村尾嘉陵の墓

 正月に麻布十番に母方の祖父母の墓参りに出かけたついでに南麻布の西福寺を訪ねる。古川橋に近い明治通りに面した浄土真宗の寺である。

 ここに『江戸近郊道しるべ』を書いた江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の墓があるらしい。

 本堂に向かって左手に墓が並んでいて、そこから見ていく。浄土真宗なので、正面に南無阿弥陀仏と刻まれた墓が多く、しかも比較的新しいものが目立つ。家名は台石に彫られているので、それぞれがどこの家の墓なのか分かりにくいが、新しい墓は探索の対象から外してよさそうだ。

 嘉陵の墓については在野の歴史学者・書誌学者である森銑三(1895-1985)の「嘉陵紀行の著者村尾正靖の墓」(『森銑三著作集』第九巻所収)に書かれている。たまたま訪ねた西福寺で嘉陵の墓を発見した話で、それによると、寺には側面に村尾氏と刻まれた墓が四基並び、さらに別の墓一基を隔ててもう一基の合わせて五つの墓があったらしい。うち一基は合葬墓で、あとの四基には法名が彫られた墓だったという。そして、その中に「正靖居士晴雲信士」という法名があったという。背面には天保十二年辛丑年五月二十九日と嘉陵の没した日付があったので、これは確かに村尾嘉陵の墓だったようだ。

 しかしながら、現在は合葬墓一基のみが残っているという。とにかく、せっかく近くまで来たので、そこに嘉陵も葬られていると考えて、お参りしようと思ったわけである。

 本堂の左手から裏、さらに右手へと所狭しと並ぶお墓を一基一基見ていくが、なかなか見つからない。さほど広いわけではない墓地のすべてのお墓を見て歩いたのではないかと思うのだが、見つけることができず、おかしいなぁ、と諦めかけた時、ふと目を向けた先に「村尾氏之墓」の文字があった。

 いったん見つけてみると、大きくはないが、独特の存在感があるお墓である。

 貴重な記録を書き残してくれたことに対する感謝の気持ちを込めて、墓前で手を合わせる。

 背面には村尾氏についての文が彫られている。

「村尾氏本姓清和源氏而山名氏之枝流本國但馬也其先者出于山名左衛門權佐師氏子孫住于周防岩國師氏十二世村尾權右衛門誠正壯年出岩國到東武奉仕于徳川宮内卿清水殿代々為清水家臣當家者岩國村尾家之分流而誠正法名瑞雲院釋潜龍居士為家祖也

 大正十二年三月改修

          山名左衛門權佐師氏十七世孫

            當家六代 村尾文男記之」

 

 村尾氏が清和源氏の流れを汲む山名氏の枝流で、本国は但馬。その後、山名師氏が周防岩国に移り、師氏の十二世村尾誠正が江戸に出て徳川御三卿の清水家に仕えたことが分かる。森銑三によれば、村尾誠正の墓には没年が安永七(1778)年とあり、その隣には寛政六(1794)年に亡くなった東淵院釋常心居士という人の墓があったという。嘉陵は宝暦十(1760)年の生まれだから、数えで十九の年に亡くなった誠正が祖父、三十五の年に亡くなった東淵院が父と考えられる。とすれば、徳川清水家に代々仕えた村尾氏の三代目が正靖(嘉陵)であり、彼は清水家の御広敷用人を務めていた。御広敷用人とは城や屋敷の殿様以外の男性が立ち入れない大奥、奥方と外部の取次役である。主君の信用を得た人物が任される役職だったに違いない。

 『江戸近郊道しるべ』は愛読書といってもいいぐらいの存在なので、その著者の墓参りができてよかった。

 

(おまけ)麻布・善福寺の九官鳥

 麻布の古刹・善福寺で飼育されている2羽の九官鳥。鳥類は同一種ならほとんど同じ声というのが普通だと思うのだが、九官鳥は個体ごとに声質が違うのだろうか。


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