布田道を歩く(1)

 天皇誕生日だった昨日、2月23日に多摩丘陵の古道、布田(ふだ)道を歩いてきた。

 布田道の布田とは甲州街道の宿場だった布田五宿(いまの調布市。街道沿いにある国領・下布田・上布田・下石原・上石原の五つの町が交替で宿場の役割を担っていた)のこと。そして、鎌倉時代から鎌倉と武蔵国府の府中方面を結ぶ鎌倉街道の宿場だったという町田市の小野路から黒川、坂浜、矢野口などを経て布田に至る街道が布田道で、これらの地方から甲州街道に出て江戸へ通じるルートということで、地元では「江戸道」とも呼ばれたという。また、明治時代の小野路村の地図では「東京道」と表記されているものもある。

 多摩丘陵では炭焼きが盛んで、その良質な炭は「黒川炭」の名で知られ、同地方で生産される甘柿の「禅寺丸」とともに名産となり、布田五宿や江戸へ運ばれたが、その輸送路にも利用されたという。

 また、現在の調布市内の上石原村出身の近藤勇新撰組を結成する以前に小野路の道場から剣術指南役として招かれ、通った道としても知られている。

 その布田道は現在の調布と鶴川・町田を結ぶ鶴川街道の前身と言えるが、今も往時の雰囲気を残しているという黒川から小野路までを歩いてみた。

 スタート地点は川崎市麻生区にある小田急多摩線の黒川駅。黒川へは中高生の頃にサイクリングで何度か来たことがある。当時はまだ多摩線が開通してさほど年月も経っておらず、黒川には丘陵地の間に田畑が広がる里山の風景が広がっていた。ちょっと感動するほど美しい土地だったという記憶がある。
 あの頃は多摩線も日中はわずか2両編成で、前面2枚窓の2200形が走っていたのを覚えている。

 その黒川もだいぶ宅地化が進んでいるのは多摩線の車窓から見て知っているが、黒川という土地には久しぶりにやってきた。この駅で降りるのは初めてかもしれない。

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(黒川駅を出た電車は三沢川の谷を高架橋で越え、トンネルをくぐって、はるひ野駅へ向かう)

 なんとも味気ない黒川駅前を10時頃、スタート。

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 まずは布田道の現在形である鶴川街道に出る。この道は多摩川の支流・三沢川に沿って多摩丘陵に分け入り、三沢川の源流域である黒川から峠を越えて町田市へ抜けている。

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 三沢川と鶴川街道を高架橋でまたぐ小田急多摩線

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 まずは鶴川街道を町田方面へ歩く。昔、自転車で来た頃より拡幅され、住宅なども増えて、だいぶ雰囲気が変わっている。

 すぐに日当たりのよい日影バス停があり、その先に農産物直売所のセレサモスというのがある。ちょっと寄り道したくなるが、今日は水曜日で定休日だった。ここで街道から右に折れると、高台の上に黒川の鎮守、汁守神社がある。石段を上がって参拝。

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 汁守神社とは変わった名称だが、創建年代は不詳で、主祭神保食命(うけもちのみこと)。一説によるとこの名前は府中市にある武蔵国総社の六所宮(大國魂神社)の例大祭、くらやみ祭りの時に神前に供える食膳の汁物を調える役割があったことにちなむという。広々とした境内に由緒書きなどは見つからなかったので、確かなことは分からない。ただ、黒川の南隣の真光寺町には飯守神社があるそうだ。

 大木が多い境内の奥には大きなヤブツバキが花を咲かせていて、その下に「地神齋」と彫られた石塔があった。文久三(1863)年に建てられたもので、「武州都築郡黒川村」と刻まれていた。

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 さて、汁守神社をあとにして、曲がりくねった山越え区間は道幅が狭いままで、しかも交通量の多い危険な鶴川街道は避けて、セレサモスの裏手の農道を行く。この付近は古道は消えているようだ。

 両側に畑や果樹園が広がる中を進み、温室が三棟並ぶイチゴ農園を過ぎ、やがて北側の山裾の道と合流するところに地図があり、ここを北へ入ると毘沙門大堂があるというので、ちょっと寄り道。

 これは山裾に集められていた石造物群。地神塔や庚申塔がある。地神塔は江戸時代後期の1800年代に町田の修験者がこの地方に広めたといい、多摩地方では町田市内に多く、次いで麻生区内に多いという。そういえば、調布の近藤勇の生家の隣にも地神を祀る祠があったのを思い出した。大地の神、土の神であり、五穀豊穣などを祈願したという。

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 毘沙門大堂の入口に道祖神

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 毘沙門大堂に通じる小径。石段の上に鳥居が見える。

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 質朴な木造の鳥居。毘沙門天というと、仏教の四天王の一員(多聞天)でもあるが、ここでは鳥居が立っている。

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 そして、鳥居をくぐると、左手に首のない石仏の数々。

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 インターネットで調べてみると、ここにはかつて金剛寺という真言宗寺院があり、汁守神社を管理する別当寺でもあったそうだが、明治の初めに廃寺となったそうだ。明治初年に廃絶した寺というのは各地にたくさんある。先月登った筑波山の中禅寺もそのひとつだし、大山の大山寺も一度は廃寺となった後、再興している。明治維新とともに神仏分離令が出され、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、各地で寺や仏像が破壊されたのだ。もちろん、極端な廃仏運動に対して、それを罰当たりな行為と感じた人は大勢いたはずだし、積極的に仏教を擁護する動きもあったことは間違いない。だからこそ、今でも多くの寺院が残り、貴重な仏像も守られているわけだ。そんな中で、金剛寺は残念ながら、歴史を断たれてしまったということになる。この首のない仏像も廃仏毀釈の狂気の結果、ということだろうか。

 日本人というのは歴史上、たまに集団的発狂状態に陥ることがあるが、未来の人々から見て、平成~令和の日本人はマトモであったと見なしてもらえるのかどうか。狂った人々は自分たちが狂っていることになかなか気づかないものである。

 とにかく、仏教色を排するために鳥居が建てられたようだが、毘沙門大堂は大堂というわりには簡素な造りだった。内部を覗いてみたが、毘沙門天は見当たらない。これもネット情報だと、平成7年に盗難に遭ったのだそうである。その毘沙門天は伝承によれば行基作ということで、本当なら金剛寺も大変古い歴史を持つことになるが、「行基作」の仏像はそこら中にあり、ほとんど信用できない。

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 敷地の裏手は湧水のある谷になっていて、ほとんど手つかずのままといった印象の山林である。あたりに人の気配はなく、とても神聖な雰囲気が漂っている。

 林の中にも石塔が一基。ひっそりとたたずんでいた。この石塔も金剛寺のたどった運命をずっと見ていたのかもしれない。

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 さて、まだ「布田道」の実質的なスタート地点にも立っておらず、黒川の奥地もさらに探検してみたい気がするが、先を急ごう。毘沙門大堂をあとに山を下り、ツグミアオジカワラヒワがいる谷戸の田畑を横断し、三沢川を渡って反対側の丘へ通じる道に入る。

f:id:peepooblue:20220224221835j:plain(画面中央の二階家の左手の細道の先、正面の山林の中に毘沙門大堂がある)

 里山らしい雰囲気の道を上ったり、下ったりしながらいくと、最後の上りで町田市真光寺町(旧多摩郡真光寺村)に入り、町田いずみ浄苑に出る。

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 鶴川街道からの進入路にぶつかり、その角に何やら石塔がある。摩滅が激しいが、馬頭観音らしい。

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 その石塔の裏手の階段が布田道らしい。霊園の造成前は撮影地点の背後にずっと丘が続いていて、そこを道が通っていたのだろう。とりあえず、階段を登ってみたが、まもなく下の道路と合流した。

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 河津桜が咲き始めている。今年の冬は寒いので、例年より開花は遅めかもしれない。

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 霊園の反対側は里山の風景。いま登ってきた道が見える。

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 一度、車道に合流した布田道はいずみ浄苑のアーチの脇で再び分かれ、ここから本格的に始まる。

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 その入り口に布田道の解説板がある。

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 川崎市黒川と真光寺町の境目にある尾根の道は、かつて『布田道』と呼ばれていました。
 布田道は布田五宿(現・調布市布田)と小野路(現・町田市小野路町)の宿を結んでいたのです。
 小野路村は、鎌倉時代、鎌倉と府中を結ぶ鎌倉道の上道(かみつみち)の宿場でしたが、江戸時代になると府中・小野路・厚木・伊勢原・大山を結ぶ大山街道の宿として栄え、布田道は小野路宿からは甲州街道を経由して江戸に向かう一番の近道として重宝されました。
 また、のちに新撰組を結成する近藤勇は天然理心流4代宗家として、同流の稽古場を提供していた小野路村の小島家へと、しばしばこの布田道を通って剣術を教えに来ていたと伝えられています。そして、時に近藤の代理として土方歳三沖田総司、山南敬介なども布田道を通り小野路へ訪れたといいます」

 

 とにかく、ようやく布田道を歩き始めるわけだが、今日はここまで。続きはまた明日。