違うのだが、実によく似ている。この隧道をモデルにして、あえてそれが二つ連なる架空の風景を創出して作品にしたのではないか。しかし、あとで調べてみると、御嶽の玉堂美術館の近くに御岳トンネル・払沢トンネルという比較的短いトンネルが連続する場所があることが分かった。今は新しいトンネルだが、昔は手掘りのトンネルだったのかもしれない。そうだとすれば、そちらがモデルということになるだろう。この作品が描かれた当時、玉堂は御嶽で暮らしていたのだ。いずれにしても、玉堂の描いた風景を彷彿とさせる味わい深い数馬隧道なのだった。

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 ところで、この旧道。現在は車の通行はできないが、昭和48年に白丸トンネルが開通するまではこれが幹線道路だった。僕が赤ん坊だった頃、父の運転する車で奥多摩へドライブに行った写真がアルバムにあり、まったく記憶には残っていないが、たぶんこのトンネルを車で通ったのだろう。考えてみれば、玉堂が「二重石門」を描いたのはその十数年前に過ぎないのだ。当時もたまには自動車が通ることもあったのだろう。絵の中の二人の農婦が道の右端を歩いているのもそのせいだろうか。

 

 さて、手掘りのトンネルを抜けて、すぐにまた青梅街道に合流。そのままクルマやバイクが行き交う道路の端をテクテクと奥多摩駅のある氷川の集落まで歩く。去年も歩いた道だ。

 それにしても、都会で暮らす人間が人通りも少ない自然の中へやってくると、気分が開放的になるのか、クルマもバイクもやけに飛ばしているように感じる。多摩川の瀬音と野鳥の声以外は静かな土地だから、走行音も大きく聞こえ、怖い。クルマの顔つきも凶暴そうに見える。

 とにかく、歩行者としては、ドライバーがみんなマトモな人で、運転ミスもしないことを信じるしかない。

 海沢橋から眺める多摩川

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 昨年も拝んだ馬頭観音。双体馬頭観音は珍しい。

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 奥多摩では昔から馬が物資の輸送に活躍しており、愛馬の息災を祈ったり、また険しい難路で転落して命を落とした馬の供養のために各地に馬頭観音が建立された。

 昭和58年に開通した新氷川トンネルに入る手前で分かれる旧道でまた馬頭観音。文化11(1814)年造立で、憤怒の表情を浮かべた三面六臂の尊像。馬頭観音は本来は人間の心の中にある邪念や弱さを打ち砕き、人々を救済しようとする仏で、そのために憤怒の表情なのだが、「馬頭」というところからなんとなく馬に結び付けられて、江戸時代以降、馬の息災祈願や死んだ馬の供養のために建立されるようになったわけだ。そのため、路傍の馬頭観音は柔和で慈悲深い表情の像が多くなり、本来の憤怒相の像は少ない。

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 日帰り入浴施設「もえぎの湯」の前を過ぎて、まもなく左手に吊り橋が見えてきたので、ちょっと行ってみた。

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 下流側の眺め。

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 上流側の眺め。氷川キャンプ場。これまでクルマやバイクは別として、人にあまり会わなかったので、おや、こんなに人がいたのか、と思う。昔、キャンディーズの3人が奥多摩のキャンプ場で初めて出逢い、お互いに意気投合して将来の夢を語り合ったという全くの作り話が出回っていたのを思い出す。

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 旧道に戻って、まもなく旧氷川トンネル。その手前左手にこれも見覚えのある宝暦4(1754)年の馬頭観音。前回通った時もお酒が供えられていたが、余ほどお酒好きな観音様なのだろうか。

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 さて、奥多摩町の中心、氷川にある奥多摩駅前に着いた。現在の時刻は9時45分。観光客はさほど多くない。やはりコロナの影響だろうか。

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 これから昨秋と同じく奥多摩むかし道を歩いてみようと思う。オオルリキビタキミソサザイの声を聞くのが目的。姿が見られれば、なおよし。会えるかなぁ。

 つづく。