地底駅とループ線(その1)

 昨日(8月27日)、庭の朝顔が花を開くより早く5時前に家を出て、8時前に群馬県高崎駅までやってきた。今日は上越線湯檜曽、土合の2駅を訪れるのが目的。いずれも下りホームが長大な新清水トンネルの中にある駅である。

 高崎8時23分発の電車で久しぶりの上越線を北上し、水上には9時31分に到着し、44分発の長岡行きに乗り換える。

 水上までの211系はステンレス車体にオレンジとグリーンの帯が入る、関東地区ではおなじみのカラーだが、ここから乗るE129系は同じJR東日本でも新潟地区で走る電車で、帯の色は濃い黄色とピンク。新潟を象徴する稲穂の実りと朱鷺をイメージしているそうだ。

 もともと関東と新潟地区を結ぶ鉄道路線としては高崎から長野、直江津、長岡を経て新潟へ通じる信越本線があった。しかし、遠回りであるうえ、途中に急勾配の難所、碓氷峠が控えているため、より距離の短い上越線の建設が大正時代から始まり、南は高崎から、北は長岡の一つ手前の宮内から順次、路線が延長されて、大正末の時点で未開通だったのは水上~越後湯沢の上越国境越えの区間だけだった。この区間に立ちはだかるのが険しい谷川連峰がそびえる三国山脈で、難工事の末、その下を貫く9,702メートルに及ぶ清水トンネルが9年の歳月をかけて1931年9月1日に開通。当時の日本最長トンネルで、この結果、上越線は全線開通し、東京と新潟を結ぶ短絡ルートが完成したのだった。上野~新潟間の距離が98キロ短くなり、所要時間は4時間も短縮されたという。その清水トンネルの着工が1922年なので、ちょうど100年前ということになる。

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 これは川端康成の『雪国』のあまりにも有名な冒頭部分であるが、この「国境の長いトンネル」が清水トンネルであることは言うまでもない。

 川端がこの作品の一部を最初に雑誌に発表したのが1935年で、その後も断章が複数の雑誌に断続的に掲載され、それが長編小説にまとめられ、『雪国』として最初に刊行されたのが1937年であるから、まだ清水トンネルが開通して、まもない頃であった。ちなみにトンネルを抜けた汽車が止まった「信号所」とは土樽信号場のことであり、信号場とは主に単線区間に設けられる、旅客扱いはせず、ただ列車の追い抜きや行き違いのための施設である。今は土樽駅に昇格している。新潟県に入って最初の駅である。

 また、この区間には清水トンネルの前後にループ線が設けられているのも大きな特徴といえる。山をトンネルで貫く場合、麓からトンネルを掘るよりも、山の高い位置に掘った方がトンネルが短くて済む。清水トンネルもなるべく短いトンネルにするため(それでも9.7キロあるのだが)、出入り口が山の高い位置にある。それだけ列車は登らなければいけないわけだが、トンネルに通じる線路の勾配を少しでも緩和するために線路がぐるりと輪を描くことで距離を延ばして高度を稼ぐループ線が建設されたわけである。

 いま乗っている電車の車内に掲出された路線図にも「国境のトンネル」とともにループが描かれている。

 ところで、開通当時、上越線はすべて単線であったが、輸送力増強の必要から複線化が進められ、昭和38年から単線の清水トンネルと並行して、もう1本のトンネル工事が始まった。掘削技術の進歩により、麓から長いトンネルを掘ることができ、4年後の昭和42年9月に開通している。それが13,490メートルにも及ぶ新清水トンネルである。この結果、二つのループを通る清水トンネル経由は東京方面へ向かう上り線専用となり、新潟方面へ向かう下り線が新清水トンネルを利用している。

 そして、この区間にある湯檜曽、土合の両駅は旧線経由の上りホームは地上にあるが、新線経由の下りホームは新清水トンネル内に建設され、まさに地底駅となっているのだ。湯檜曽はトンネルに入ってすぐの場所にあるが、土合駅はトンネルの奥深くにあり、地上の改札口とは長い長い階段で結ばれているというので、「もぐら駅」として有名である。この区間は何度も通ったことがあり、トンネル駅の記憶もあるが、もちろん降りたことはない。そこで、このトンネル駅に降りてみようというのが今日の旅の目的である。

 ということで、水上を発車した長岡行きは数分走ると、上下線が分かれ、下り線だけがトンネルに突入する。これが新清水トンネルである。そして、すぐに湯檜曽駅に停車。ここで下車。9時49分着。列車はすぐにトンネルの奥へ姿を消した。


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湯檜曽駅下りホームから新清水トンネル入口を望む)

 降りたのは僕だけだった。ホームの中ほどに線路と直角にトンネル通路が設けられ、これを歩いていくと、右に上っていく階段があり、その先には地上の上りホームがある。その階段を過ぎると、駅の外へ出られる。無人駅で改札口はない。

 駅を出ても、そばに郵便局があるぐらいで、特に何もない。物好きな旅行者以外で、この駅を利用する地元の人はどれぐらいいるのだろう。

 アブラゼミやミンミンゼミが鳴き、キリギリスやコオロギの声も聞こえる。赤トンボがたくさん飛んで、ススキの穂も風に揺れている。まだ暑いが、微かに秋の気配も感じられる山の中の小さな駅。

 北側の山の中腹に架線柱が並び、そこに線路があるのが分かる。ループ線だ。かなり高いところを通っているが、列車はあそこから山を巻くようにぐるりと回りつつ高度を下げ、湯檜曽駅へやってくるのだ。今は普通列車と時折、貨物列車が通るぐらいだが、40年前に上越新幹線が開通するまでは東京と新潟を結ぶ大動脈であり、新潟~上野間の特急「とき」をはじめ、「いなほ」はくたか」「北陸」「佐渡」「能登」「天の川」「鳥海」など夜行列車を含む数多くの特急、急行が昼夜を問わず、あのループを回って、上野をめざしていたわけだ。あの時代にここへ来てみたかったと思う。

 とにかく、あのループ線を下ってくる列車を見たい。湯檜曽に発着する列車は上下5本ずつしかないが、今日は臨時列車が1本運転され、それが10時29分発の水上行きである。それで一旦、水上に戻り、また下り列車に乗って、今度は湯檜曽の次の土合駅で降りるというのが今日の予定である。最初に土合まで行って、湯檜曽まで4キロほど歩くという案もあったのだが、時刻表であれこれ検討した結果、まずは湯檜曽で降りることにしたのである。

 まだ40分ほどあるので、駅前の道(国道291号線)を北へ歩くと、すぐに利根川の支流の湯檜曽川にかかる橋に出た。上越線もそこで鉄橋を渡り、その先にループトンネルが口を開けているようだが、ここからは木々に遮られて見えない。

 国道は川を渡ると、左へカーブして川沿いに遡っていくが、その先に湯檜曽の集落がある。そして、新清水トンネルが開通するまで、湯檜曽駅は山の上に見えている線路沿いにあったらしい。集落からは急坂が通じていたが、大変不便な駅であったようだ。

(列車は山の上の線路を画面左から右へ進み、トンネルに入ると、左へ左へとカーブしてループ線を一周し、この鉄橋へ出てくる。上の線路の左の方に旧湯檜曽駅があった)

湯檜曽川の渓谷を背にした湯檜曽集落)

 さて、湯檜曽駅へ戻り、階段を上がって上りホームへ。階段を上がったところに海抜557.43メートルと書いてあるが、駅名標の支柱には海抜555.65メートルと書いてある。どちらが正しいのだろう。あるいは、計測地点の違いだろうか。

 とにかく、ここからはループ線がよく見える。181系や183系の特急「とき」が走るのを眺めたかったと改めて思う。

 架線に赤トンボがたくさん止まっているし、上空にもたくさん飛んでいる。ホオジロやカケスの姿も目にした。ホームの柵に絡まるクズには赤紫の花が咲いている。

 ホームの待合室には机と筆記具とノート(とアルコール消毒液)が置かれ、駅の訪問者の言葉やイラストが残されていた。

 

 列車発車時刻が近づくと、少し緊張してくる。向こうの山の中腹の線路に列車が姿を現すのは湯檜曽到着の3分ぐらい前だと思われる。その瞬間をカメラに収めたい。そのためにこの駅に降りたのだ。それでも急に出てきたので一瞬遅れた。

 とにかく、山の上に現れ、ループ線をぐるりと回って、湯檜曽駅に入ってきた電車に乗り、再び水上に戻る。


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 水上到着10時34分。次の長岡行きは11時40分である。同じところを行ったり来たり、一体何をやっているのだか・・・。 

(飲食店や土産物屋が軒を連ねる水上駅前)

水上駅前の火の見櫓)

上越線の高崎~水上間にはD51の牽くSL列車も運行されている。今日の運転はないが、水上には転車台が健在。そして、D51-745が保存されている。

 水上駅付近を流れる利根川。日本を代表する大河の源流域に近い。

 公園に咲くコスモス。赤トンボやバッタが多い。


 つづく