『廻国雑記』の道興准后は半沢のどこに泊まったのか?

 先日、「『廻国雑記』の道興准后は小野路を通ったのか?」という記事を書いた。

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 道興准后(どうこうじゅごう、1430-1501or1527)とは室町時代の僧侶である。関白・近衛房嗣の子として生まれ、修験道本山派の総本山、京都・聖護院の門跡(門跡とは寺の住職を皇族・公家が務める場合の呼称)となり、同時に近江・園城寺三井寺)の長吏(住職)や熊野三山の検校などにも任じられている。

 その道興准后が1486年6月に京都を発ち、北陸を経て関東に入り、関東各地を巡った後、陸奥にまで足を延ばした10か月ほどの旅の記録が『廻国雑記』。この中に小野路という地名こそ出てこないが、恐らく小野路を通っただろう、というのが前回の結論だった。

 今回の関心は道興が小野路を通る前に宿泊している「半沢」とは何かということである。『廻国雑記』の中では半沢というところに宿泊したことと、その地名を織り込んで詠んだ「水なかば沢べをわくやうす氷」という句のみが記されている。

 半沢といへる所にやどりて、発句、

  水なかば沢べをわくやうす氷

f:id:peepooblue:20220308200938j:plain(町田市図師町の円福寺境内にある道興准后の句碑)

 半沢は前回も書いた通り、町田市小野路町の南西に隣接する図師町にあった地名で、図師の円福寺には道興の句碑が立っている。ただ、円福寺は江戸時代初期に創建された曹洞宗の寺で、道興と直接の関係はない。

 道興准后の旅は物見遊山が目的ではなく、東国における本山派修験の組織強化を目的とした行脚であり、半沢に宿泊したのも、たまたま日暮れ時に通りかかったからというわけではないだろう。

 

 道興准后は聖護院の門跡であった。聖護院は近江の天台宗寺院・園城寺の末寺である。しかし、聖護院が天皇家摂関家から住職を迎える門跡寺院であったことから、ただの支院とはいえない特別な存在となり、聖護院門跡が園城寺熊野三山のトップも兼ねるのが慣習化されたものと思われる。すでに書いたように関白・近衛房嗣の子である道興もそうであった。

 修験道は日本古来の山岳信仰密教系の仏教が習合した宗教で、深山幽谷に分け入っての厳しい修行を通じて悟りを開き、山々に宿る霊的な力を体得し、その霊験を以て衆生を救済することを目的とする。出羽三山や白山、筑波山など日本各地で神々の宿る霊山への信仰と結びついてきたが、なかでも二大勢力といえるのが聖護院を総本山とし、熊野を拠点とする天台宗系の本山派修験と、醍醐寺三宝院を総本山とし、吉野を拠点とする真言宗系の当山派修験である。道興は東国各地の修験者を訪ね歩き、聖護院の下での本山派修験の組織強化を図ったのだと思われる。

 相模国の大山や日向薬師といった修験の霊場を訪ね、厚木の熊野堂に立ち寄り、半沢の後もいずれも熊野神社がある霞の関(多摩市関戸)や恋ヶ窪(国分寺市)へと巡錫しているので、半沢も修験道に関係のある土地であることは間違いない。
 それでは道興准后は半沢のどこに宿泊したのか?

 

 『町田市史』(上巻)では町田市内の熊野信仰に触れ、「この熊野信仰の普及は熊野の御師と結んだ天台宗系の修験者の布教活動に負うところが大きかった」とした上で、「市域におけるこうした熊野信仰は、もと図師郷の半沢にあり、のち木曾郷に移った本山派修験覚円坊の活動に負うところが大きかったと思われる」と書いている。そして、道興准后の『廻国雑記』に触れ。「道興が大山から関戸へ向かう途中で宿泊した『半沢といへる所」というのは、上に述べた半沢覚円坊であったに相違ないのである」としている(p.651-53)。

 

 現在、町田市木曽西にある覚円坊が昔は半沢にあったことの証左として、『町田市史』は天正18(1590)年に八王子城で討死した先師の権益を安堵するという、文禄2(1593)年に総本山の聖護院門跡から下された「半沢覚円坊」宛の御教書の存在を挙げ、「近世初期にいたるまで半沢に住坊のあったことが知られる」と書いている。

 ついでに書くと、先師の権益とは世襲化した覚円坊が代々受け継いできた権益で、その内容は一定の領域内(多西郡=西多摩・南多摩)の衆分(修験者)や檀那(お布施をする信者)の知行権などで、彼らの熊野詣の際には先達として引率し、特定の宿坊に宿泊させるなどの経済的利権となっていた。つまり特定地域内の修験者や信者を自分の支配下に囲い込んで、その領域からの利益を独占したわけである。このような権益をめぐる寺同士の争いも絶えなかったようだ。そして、先代の覚円坊が八王子城で戦死しているのは、当時、覚円坊が八王子城主・北条氏照の庇護を受ける一方でいざという時には僧兵として戦に加わっていたという事実も示している。自己利益を守るために時の権力と結びついていたわけだ。これは道興が半沢を訪ねた時代よりもずっと後の話であるけれど、道興の東国行脚にも同様の世俗的な目的が多分にあったと思われる。ただ、『廻国雑記』にはそのような生臭い話は一切書かれていない。

 

 さて、町田市木曽西に現存する覚円坊を訪ねてみよう。

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 吉祥山覺圓坊とあり、宗派は天台寺門宗、本山は園城寺、本尊は聖観音菩薩となっている。

 由緒・沿革は次のようになっている。

「木曽の観音様として古くから親しまれてきました覺圓坊は、吉祥山住善寺達蔵院と号し、もと近江国園城寺六百二十一中の一寺で康平六年(一〇六三)園城寺第三十一代長吏覺圓僧正が同寺中の金堂(現在国宝)裏に開基されました。聖観世音菩薩(座像三尺)は、僧行基六十にしてこれを刻むと伝えられています。園城寺は再三の兵火にあいましたが、観音像は鈴鹿山麓に移されその後義仲庵に安置されました。武州多摩郡木曽が義仲の縁地であり、正平六年/観応二年(一三五一)木曽の傳燈阿闍梨法印源性により当地に移され、多摩郡の霞頭となりました。」

 

 覚円坊の名が園城寺の31代長吏・覺圓僧正に由来するらしいことは分かるが、覚円坊が近世初頭まで半沢にあったとは全く書かれていない。それどころか、南北朝時代の1351年にこの木曽の地に移されたことになっているのだ。これで話がよく分からなくなり、さらに調べてみようと思ったわけである。ちなみに義仲庵とは木曽義仲の供養のために創建された義仲寺のことと思われ、滋賀県大津市にある。また、「多摩郡の霞頭」の霞とは修験道の本山派で地域ごとの支配・管轄領域をいい、その頭であったということは、半沢覚円坊が代々受け継いだ権益に対応しているようだ。

 なお、吉祥山住善寺達蔵院は明治初年に廃寺となっており、現在は観音堂だけが残っている。そして、行基作と伝わる聖観音像は昭和34年の東京都による文化財調査では江戸初期の作とされたという(『町田市史』下巻)。

 

 もとより、道興准后の『廻国雑記』には「半沢といへる所にやどりて」としか書かれておらず、覚円坊の名が出てくるわけではない。しかしながら、もし当時から半沢とは別に木曽に覚円坊があり、それが多摩の霞頭であったとしたら、道興が素通りするはずがない。道興が素通りしたのは、当時の木曽には立ち寄るべき何ものもなかったからではないだろうか。木曽の覚円坊はのちの時代になって成立したのかもしれない。

 いずれにせよ、道興は木曽を素通りして、半沢のどこかに泊っている。それはどこだったのか、という疑問に立ち戻ることになる。

 図師の半沢の山中には白山権現があった。石川県と岐阜県にまたがる白山は修験の霊峰で、天台宗との関係が深かったという。道興も京都から関東へ向かう前に北陸路を辿っており、白山にも登拝している。その白山の神を祀る社が半沢にもあり、図師という地名の発祥にも関わっている。

 承久の頃(1219-21)、半沢の白山権現の社殿が損壊したので、別当寺・大蔵院の僧が領主の小山田次郎重義に修理を願い出た。重義が社地の状況を問うたところ、その僧はことごとく見事な絵図に描いて説明した。重義はその僧の聡明さを誉めて帰依するとともに、図師の法印という称号を贈り、領地の一部を白山社領として寄進した。ここから図師という地名が生まれたという伝承である。この話によれば、鎌倉時代には半沢に白山権現が存在したことになる。そして、その別当は大蔵院といった。

 再び『町田市史』(下巻)によれば、大蔵院は本山派修験の寺であったといい、白山社だけでなく、熊野社や若宮八幡など図師村内の神社の別当を務めていたという。そして、大蔵院について次のように書いている。

「もと図師半沢白山社入口にあって、図師法印半沢坊といった。文明一八年(一四八六)冬京都聖護院門跡道興准后が、その紀行文『廻国雑記』に「半沢といえる所にやどりて」と書いたのは、かれの俳句と大蔵院の聖護院の関係から考え、かつ、江戸幕府時代朱印を与えた幕府の待遇等から推して、この大蔵院とみて大過はないだろう」

 ここにあるように、大蔵院は江戸時代にも幕府から朱印地五石一斗という厚遇を受けていた。

 大蔵院は白山社入口にあったという。白山社は白山尾根と呼ばれる丘陵上にあり、半沢の白山谷戸に登り口があった。この谷戸の入口付近に大蔵院があったということだろうか。

f:id:peepooblue:20220308172817j:plain(白山谷戸

 この大蔵院はその後、元和4(1618)年に半沢から同じ図師村の鎌田坂に移転している。半沢からは鶴見川をはさんだ対岸の丘陵へと登る坂が鎌田坂で、その前年に徳川家康の遺骨を日光東照宮へ運ぶ行列が通った「御尊櫃御成道」でもある。この道を行けば、木曽へ通じ、さらにその先は相模の厚木方面である。つまり、道興もこのルートを辿り、木曽や鎌田坂を経て、半沢に至ったと考えられる。

 鎌田坂に移った大蔵院は図師山大蔵院釜田寺(鎌田寺)と称したというが、大正12年関東大震災で本堂が倒壊し、廃寺となっている。

 現在、鎌田坂沿いにある鎌田家の庭には「図師地名発祥ノ家」という石碑があり、「奉拝 新良山神社 白山大権現社 胞衣神社」と刻まれている。新良山は「しらやま」と読み、白山権現が改称した後の名である。明治の神仏分離で「権現」という名称が使えなくなって改名されたものだろうか。胞衣神社は若宮八幡のことか。

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 それにしても、鎌田坂は今は一部が階段になっているほどの急坂である。家康の御尊櫃を運ぶ一行はさぞかし難儀したことだろう。そして、この坂はなんとか越えたものの、次の半沢から小野路への急坂で車の車軸が折れたのだった。

 右へ登っていくのが鎌田坂。右手の丘上が鎌田家。恐らく、ここに大蔵院があった。

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 最後は階段になる鎌田坂の上からの眺め。彼方の丘に白山権現があり、その麓に移転前の大蔵院があった。道興はこの坂を下って、半沢の大蔵院に泊まったのだ。そして、あの丘の向こうが小野路である。

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 とにかく、道興は半沢の白山社入口付近にあったという本山派修験の大蔵院に宿泊したらしいということは分かってきた。 

 しかしながら、すでに引用したように同じ『町田市史』の上巻では「半沢といへる所」を「半沢覚円坊」だと書いているのだ。複数の執筆者によって書かれているせいで、このような不一致が生じたのだろうが、記述の具体性では大蔵院説のほうが信憑性は高いように思われる。しかし、古文書に「半沢覚円坊」という名称が見られることも確かなのだ。「半沢」と「覚円坊」はどのように結びつくのか。今は木曽にある覚円坊がやはり昔は半沢にあったのか。半沢の大蔵院に覚円坊という修験者がいたということなのか。
 この問題を考えていくと、近世初頭まで修験の「半沢覚円坊」が多摩郡一円の支配拠点としていたという福生市真福寺という寺の名前が新たに浮かび上がってくる。また話がややこしくなってくるので、続きはまたそのうち。

f:id:peepooblue:20220318115122j:plain   (図師の円福寺にひっそりとある「半沢覚円坊」と刻まれた謎の石)