村尾嘉陵「井の頭紀行」を辿る(その1)

  江戸時代後期の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)が江戸の郊外のあちこちを歩いて旅した記録『江戸近郊道しるべ』については過去に記事を書いた。

peepooblue.hatenablog.com

 

 村尾正靖は徳川御三卿の清水家に仕えた幕臣で、多忙な日常に追われながらも、江戸近郊の神社仏閣や景勝地などを訪ね歩き、簡潔な文章とメモ、地図、スケッチなどの記録を丹念に残した。当時、これらが出版されることはなく、タイトルすらなかったが、後世に残された自筆本や写本をベースに大正期以降に『嘉陵紀行』、『江戸近郊道しるべ』、『江戸近郊ウォーク』などの書名で出版され、江戸時代の東京とその周辺についての貴重な記録として知られている。本書の魅力は何よりも田園都市とでも呼ぶべき当時の江戸近郊の風景の美しさを知ることができる点にあるが、さらに嘉陵が歩いた道筋を書き残してくれたおかげで、彼の旅のルートを現代でもある程度辿ることができるという点も魅力のひとつといえる。本書は嘉陵が訪ねた場所の「点」の記録ではなく、彼が歩いた「線」の記録なのだ。もちろん、彼が歩いてからおよそ200年の間に江戸・東京は大きく変貌し、彼が目にした風景はすっかり失われてしまった。それでも、200年前の侍が歩いた同じ道を自分も歩いてみたいという気持ちにはなる。

 ということで、手始めに彼が江戸から井の頭弁天に詣でた足跡を辿ってみよう。

 

 文化十三年九月十五日(1816年11月4日)、56歳の嘉陵は当時住んでいた浜町にある清水家の賜舎を巳の刻(午前10時)過ぎに出て、「市谷御門を出、尾張殿御やしき前より自性院前通りを過、三光院いなり前より行々て、左へ折て成子通りへ出、中野より又左に折て、堀の内妙法寺に参る、ここにて午の半過る頃と云」と書いている。ここまで簡単にルートを示すのみで、風景などの描写は何もない。彼にとっては歩きなれた道で、改めて書くことはなかったのだろう。

 

 嘉陵は市ヶ谷見附で江戸城下をあとに、尾張殿の上屋敷の前を行く。これは明治以降は陸軍士官学校となり、現在は防衛省などの敷地となっている場所で、嘉陵は今の靖国通りを行ったことが分かる。四ツ谷甲州街道に入るより新宿への近道だったからだろう。

 いま、高台にそびえる防衛省のビルは物々しいが、その近寄りがたい印象は徳川御三家尾張上屋敷の時代から変わらないだろうか。

 「自性院」は正しくは自證院で、新宿区富久町にある。正式には鎮護山圓融寺自證院。尾張家の徳川光友正室、千代姫の生母・お振の方を供養するため寛永十七(1640)年に創建された寺院で、院号もお振の方の法名に因んでいる。当初は日蓮宗だったが、不受不施派日蓮宗法華経を信仰しない者からは施しを受けず、また施しを与えもしないという一派。政権に対しても妥協せず、禁圧の対象となった)に対する幕府による弾圧で寛文五(1665)年、天台宗に改宗させられている。それでも、尾張家に縁の深い寺院で、広大な寺領に諸堂宇が立ち並んでいたので、嘉陵が歩いた当時も存在感はあったのだろう。

 明治になって寺領の大半が国に没収されたものの、残された境内には老樹が多く、門前に居を構えた小泉八雲が散策を楽しんだという。しかし、寺の経済的困窮により、それらの木々も伐採され、宅地化されるなどして、現在は寺域も大幅に縮小して、靖国通りからは奥まった坂の上にこじんまりとある。

 さて、次の目印は「三光院いなり」であるが、現在の新宿の総鎮守・花園神社である。

 徳川家康が江戸に入る前からあったと伝わるが、詳しい創建年代などは不明。当初は現在地より250メートルほど南(現在の伊勢丹付近)にあったのが、江戸初期にその地を旗本の朝倉筑後守が拝領し、神社がその屋敷内に囲い込まれてしまったため、氏子の請願により現在地に移転したとのこと。新しい社地は尾張下屋敷の庭園の一部で、花が咲き乱れていたことが花園神社の名称の由来であるという。ただし、当時は真義真言宗豊山派・愛染院の別院・三光院(明治初年の神仏分離で廃寺)が別当寺となっていたことから三光院稲荷と呼ばれていたわけだ。

 ここまで嘉陵が尾張殿屋敷、自證院、三光院稲荷といずれも尾張家に縁のある場所を経由地として書き記しているのは偶然だろうか。

 

 さて、村尾嘉陵が簡潔に済ませているところをだらだらと書き連ねてしまったが、実は市ヶ谷から新宿までは別の機会に歩いたもので、新宿から井の頭までが今回の徒歩紀行である。

 嘉陵が歩いてきた今でいう靖国通りはJR新宿駅の北側で大ガードをくぐり、そのまま青梅街道に直結している。嘉陵がいう「成子通り」は青梅街道のことである。しかし、当時は花園神社(三光院稲荷)を過ぎると、南に折れ、今の新宿駅東口前で青梅街道に合流し、そこから西に向かっていた。今は線路をくぐる半地下の歩道があり、その入口に旧青梅街道の碑が立ち、そばに説明板などがある。

 当時はもちろん鉄道などなく、このあたりはもう内藤新宿のはずれに近かっただろう。日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通するのは嘉陵の没後31年目のことである。ひたすら歩いていた嘉陵はそのような時代の到来を想像できただろうか。ちなみに新宿に最初の鉄道が通るのは明治十八(1885)年のことで、当初の旅客列車は新橋~品川~新宿~赤羽間に客車2両の汽車が1日3往復走るだけだった(すぐに4往復に増便)。新宿駅の利用者も1日数十人に過ぎなかったという。

 とにかく、我々は今や乗降客数世界一となった巨大駅の線路の下をくぐり、小田急ハルクの裏の道を行く。これが旧青梅街道の道筋で、嘉陵が歩いた道である。当時、この道筋の北側(ちょうど線路が通っている辺りか)に西方寺という浄土宗の寺があったが、大正9年に道路拡張のため今の杉並区梅里に移転している。

 ハルク裏の通りを抜けると、高層ビル群を見上げながら、現代の青梅街道に入る。このあたりは江戸時代の人には想像を絶するような風景の連続であるが、逆に現代人が江戸時代の新宿の風景を思い描くのも難しい。

 平安時代から続く成子天神を過ぎ、成子坂を下る。このあたりは江戸時代にはマクワウリの特産地としても知られていたそうだ。ということは、街道沿いには商家などが並んでいたとしても、その背後には畑が広がっていたのだろう。

 坂を下れば、淀橋で神田川を渡り、中野区に入る。嘉陵がめざしている井の頭の池を水源とする川である。

 淀橋を渡り、上り坂の途中で右上の高台に稲荷社を見て、坂を上り切ったところが中野坂上。さらに行くと、右手に真言宗豊山派宝仙寺がある。中野を代表する古刹で、寺伝によれば、寛治年間(1087-93)に八幡太郎源義家によって阿佐ヶ谷に創建され、大宮八幡宮別当寺となったという。その後、室町時代に中野の現在地に移転。徳川幕府の保護を受け、寺は発展し、将軍の鷹狩の際の休息所としても利用されたという。

 嘉陵は宝仙寺には触れていないから素通りだったのだろうか。

 

 まもなく鍋屋横丁の交差点。嘉陵が「中野より又左に折て」と書いているのがここである。

 ここで左折して南へ入るのが鍋屋横丁。交差点の南東角に由来碑がある。古くから北の新井薬師、南の堀之内妙法寺へ通じる道が分かれていた場所で、元禄年間に妙法寺が「厄除け祖師」として有名になり、日蓮宗の信者だけでない多くの参詣者で賑わうようになると、この横丁にも商家や料亭が軒を連ねるようになり、なかでもこの角地にあった休み茶屋「鍋屋」が繁盛したため、鍋屋横丁の名がついたとのこと。鍋屋は名物の草餅とともに庭にある二百数十本の梅林で知られ、花の時期には参詣客や文人墨客が多く訪れたという。嘉陵がここを通ったのは秋のことであったが。

 また、ここには「是より堀ノ内十八丁十間」と刻まれた道標があったというが、建てられたのは明治十一年なので、嘉陵は見ていない。この道標は平成十四年に妙法寺へ移されている。ただ、それ以前にも道標を兼ねた「南無妙法蓮華経」の題目塔があったようなので、それは目にしているだろう。とにかく、ここから十八丁十間ということは約2キロで妙法寺である。

 鍋屋横丁を南下して最初の信号を右折する。これが妙法寺への参詣道である。曲がらずに直進するのも古道で、大宮八幡宮を経て武蔵国府(府中)に通じている。井の頭へ直行するなら、こちらの方が早い。平安時代に奥州征討に向かう源義家の軍勢が通った道筋とも言われている。

 その妙法寺への曲がり角の近くにも道標を兼ねた題目塔がある。享保三(1718)年建立なので、嘉陵の時代には既に存在していた。

 ここから西へ行く。ようやく旧道らしい雰囲気が出てきた。

 ゆるやかなカーブを描きながら続く道。やがて左側が杉並区和田となって、中野・杉並区境の道となり、まもなく杉並区に入る。すぐに下り坂となり、小さな谷を越える。蛇窪の名があり、付近の湧水からの流れが善福寺川に通じていたようだ。このあと、もうひとつ小さな川跡を越えるが、いずれも暗渠化されている。

 道の両側には商店が並ぶようになり、和田帝釈天商店街の名があるが、その由来となった帝釈天堂がやがて右手に現れる。江戸時代末期の創建だそうで、嘉陵が歩いた時代に存在したかどうかは不明。

 参詣道はまもなく環状七号線に分断されるが、信号を渡った先に新しい題目塔があり、同じ敷地にかつて鍋屋横丁にあった道標が移設されている。いずれも嘉陵は見ていないものだ。

 ここから妙法寺商店街となり、ほどなく妙法寺に到着。10時過ぎに日本橋浜町の家を出た嘉陵が妙法寺に着いたのは「午の半過る頃」というから13時過ぎのこと。

 ちなみに僕が新宿駅東口をスタートしたのが10時頃で、妙法寺に着いたのが11時45分である。あちこちに寄り道したとはいえ、嘉陵よりはだいぶペースが遅いはずだ。

 さて、妙法寺である。古くは真言宗の尼寺であったが、江戸初期の元和年間(1615- 24年)、日逕上人が母・日圓法尼の菩提のため日蓮宗に改宗。この時に日圓山妙法寺と称した。当初は目黒・碑文谷の法華寺の末寺となったが、法華寺は幕府による不受不施派に対する弾圧を受け、元禄十一(1698)年、天台宗への改宗を強いられ、寺号も円融寺と改められた。それ以降、妙法寺身延山久遠寺末となり、この時にそれまで法華寺にあった日蓮上人像が妙法寺に移されている。この像は日蓮42歳の時の姿を彫ったものとの伝承から「厄除け祖師」として広く信仰を集め、日蓮宗の信者に限らず、多くの人々が厄除けの御利益を求めて妙法寺へ参拝するようになり、江戸から堀ノ内への参詣ルートが発展したわけだ。村尾嘉陵も妙法寺へは複数回お参りしているようである。

 なお、妙法寺は明和六(1769)年の火災で諸堂を焼失し、祖師堂は明和九年に再建されているが、老朽化のため、文化八(1811)年に再び建て直されている。従って、この時、嘉陵が参詣したのは新しい祖師堂の落慶から5年後ということになる。

 妙法寺にお参りした嘉陵はここから南へ針路を取り、大宮八幡宮を経て、井の頭弁才天へ向かう。ここからは紀行でも風景描写が多くなり、嘉陵が目にした風景と現在の風景を比較しながら歩くことになる。

 

 つづく

peepooblue.hatenablog.com