村尾嘉陵「代々木八幡宮道の枝折」を辿る(その2)

 江戸の侍・村尾嘉陵が代々木八幡宮に参詣した道筋を辿る話の続き。

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 渋谷区代々木五丁目の代々木八幡宮と隣接する別当寺院の福泉寺参拝を終えた嘉陵は往路とは異なる道筋で帰路につく。そのルートは以下の通り。

 南出の門を出れば、門の傍に石地蔵あり、台石に正徳三と彫たるのみを読得、門の石階四丈斗、石壇八十余級あり、下りて少しゆけば、一条の馬みち〔西より東に行〕のかたはら、民家商を兼たるニ三戸ある所に出、そこを東行、少しばかりにて用水流るるをわたりて、田畝の間を屈曲盤廻して、東南行する事凡三十町ばかりにして、田の面広く見わたす所に出〔この田の面は、井伊殿のやしきのつづきの南のはづれにて、代々木田畝といふ、田の中みちを北に行ば、千駄ヶ谷八幡宮(現鳩森神社、渋谷区千駄ヶ谷一丁目)のうしろに出といふ〕、ここにて、少し北に立もどりて、又東に行ば四谷上水の切落し、流にかけたる橋あり、向ひに渡れば、橋の左に水ぐるまあり、この所にて燈に点ずるをみる〔これより上にも水車あれば、ここをば下の水車の橋といふとぞ〕、その前を少しのぼりゆけば、松平近江殿の恩田(隠田、渋谷区神宮前)のやしき(同三丁目)のうら手に出、垣にそふてめぐりめぐりてゆけば町あり、寺あり〔即原宿村(渋谷区神宮前二、三、四丁目)の町也〕、それより青山通り五十人町(港区北青山二丁目辺)を過て、熟路に就、家にかへれば六半時(午後七時)也けり

 文中、〔 〕内は嘉陵による割註、( )内は編注者朝倉治彦氏による註。

 

 今は福泉寺の門内にある石地蔵(実際は正徳三年ではなく元年の造立)を見て、南側の門を出て、嘉陵は山から石段を南に下っている。当時、八幡宮から西へ下る石段と福泉寺から南へ下る石段があったようだ。現在は西の山手通り側の石段だけが使われ、南の石段はその名残がマンションの私有地内に取り込まれ、部外者は通れないようになっている。

 山を下って少し行くと、「一条の馬みち」が西から東へ通じていたというのは、代々木と青山を結んでいた街道で、今は代々木公園内に取り込まれて消えている。

 福泉寺をあとに小田急線の代々木八幡駅の新宿寄りにある踏切(参宮橋6号踏切)を渡ると、すぐに河骨川の旧河道を横切る。これが嘉陵の渡った「用水」である。

(車止めのポールが立つ道が河骨川跡。突き当りが深町小公園。その向こうが代々木公園)

 その先には代々木深町小公園がある。深町はこのあたりの古い地名で、ずぶずぶの田圃だったようだ。

 その先でクルマの行き交う通りを渡り、代々木公園の西口から園内に入る。ここからは上り坂でなだらかな丘となる。当時は大名や旗本の屋敷が点在し、畑や雑木林だったのだろう。

 広々とした緑地を通り抜け、公園を原宿門から出ると、原宿駅前に出る。山手線の切通しには明治神宮の表参道を渡す神宮橋、その隣に五輪橋が架かっているが、さらに渋谷寄りに水無橋が架かっている。これが嘉陵が通った道筋である。もちろん、当時は橋は存在せず、台地上の道であった。明治十八年に鉄道が開通した時、台地を開削した切通しの線路となり、当時、代々木方面から青山方面に通じる唯一の道路が分断されることとなったため、切通しに橋が架けられ、橋の下に川が流れているわけではないため、水無橋となったのである。

(水無橋)

 水無橋で山手線を越え、古道は坂を下る。この先は渋谷川の谷。

 坂を下って行くと、表参道にぶつかる。もちろん、大正時代に明治神宮造営に合わせて整備された道で、江戸時代には存在しなかった。この表参道の青山方面を見ると、道が谷に下って、また上る様子がよく分かる。そして、このあたりが「田の面広く見わたす所」であり、その田圃が「代々木田畝」である。今はおしゃれな店が軒を連ね、若者や外国人観光客が集まる街が当時は水田だったわけだ。

 表参道を渡ると、古道の続きがあり、太田記念美術館前を過ぎて明治通りに出る。これも新しい道路だが、その旧道に相当する道は江戸時代からあったようで、南へ行けば、今の渋谷の中心部に通じていた。一方、北へ行くと、嘉陵が書いているように千駄ヶ谷方面に通じ、千駄ヶ谷八幡宮鳩森神社)の裏手に出たようだ。『江戸近郊道しるべ』の現代語訳では嘉陵が千駄ヶ谷八幡宮にも立ち寄ったかのような書き方をしているが、原文を読めば、立ち寄ってはいないことが分かる。

 とにかく、嘉陵はここから少し北へ行っている。明治通りを北に行くと、「竹下口」付近で右に分かれる原宿通りがあり、これが旧道のようだ(下写真)。

(田んぼの中の道)

 明治通りの反対側には東郷神社が見えるが、嘉陵の時代にはまだ軍神・東郷平八郎(1848-1934)は人としてもこの世に生まれていない。

 原宿通りの商店街を抜けると、2車線道路に出て、すぐ右に信号がある。道路はここで青山方面と千駄ヶ谷方面に分かれるが、どちらへも行かず、「妙円寺入口」の案内に従って右に入る。この細道が嘉陵の歩いた道である。

 すぐに暗渠化された渋谷川の跡を越える。嘉陵は「四谷上水の切落し」と書いている。渋谷川は新宿の天竜寺にあった湧水や今の新宿御苑明治神宮、さらに代々木付近の湧水を集めて流れる川だが、四谷大木戸付近で玉川上水に接続し、上水の余水を流していた。そのため、嘉陵は「四谷上水の切落し」と呼んだのである。

 そして、この付近の渋谷川はちょうど代々木方面からの支流との合流点にあたり、そこに水車があった。通称「村越の水車」と呼ばれ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』の「隠田の水車」で描いたのがこの水車ではないかと言われている(少し下流の鶴田の水車だという説もある。村越の水車は旧原宿村、鶴田の水車は旧隠田村)。

 渋谷川跡。当時は田圃の中を流れ、さまざまな魚やホタルなどが生息する清流だった。

(上の画面右奥から手前に来るのが古道。渋谷川は右から左奥へ流れていた)

 この地点で嘉陵は水車小屋に灯がともるのを見ているから、すでに夕暮れが近かったのだろう。

 川跡を過ぎると、すぐに台地へと上っていく。

 左手に日蓮宗妙円寺、浄土宗の長安寺が並んでいる。妙円寺境内には「原宿発祥之地」の石碑がある。かつて、この付近を鎌倉街道が通っており、宿場が置かれたのが原宿の起源であるという。嘉陵も書いている通り、このあたりが本来の原宿村だったのだ。

 道はまもなく突き当りで、左折。この道が旧鎌倉街道のようだ。そして、すぐに外苑西通りキラー通り)に出る。旧鎌倉街道外苑西通りを突っ切り、千駄ヶ谷方面へ北上していくが、嘉陵は今の外苑西通りにあたる道を右折し、青山通りに出ている。

 外苑西通りの反対側に海蔵寺黄檗宗)があり、その境内には旧原宿村の人々が建立した庚申塔(1795年)が保存されている。嘉陵が歩いた道沿いのどこかにあったものだろう。

 ちなみに外苑西通りの西側に解体を待つばかりの青山北町アパートの廃墟群があるが、ここが江戸時代には松平近江守の屋敷だった。

 さて、嘉陵は青山通りまで戻ってきた。ここまで来れば、彼にとっては馴染みの道であり、赤坂見附を経て江戸城下の自宅へ帰っている。帰宅は午後七時頃だったようだ。

(現在の青山通り、昔の五十人町付近)