「祈り・藤原新也」展

 世田谷美術館で開催中の写真家・藤原新也(1944~)の展覧会に行ってきた。

 藤原新也の本は昭和の終わりから平成の初めにかけてずいぶん読んだ。『印度放浪』、『東京漂流』、『乳の海』、『メメント・モリ』・・・。『メメント・モリ』は若者のバイブルなどと言われ、今も版を重ねているようだが、個人的に最も強く印象に残っているのは最初に読んだ『東京漂流』か。地球上のすべての生き物が自然の摂理に従って生きている中でニンゲンだけがそれとは全く異なるルールに縛られて生きている。自然から孤立し、自然の中の異物として成立する現代社会の正体を見せつけられたような気がしたものだ。

 インドの放浪から始まった藤原新也の50年に及ぶ旅。どこにも所属しない旅人の視点で世界を見続けた彼の作品を「祈り」というキーワードのもとに一堂に展示する作品展である。

 展示室に入って最初に出合うコロナ禍による第一次緊急事態宣言で人の姿が消えた渋谷の街の風景からじっと見入ってしまった。

 そして、あの有名な犬が人間の遺体を食べる光景を写した作品。インドのガンジス川で水葬された遺体が川岸に漂着し、そこに野犬の群れが集まる。画面には人間の遺体を前にした黒と茶色の2匹の犬がいて、黒い犬が人間の足に齧りついている。何度も目にした写真なのに、そこにカラスも写っていることに今回初めて気がついた。人間はカラスにも食われるのだ。

 そして、これも有名なキャッチコピー。

 我々は犬が人を食べている光景を異常なものと感じてしまいがちであるが、かつてはごく普通の光景であったはずなのだ。日本でも古代から中世にかけてはたとえば京都の街なかに遺体が転がっている光景は決して珍しいものではなく、そこにカラスや犬がたかっていたという。もっと遠い昔、人類の祖先がアフリカで暮らしていた頃、人は最も多くヒョウに襲われ餌食になっていたと何かの本で読んだ記憶がある。人間も自然の一員である限り、それは自然なことだった。

 しかし、そうした自然に逆らい、壮大な自然のシステムの埒外に自らを置くようになると、人間が犬に食われるなどというのはあってはならないことになった。ヒューマニズムというのは神と自然に対する反逆のイデオロギーである。

 人間らしく生き、人間らしく死ぬ。そうあらねばならないという想念が人間を束縛し、自由を奪うのだ。ただ生きているだけではいけない、人間らしく立派に生きなければならない。その観念が人間を不自由にするということなのだろう。

「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」

 これは現代の人間社会に対する強烈なアンチテーゼである。

 

 ひとつひとつの作品と向き合うごとに、いろいろなことを考えさせられる。

 インドの街角で、藤原氏が路面に大きな紙を広げ、「大地」の文字を書き上げる光景が写真として、その書とともに展示されていた。その周囲に大勢の人々が集まり、突然現れ、大きな筆で文字を書き始めた日本人のゲリラ的なパフォーマンスに見入っている。その説明書きに、携帯などで撮影する人は全くいなかったとあり、ハッとさせられた。確かに誰もスマホを向けたりはしていない。ただ、じっと見ている。これが日本の街だったら、少なからぬ人々がスマホやカメラを向け、写真や動画を撮影するだろう。それがいけないことだと言うつもりはないし、自分もカメラを向けてしまうかもしれないと思うのだが、何でも安易に撮影することが、自分の目で見て、しっかりと自分の心に焼き付けることの放棄につながるということはあるだろう。

 実はこの展覧会は一部の作品(山口百恵ほか五人の人物を写した肖像写真)を除いて写真撮影可で、実際に多くの人がスマホで写真を撮っている。ただ、作品にはそうした行為を躊躇させるような力がある。

 といいつつ、僕も数枚撮影してしまったのだが、なんとなく後ろめたさのようなものを感じたりもした。

 とにかく、久しぶりに深く引き込まれる展覧会であった。1月29日まで。