嘉陵紀行「半田いなり詣の記」を辿る(その1)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊日帰り徒歩旅行の足跡を辿るシリーズの第四弾。今回は江戸の東郊を歩き、現在の葛飾東金町にある半田稲荷神社を参拝する。東京と千葉の都県境まで行くので、けっこうな長丁場である。

 時は文化十四年水無月十五日(1817年7月28日)、嘉陵は数えの五十八歳である。

 半田稲荷に詣でようと、朝食後、浜町の家を出て、大川橋を渡り、小梅の水戸殿の屋敷の脇から一本道を、用水に沿って東に行くと、道の傍らに標示がある。「右江戸大川橋へ三十丁、左新宿(にいじゅく)、松戸へ二里」と記してある。
 ここに小径があり、「南に行くと木下川薬師、北に行くと梅若山王へ行く」とある(阿部孝嗣訳)

 朝食後、浜町の家を出た嘉陵は江戸通りを通って浅草まで北上し、大川橋で隅田川を渡っている。大川橋は今の吾妻橋である。今の風景は二百年前の人には同じ場所とは思えないだろう。しかも、異国の言葉が飛び交っている。

 嘉陵が「家を出て大川橋を渡って」と浅草までの行程は省略しているので、僕も今回は浅草をスタート地点として歩き出す。四国八十八か所のお遍路さんが巡礼中、常に弘法大師がそばにいて共に歩いてくださるという意味で「同行二人」という言葉があるが、今は嘉陵とともに「同行二人」で歩いている気分である。現代の風景を江戸時代の人にあれこれ説明しながら歩くのはなかなか大変だな、と考えたりもする。

 大川橋(吾妻橋)は江戸時代に隅田川に架けられた五番目の橋で、安永三(1774)年に架橋。当時は長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.3m)だった。

(『江戸名所図会』より。当時は彼方に筑波山が見えたようだ)

(源森川とスカイツリー

 橋を渡り、左へ折れて、墨田区役所の北側で隅田川に接続する源森川を枕橋で渡ると、昔の小梅村で、今は隅田公園となっている場所が水戸徳川家下屋敷跡である。

 その敷地に沿って行くと、東京スカイツリーの真下に達する。道沿いに地蔵尊が2体。

 

 スカイツリーの北から西へとかつて流れていたのが曳舟川。江戸時代に本所・深川方面に飲料水を供給する上水として整備され、上水としての役目を終えた後は水運などに利用された人工水路である。昭和30年代に埋め立てられ、今は道路となって、曳舟川通りの名称がある。嘉陵が用水に沿って東へ行ったというのはこの道である。

 東武とうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)のガードをくぐると、交差点の角に舟の形をした曳舟川の由来碑がある。

曳舟川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(一六五九年)に開削したものです。当時は、本所上水亀有上水などと呼ばれ、瓦曾根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて、本所と深川の各地に配水されたようです。
 その後、享保七年(一七二二年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に重要な交通路として利用されるようになりました。
 この川が『曳舟川』と呼ばれるようになったのは『サッパコ』と呼ばれる田舟のような舟に旅人を乗せ、岸から引かせたことによるものです。(中略)

 昭和二九年六月東京都告示によって川としての役割は廃止され、昭和三〇年代を中心に埋め立てられて、道路として整備されました。」

 その曳舟川通りを行く。今は川の痕跡はなく、ただ自動車が行き交うばかりの2車線道路である。昔は最初こそ人家が多かっただろうが、進むにつれて、周囲は田園地帯に変わっていったのだろう。

 東武線の曳舟駅のガードをくぐる。

 このあたりはいわゆるゼロメートル地帯なので、あちこちに標高の表示がある。

 海抜高度(標高)は東京湾の平均海面が基準になっているから、-0.6メートルだと干潮の時以外は海面下ということになる。湯船に洗面器を浮かべて底を指でグイっと押し込んだような状態である。周囲を洗面器の縁にあたる堤防で囲まれているからこそ水没を免れているというのがこのあたりの街である。江東区などでは東京湾の干潮時の最低水位より低い土地も珍しくない。地盤沈下の影響で昔より土地が低くなっていると思うが、江戸時代以前から水害多発地帯であり、河川改修などの治水事業は当時から続けられている。

 鐘ヶ淵通りと交わる「更正橋」交差点を過ぎると、その先に江戸時代には存在しなかったものがある。荒川だ。当時の荒川の下流部は隅田川であったが、たびたび大水害を引き起こしたため、大正から昭和初期にかけて都心部を通らない人工の放水路として開削され、昭和5年に完成したのが川幅が500メートルにも及ぶ現在の荒川である。

 大川橋へ三十丁(約3.3㎞)、松戸へ二里(8㎞)の道標があった地点も現在の荒川の範囲内と思われる。当時の道標も現存しないようだ。その地点から南へ行けば木下川(きねがわ)薬師、北へ行けば梅若伝説で有名な梅若山王(木母寺)に通じるとも書いてあったという。荒川放水路の開削により、木下川薬師も川の東岸に数百メートルほど移転している。

 

「ここを過ぎてなお行くと、四つ辻がある。東に行くと新宿、南斜めに用水の橋を渡って、水の南側の縁を行くと、市川に出る。後方の左の方角、西北の方が橋場へ行く道だという。ここに酒や菓子、飯などを商っている家が七、八戸ある。市川道の右、路に入って行くと西光寺という天台宗の寺がある。ここに葛西三郎清重の墓があるという。帰りに訪ねようと、右に見やりながら行きすぎる」

 

 荒川の広さを実感しながら、新四つ木橋を渡る。すぐ上手に四つ木橋があり、国道6号線・水戸街道を渡しているが、曳舟川通りも更正橋交差点から4車線の水戸街道になっており、この先で合流する。ただ、江戸時代の水戸街道はもっと北側を通っており、あとで歩くことになる。

 振り返ると、スカイツリーが少し遠くなった。

 荒川を渡りきると、続けて綾瀬川を渡る。江戸時代にもこの付近を流れていたはずだが、荒川の造成に合わせて河道が変えられているようだ。

 新四つ木橋を渡り終えると、葛飾区に入り、水戸街道の南側に荒川の開削で分断された曳舟川の水面が初めて現れる。ただし、川を暗渠化した後の親水水路で、川沿いの遊歩道には「四つ木めだかの小道」の名がある。

 この小道の右手は墓地で、その向こうにあるのが天台宗の西光寺である。嘉陵は帰りに寄ると言っているが、先に寄ってみた。

 平安末期から鎌倉初期にかけてこの地方に勢力をもっていた葛西清重の居館跡との伝承をもつ寺である。葛西清重は平家打倒、鎌倉政権樹立をめざして兵を挙げた源頼朝に従い、鎌倉幕府重臣となった人物である。この寺も嘉禄元(1225)年に清重が創建したという。親鸞聖人が清重の館に逗留し、上人に深く帰依したのがきっかけといい、当時は浄土真宗だったが、その後、衰退してしまい、後に天台宗寺院として再興されたそうだ。

 境内に清重稲荷があるが、これは同じ名前のものが嘉陵が訪れた時にもあったらしい。当然、祠は新しくなっている。

 その清重夫妻の墓と伝わるものが近くにある。寺の門を出て、境内に沿って右へ回り込むと、北星鉛筆の工場の南側に墓所がある。

 五輪塔と「葛西三郎清重墳」と彫られた石塔が並んでいる。五輪塔を見た嘉陵は葛西清重の墓ではないのでは、と疑っているが、これは清重供養のために江戸初期に建立されたものだという。その新しさゆえに疑問を感じたのだろう。

 当時は五輪塔の背後に「応永二十年十一月十四日何某禅門」と彫られた青石の墓石があったという。葛飾教育委員会葛飾区の歴史と史跡・名所・文化財』(1973年)によれば、西光寺には応永二十五(1418)年六月二十四日の「妙仙禅門」と刻まれた板碑があったそうだが、同じものかどうか。嘉陵の時代でもすでに400年前のもので、判読が難しくて読み違えた可能性もあるのかもしれない。

 

 さて、ルートに戻る。嘉陵が書いている「四つ辻」。嘉陵が歩いてきた曳舟川沿いの道(四ツ木街道)と斜めに交差していたのが、橋場から市川方面にまっすぐ通じていた道で、これは古代の官道(東海道)である。江戸から浅草付近を北上し、石浜で隅田川を渡り、市川市下総国府まで直線的に通じている。2本の旧街道の交わる地点に説明板がある。

(なぜか説明板全体が色あせているが、左端の隅田川から右端の江戸川まで下町を横断している赤い線が古代東海道

 奈良時代に整備された古代東海道隅田川の渡し、武蔵国府、平城京方面。今は国道6号線に分断されている。

 古代東海道下総国府、常陸国府、奥州方面。

 現在は古道の交差点をつぶすように国道6号線・水戸街道が走り、クルマが行き交っているので、そこにある歩道橋を渡ると、曳舟川の続きが道路の真ん中に曳舟川親水公園となって続いている。

 なお行くと、世継である。ここに茶店が二戸ある。この店では酒も売っている。二軒並んでいることから、二軒茶屋と呼ばれている。しばらくここで休む。ここから用水に小舟を浮かべ、二十八丁(約3.1キロ)の間を、綱で引かれて行くことができる。これを世継ぎの曳舟という。有名な所ではあるが、ここに来たのは初めてなので、珍しい光景である。

 嘉陵は世継と書いているが、四ツ木のことである。ここには江戸時代には「藤棚の茶屋」として知られた吉野家があったという。嘉陵が休んだ茶屋がそれだったかどうかは分からない。すでに藤の季節は過ぎていたはず。吉野家は明治になると、吉野園という花菖蒲の名所となり、昭和10年代まで続いたそうで、葛飾区立四つ木中学校あたりがその跡地であるという。今は吉野園商事という会社がその名を継承している。

 とにかく、嘉陵は四ツ木の茶屋で休憩した後、舟に乗って曳舟川を北上している。

(道路の真ん中に続く曳舟川跡の親水公園)

 つづく

peepooblue.hatenablog.com