吉村昭『闇を裂く道』

 

 東京と名古屋・京都・大阪・神戸を結ぶ東海道本線は言うまでもなく日本の大動脈というべき鉄道路線であるが、開通当初は小田原の手前の国府津から松田、山北、御殿場を経由して沼津へ至る現在の御殿場線のルートを通っていた。古来、東海道最大の難所であった箱根の北側を迂回して東西を結んでいたわけである。箱根を避けてもなお、この区間は急勾配が連続し、列車を蒸気機関車2台で牽かなければならず、旅客・貨物輸送の最大の障害となっていた。

 そこで新たなルートとして、小田原、熱海を経て、三島、沼津へ抜ける短絡ルートの建設が計画されたのである。このルートの最大の難関は箱根から伊豆へ続く山間部を貫く、当時の日本最長となる7,804メートルに及ぶ丹那トンネルの掘削であった。この作品ではトンネル開通までの人と自然との闘いを当時の時代背景も含めて、詳細に描き出している。

 工事は大正7(1918)年に着工、熱海口と三島口から掘削が始まる。完成予定は7年後の大正14年であった。

 作品の冒頭、ひとりの新聞記者が着工前の熱海やトンネルが地下を通ることになる丹那盆地などを取材に訪れる。丹那盆地は豊かな湧水に恵まれた土地で、村の人々は渓流の清らかな水を直接引いて飲料水とし、水田を潤し、ワサビ田を作り、あるいは乳牛を飼育して暮らしている。豊かな水と美しい自然に恵まれ、人々は温和で、記者をあたたかく迎え入れる。しかし、この村がまさに桃源郷のように描かれることで、読む者に丹那盆地の暗い未来を予感させるのだ。ちなみに、この新聞記者が工事の全体を見届ける主人公の一人かと思ったが、この後は一切登場しない。作品中には実に多くの人々が登場するが、現場の工事責任者も人事異動で次々と交代し、主役と呼べる人物は存在しない。そして、最初の新聞記者こそ架空の人物かもしれないが、あとは実際に工事に携わった実在の人物ばかりである。なので、この作品は小説というよりは記録文学と呼ぶべきものなのだ。

 さて、工事が始まると、次々と困難に直面する。火山地帯で地質は劣悪であり、水を含んだ粘土層にぶち当たると、大量の出水と土砂に悩まされる。しかも、断面が小さく周囲からの圧力に比較的強い単線トンネル2本ではなく、複線トンネルを初めて採用したため、地中の圧力に負けての悲劇的な崩落事故も相次いで発生。数多くの犠牲者を出すことになる。死と隣り合わせの工事で、現場を去る者も多くなり、その穴を埋めたのは多くの朝鮮人であったという。犠牲者の中にも朴や金、李という名前が見られるようになる。

 工事はたびたび中断し、貫通の見通しも立たない。事前の地質調査が不十分だったことが明白となり、しかも無謀な複線トンネル。現場からも外部からも批判が噴出し、工事中止論も浮上する。しかも、政治や経済、社会は激動し、大正12年には関東大震災が発生。相模湾沿岸には津波が押し寄せ、小田原~熱海間の根府川駅付近では列車が海中に転落する悲惨な事故も起きる。

 また、工事が進むにつれて、坑道内に凄まじい勢いで噴き出す水の量も増える一方で、丹那盆地では湧水が著しく減少し、ワサビ田や水田は干上がり、村民は飲み水にも事欠くようになる。こうした事態に対して、工事を進める国の対応は場当たり的で、不十分なものばかりであり、工事が始まる前にはあれだけ穏やかだった人々の顔つきもどんどん険悪になり殺気立ってくる。

 予定の7年を過ぎても、大量の水と土砂で工事は進まず、トンネル貫通のめどは全く立たない。丹那盆地渇水は深刻化する一方。丹那トンネル内に噴出した水の量は芦ノ湖の水量の3倍にもなったという。丹那盆地を多すぎて困るほどの水量で潤していた、この膨大な地下水は地上に湧き出すことをやめ、村の地下160メートルで掘り進められているトンネルにすべて吸い込まれていったのだった。

 そして、時代は大正から昭和に変わり、昭和5(1930)年11月26日早朝、北伊豆地震がトンネルを直撃する。丹那盆地を南北に走る丹那断層が激しく動くことで大地震を引き起こしたのだった。工事関係者は掘削していた坑道の先端部で信じられないような光景を目にすることになる。

 

 結局、16年もの歳月をかけて昭和9年にようやく開通した丹那トンネルを僕は何度も列車で通ったし、そのたびに丹那トンネルに入ったな、ということを意識しながらくぐり抜けた。屈指の難工事で、多大な犠牲者を出しながらトンネルが完成したことも、ある程度は知っていたつもりだが、この作品を読んで、それが想像を絶するような苦闘の連続であったことを知った。そして、このような多くの犠牲者を出しながら、日本の近代化は進められてきたことを改めて思った。

 いまは徒歩か自転車で丹那盆地を訪ねてみたいという気持ちになっている。