藤沢から茅ヶ崎まで石仏をみて歩く(2)

 小田急江ノ島線善行駅を起点に藤沢市から茅ヶ崎市にかけての石仏を見ながら歩いた話の続き。

peepooblue.hatenablog.com

 藤沢市大庭の舟地蔵をあとに小糸川沿いの道を100メートルほど行って左折し、さらに100メートルほど歩いて右折すると庚申供養塔がある。この道順は『石仏地図手帖・神奈川篇』のもので、実際は少し迷ったが、とにかく住宅地の中に庚申塔が見つかった。

 右端の庚申塔青面金剛が邪鬼を踏み、その下に三猿。

 この庚申塔の前を左へ行くと、すぐに双体道祖神地蔵尊

 地蔵尊は安永五(1776)年、道祖神は文政八(1825)年の造立。

 道祖神前を左折して、突き当りを右折すると、台谷戸公民館があり、その傍らに道祖神庚申塔がある。庚申塔青面金剛が二体の邪鬼を踏んでいる。

 この道祖神文久二(1862)年の造立で、基壇に「臺谷戸中」と刻まれている。塔高が1メートルもあり、神奈川県内では最大級だという。安曇野で大きな道祖神をたくさん見たので、そんなに大きいとは思わないが、確かに神奈川県では隣の庚申塔ぐらいのサイズのものばかりで、こんなに大きな道祖神は見た記憶がない。

 ここから住宅地をあとに山の中に入る。公民館の手前に山に登る入口がある。手元の『石仏地図手帖・神奈川篇』(コピー)によると、「いまでもこの辻が道祖神の火祭場となっている。今年も双体像や隣の青面金剛像は、火祭の消し炭をなすりつけられ、黒いお化粧をしている。燃えさかる火の中に、道祖神塔を投げ込んだり、消し炭を塗るのは、県内各地で広くみられる道祖神祭の習俗である」と書かれている。この本が出版されたのは平成2年で、もう30年以上前のことだが、平成初期まではそのような習俗が残っていたようだ。今も道祖神祭りが行われているのかどうかは分からないが、確かに男女神の顔に墨を塗った痕があるようにも見える。ちなみに火祭場というのは、「どんど焼き」などと呼ばれる小正月の行事をする場所のことで、集落ごとに正月の門松やしめ飾り、古いお札や破魔矢などを持ち寄って積み上げ、燃やすことで除災招福を祈願した。主に村の辻や広場などで行われ、そのような場所には大抵道祖神が祀られていたので、道祖神の祭りにもなっていたようだ。

 さて、曲がりくねった坂道を上っていくと、まもなく「大庭神社舊趾」の碑がある神社。細くて少し歪んだ急な石段が薄暗い山の中に通じている。『延喜式神名帳』にある大庭神社の旧地がここだったという説もあるらしいが、大庭神社の古い記録は残っておらず、確かなことは分からない。『新編相模国風土記稿』によれば、ここは熊野社であったようで、「熊野社、里人此社をも大庭神社の舊跡なりと傳ふれど上世の事にて信じがたし」と書き、ここは鎌倉時代の建長六年に創建された聖福寺の跡ではないかと推測している。

 とりあえず、上まで登って、小さな社を拝んできた。

 さらに進むと、臺谷戸稲荷の森。稲荷神社を取り巻く森で、タブノキの巨樹があり、藤沢市指定天然記念物である。臺谷戸はこの台地が「ダイ」、北側の谷が「ヤト」と呼ばれたことからの通称で、ダイとヤトの両地区で祀った稲荷神社なのだろう。

 ここで右折して西へ向かう。農村時代の名残といえる風景。よい道である。

 そろそろあるはずだ。あの「舟地蔵」。

 舟地蔵はあっさりと現れた。これか・・・。イラストとは顔が違うけど。

 有名なほうの舟地蔵は舳先を向いて座っているが、こちらは横向きである。舟の周囲はジメジメして、湿地のようになっている。湧水でもあったのだろうか。

 イメージしていたのとはちょっと違って、普通といえば普通のお地蔵さんだったが、じっくり拝んで、手を合わせ、舟地蔵の先で左折すると、ゴルフ場の下をトンネルで抜ける。芙蓉カントリー倶楽部というらしい。

 ゴルフコースを左に見ながら行くと、右手にまた神社があった。神明社らしい。

 その境内に庚申供養塔があった。「庚申供養塔」の文字を刻んだ角柱の上部に仏像が載っている。智拳印を結んでいるから大日如来だ。首に修復痕があるのは廃仏毀釈で破壊されたせいか。

 相州高座郡大庭村の庚申講が寛政九(1797)年に造立したもの。側面にびっしりと漢文で書かれた碑文を読み取ろうとしたら、足元でアカガエルが跳ねた。

 神明社を過ぎると両側がゴルフ場になり、道はやがてティーグラウンド前を横切る。危険なので、ゴルファー一行がカートで走り去ってから急いで通り抜け、クラブハウス前に出たら、曇天に沈む鈍色の海が見えた。

 クラブハウス前から車道は東へと下っていくが、僕は西へ下る細道を選ぶ。

 大庭隧道の上を越えると、元治元(1864)年創建の折戸日枝神社。その石段の右手に4基の庚申塔が祀られている。それぞれ元禄六(1693)年、宝永六(1709)年、宝暦六(1756)年、天保十五(1844)年の造立。

 ここはもう辻堂に近い。最初は辻堂駅まで歩いて終わりにしようかと思ったが、まだ13時前だ。さらに茅ヶ崎方面へ足を伸ばそう。

 

 ということで、つづく。

peepooblue.hatenablog.com