嘉陵紀行「千束の道しるべ」を辿る(その3)

 村尾嘉陵(1760-1841)の紀行「千束の道しるべ」で彼が歩いた道を辿っている。彼が出かけたのは文政十一年七月二日、今の暦だと1828年8月12日である。この時、嘉陵は六十九歳。

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 当初の目的地だった中延八幡宮(旗岡八幡神社)に参拝したところから。

別当の坊は、社の西側別に門を構たり、社頭させる古木なし、門の傍らにやや大なる松の枯たるを、二丈ばかり幹をのこして切たるが見ゆ、又門外に石を建、長林山法蓮寺二十一世某正徳五年甲午二月とか彫たり、門前の茶店、藤棚ある所涼しげなれば休息す〔ここにて首にかけたる割籠とり出てしたたむ〕、ここより千束村池ある所まで何ほどありや、と問ば、十三町ありと、あるじの女いへり」

 目黒川を過ぎてからずっと台地の上を歩いてきたが、旗岡八幡神社はすぐ南側を流れる立会川の低地に面した台地の縁に位置し、その別当寺だった日蓮宗・法蓮寺は隣の一段低い場所にある。

 嘉陵の時代と変わらず、古木といえるほどの木はなく、枯れた松の切株もすでにない。正徳五年の石碑も見当たらなかった。

 当時は門前に茶店があり、涼しげな藤棚の下で嘉陵は休憩し、首にかけていた弁当を食べている。どんな風に掛けていたのだろう、どんな弁当だったのだろう、誰が作ったのだろう・・・いろいろな興味が湧く。

 三番町の嘉陵の旧居前をスタートしたのが10時20分頃。あちこち寄り道もしたので、嘉陵以上にたくさん歩いて、すでに15時だ。正直なところ、ちょっと疲れたが、茶店の女主人の洗足池まであと十三町という言葉に励まされ、法蓮寺をあとにする。1町(丁)は109メートルなので、あと1.4キロほどだ。正確なのかどうかは分からないが、いずれにせよ、大した距離ではない。

「そこを出て、少し田の面見わたす所を過て、林の中道を行、なだらかなる坂をくだれば千束村、池の南畔に出」

 すぐに池上線の荏原町駅の傍らの踏切を渡り、さらに南に行くと、立会川の暗渠を越える。目黒区の碑文谷あたりを水源として、東京湾へ注ぐ独立河川で、嘉陵の文章でいうと、「田の面見わたす所」が立会川の低地である。

 立会川を過ぎると、すぐに道が二股に分かれ、そこに庚申塔があり、その傍らに道標がある。天明三(1783)年に建てられたもので、「是より 右 うの木光明寺道 左 池かミ道」と彫られている。

 ここは右の鵜の木光明寺方面へ行く。再び台地に上っていくと、まもなく品川区と大田区の境界を東西にまっすぐ走る道に合流する。これが大変古い道で、古代の東海道(官道)とも言われる。東へ行くと、古代に駅家が置かれた大井駅の所在地とされる品川区大井へと通じている。

 この道を西へ行く。右(北)は品川区旗の台、左(南)は大田区北馬込である。嘉陵によれば、当時は林の中の道だったようだ。

(古代東海道ともいわれるまっすぐな道)

 やがて、品川区を抜けて、環七通りを渡ると池上線長原駅の商店街となり、まもなく中原街道に再び出合う。あとは坂を下れば、洗足池に出る。

 池のほとりには民家が五戸ばかりあり、酒や菓子を売る店もあり、それぞれに池畔を庭として、松や桜などを植えていたという。そうした様子は歌川広重安政三(1856)年に描いた『江戸名所百景』の「千束の池 袈裟懸の松」でも確認できる。


歌川広重『江戸名所百景 千束の池袈裟懸の松』(1856年)

 

「岸に立て池の向ひをみわたせば、御松庵を袈裟掛の松の葉ごしにみる、この松あるゆへに、庵をかく名づけしといふ、ここの見わたしのながめいとよし、池のふちを東にめぐりて、御松庵にいたる」

 洗足池の東側へ行く。令和元年に開館した勝海舟記念館の案内が目に付く。江戸城無血開城に導いた立役者、勝海舟(1823-99)が洗足池周辺の風光を愛し、ここに別荘を構え、夫妻の墓所もあるからだが、嘉陵がここを訪れた時、勝海舟はまだ六歳の少年である。嘉陵にしてみれば、自分の死後27年目に徳川幕府が倒れることなど予想すらしなかっただろう。幕臣・村尾嘉陵としては、世の中が激動に突入する前のよい時代に人生を過ごしたといえるのかもしれない。

 とにかく、池の東側に回り込むと、御松庵がある。

 門前の「日蓮上人袈裟掛けの松由来」という説明板に嘉陵の名前が出てくる。

「弘安5年9月(1282年)日蓮上人が身延山から常陸国茨城県)に湯治に向かう途中、日蓮に帰依していた池上宗仲の館(池上本門寺)を訪れる前、千束池の畔で休息し傍の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから、この松を袈裟掛けの松と称することとなり、また千束池を洗足池とも称されるようになったといわれる。

 天保期(1830~1843年)の『嘉陵紀行』によれば、初代の袈裟掛けの松は『枝四面におおい長さ幹囲み三合がかり、高さ五丈あり』程あったと記されている。

 なお現在ある松は三代目であると伝えられる」

 嘉陵が訪れた時、門の傍らに石工の仮小屋があり、宗祖の遠忌に建てる大きな竿石、台石などが四五個あったという。これだけの大石を運んでくるのは容易なことではないが、すべて宗門の徒の多力によるものだろうと書いている。


日蓮上人像)
 嘉陵が見た初代「袈裟掛けの松」は日蓮が当地を訪れたとされる年から546年後の姿だから、樹齢も相当なものだったはず。

「この松、根より一丈五三尺も上りて二股に成、枝四面に覆ひ垂れ、幹の囲み凡そ三合抱ばかり、高さ五丈あまり、南のほうにたれたる枝は、池の水にみどりを洗ひつべし」

 初代が枯れてしまった後、二代目以降はうまく育たず、何度も植え直されているらしい。今はそれらしい松が二本あるが、まださほどの古木ではない。

 

 袈裟掛けの松のそばに正面に南無妙法蓮華経の題目を刻み、側面に「五百五十遠忌報恩塔」とある巨大な石塔がそびえ立っている。嘉陵が訪れた時、石工たちが建てていたのはこれだろう。裏側には日感という御松庵を再興したという当時の住職の名前が刻まれている。

「この所にて、西北の見わたし、ながめ、ことによし、池のさし渡し、又ことさらにひろし、向ひの岸頭に当りて、松のみ茂りたる小高き所みゆ、そこの南のすそ、池のふちに鳥居たてるを見る、庵主の僧にとへば、かしこはここの八景の一、八幡山なりと云、古へ新田義興主鎌倉に行んとて、しばし住たまへる所、といひ伝ふよしなめれど、徴とすべき文もなし、ただ人の口碑にのこれるのみ也とぞ」

 袈裟掛けの松付近から見る八幡神社

 池の対岸に見える社が新田義興が鎌倉へ向かう途中、逗留したという伝承の地で、この土地の八景のひとつだと聞いた嘉陵は「千束村八景」をすべて書き留めている。

 袈裟掛松の夜雨、久我原落雁、洗足秋月、小山夕照、雪が谷の暮雪、八幡山晴嵐、土道橋帰帆、池上晩鐘。
 以上の八つで、それぞれを詠んだ和歌が添えられている。

 この中で注目したいのは「土道橋帰帆」である。五反田の大崎橋で目黒川を渡った嘉陵は橋の名を土道橋と書いている。そして、帰り道ではそこで川下から肥し舟が遡ってくるのを見て、これこそ八景のうちの帰帆であろうと書いているのだ。恐らく、嘉陵はここで目黒川に架かる橋こそが土道橋であると思い込んだのだろう。ただ、「千束村八景」にしては目黒川は遠すぎる。実は洗足池から流れ出た水が吞川(世田谷区深沢方面から流れてくる川)に合流する地点に道々橋という橋があり、そこには道々橋村があった。今も道々橋はあり、交差点やバス停にもその名は残っている。土道橋帰帆は呑川の道々橋の風景のことだろうと考えたい。嘉陵は洗足池で引き返しているので、それより南にある道々橋や呑川の名は知らなかったかもしれないが・・・。

 

「未のさがり、やがて申の刻にも近づきなんといへば、ここを出て、義興主の住たまひしといふ八幡山に行ばやと、池のふちを丸子のかたへ西に行て、少し坂をのぼり、道の右に「従是九品仏道」〔うらに旧碑延宝六戊午十一月森氏道円、かたはらに文化十一三月再建ときざむ〕、石の傍示ある所より横折行、楢木の下陰の細くふみわけたる小道を、北に行事二三町ばかり、東にのぼる山みちの下、片岨の草踏わけたる路を、南に行ば、前の庵の庭池のふちより、乾に見し松山の麓鳥居たてる所に至る」

 

 未の下刻、申の刻も近いというから午後三時過ぎだろうか。嘉陵は洗足池の西側で中原街道から北へ折れる九品仏道の道標について書いている。世田谷区奥沢の九品仏・浄真寺に通じる道を示すもので、道の右から左に移動しているものの、現存する。御忌講中という浄土宗信徒の組織が建てたもので、正面には「庚申塚」の文字を刻み、右側面に「従是九品佛道」、裏には旧碑が延宝六(1678)年に森氏道円が願主となって建立され、文化十一(1814)年三月に再建された旨が彫られている。まさに嘉陵が見たものだ。

 実は十年ほど前にこのあたりの古道について調べていた時に、この道標を見つけ、これが江戸時代の「嘉陵紀行」という書物にも出てくることを知った。村尾嘉陵という人物の名を知ったのもその時のことで、興味を持ち、『江戸近郊道しるべ』の書名で出ていた嘉陵の書を入手したのだった。ただ、その時は彼の足跡を実際に歩いて辿ってみることになるとは思わなかった。

 とにかく、嘉陵はここから九品仏道に入り、すぐ右に折れて、洗足池の北西畔に位置する千束八幡神社の前に出ている。今は池の周囲は宅地化されているが、当時はかなり草深い場所だったようだ。

 当時の社殿は藁葺きで、西側にひときわ大きな松がそびえ、それ以外にも多くの松の古木が日差しを遮って、鬱蒼とした境内は気味が悪いほどだったようである。境内の庵に痩せた法師がひとり住んでいたという。今も松の木はあるが、当時の古木はすでに枯れてしまい、残っていない。

 嘉陵はここに新田義興が逗留したという伝承を記しているが、今はそれよりも古い伝説のほうが有名だ。伊豆で挙兵した源頼朝が鎌倉へ向かう途上にこの地に宿営したところ、どこからか一頭の駿馬が現れ、その青毛の馬体は池に映る月影のように美しかったことから「池月」と命名され、頼朝の乗馬になったという話である。そばには池月の像も造られている。

 さて、嘉陵はこれで帰途につく。帰りは白金台から北西に進路をとり、新堀(古川)を相模橋(四の橋)で渡り、麻布の一本松、六本木の鳥居坂、赤坂の氷川神社を通っていて、いくらか近道だったようだ。帰宅して暮れ六つの鐘が鳴るのを聞いたという。暮れ六つは昼と夜の境目の時刻である。今の暦で8月12日のことだから、日没時刻でいえば6時半過ぎぐらい、すっかり暗くなるのはもう少し後だから、7時過ぎぐらいに帰り着いたということか。六十九とは思えぬ健脚ぶりだ。

 全行程を徒歩で往復した嘉陵には申し訳ないが、僕は洗足池駅から電車に乗った。