嘉陵紀行「谷中に遊ぶ記」を辿る

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)の江戸近郊散策記『江戸近郊道しるべ』のルートを辿るシリーズ。今回は谷中である。文政六年三月十二日のことで、現代の暦では1823年4月22日。ちょうど200年前だ。この年には勝海舟が誕生し、シーボルトが来日している。嘉陵は数えの六十四歳。

 谷中の天眼寺に、儒者・春台太宰純の墓に詣でる。(阿部孝嗣訳、以下同じ)

 「谷中に遊ぶ」といって、まずは儒学者の墓参りというところが江戸の教養人らしい。東京の俗人とは違う。

 太宰春台(1680-1747)は荻生徂徠に学んだ儒学者経世家で、「凡(およそ)天下國家を治むるを經濟と云、世を經(おさ)め民を濟(すく)ふ義なり」と書く『経済録』などの著作があるが、嘉陵も春台の著書を読んでいたのだろう。

 天眼寺は台東区谷中一丁目にあり、言問通りに面した臨済宗の禅寺である。当時、嘉陵は浜町に住んでいたので、上野を通って東から来たようだが、僕は千代田線の根津駅からスタートする。言問通りを東へ歩き、不忍池に注いでいた藍染川跡の道を過ぎて、文京区根津から台東区谷中に入ると、すぐ右手に天眼寺がある。

 門の傍らに「太宰春台墓」の解説板がある。東京都指定史跡である。

 本堂に向かって、左手に墓地がある。新しい墓もあれば、古い墓もあり、かなり立派な墓もある。その中を少し探すと、小さな案内板があり、めざす墓が見つかった。同じ墓地を嘉陵も探し歩いたのだろう。

 墓は堂の裏手にあって、石面に「春台太宰先生之墓」と隷書体の八分で書かれてある。碑陰の文は、やはり儒者の服部元喬撰で、書はともに、烏石葛辰である。

 「春臺太宰先生之墓」と正面に刻まれた墓石の三面には小さな文字でびっしりと銘文が彫られている。「太宰先生諱純字德夫號春臺・・・」と始まる漢文は春台と並ぶ荻生徂徠の高弟、服部元喬(号は南郭、1683-1759)によるものだという。同じ徂徠門下でも春台が政治、経済、兵学といった方面に思索を深めたのに対して、南郭は詩歌を愛し、画業でも才能を発揮した文人肌の人物であった。烏石葛辰(松下烏石、1699-1779)は書家で、詩文を南郭に学んでいる。

 またすぐ近くに小石の碑が建っている。これは、寛政八年(一七九六)太宰子五十年の忌辰に、書肆嵩山房(しょしすうざんぼう)が建てたものである。三代の前の祖は太宰との親交が深く、書物を版行する際には必ず太宰に相談して出版を続けてきたがゆえに、今の書肆嵩山房の繁栄がある。今ここに小さいながらも碑を建て、祀ることによってその恩に報い、また、長く子孫に言い伝えてこの恩を忘れないようにするという。書肆嵩山房は日本橋の一商人であるが、恩を受けたことを忘れずに、言葉を石に託して子孫に残そうというのである。その志の篤いことに感銘する。

 この春台五十年忌に建てられた石碑は墓の傍らにある。そして、嘉陵の文章がそこに刻まれた碑文に基づいて書かれたものであることも分かる。200年前に嘉陵が立った場所に立ち、同じ碑文を読んでいるのだと思うと、そこに深い感慨が湧く。

 書肆嵩山房は江戸の出版業者で、姓は小林氏。代々小林新兵衛と名乗ることが多く、日本橋通二丁目に店を構えていた。初代が荻生徂徠の塾に出入りし、屋号の嵩山房は徂徠が命名したものだという。そうした縁で徂徠や春台、南郭らの著作の多くを版行していたわけだ。

 

 天眼寺の斜向かいにある昔ながらの煎餅屋。

 言問通りは天眼寺前から東に向かって緩やかに上っていく。この坂を善光寺坂という。信濃善光寺の別院が坂沿いにあったためで、永禄元(1558)年に谷中に創建されたという。当時は尼寺であったが、元禄時代に火災で焼失し、宝永二(1705)年に青山に移転している。嘉陵が訪れた時にはすでに谷中には善光寺はなかったが、坂の名前は当時も善光寺坂であった。嘉陵は上野桜木方面から善光寺坂を下って天眼寺を訪れたのだった。

(天眼寺前より善光寺坂を望む。走り去るトラックの左手に玉林寺)

 そこから玉林寺に、幕府の儒者で、鳩巣門人である中村蘭林の墓を訪ねる。

 

 天眼寺の斜向かいに玉林寺はある。曹洞宗の寺で、創建は天正十九(1591)年なので、寺院の多い谷中でも非常に古い寺ということになる。

 奥深い境内に入り、本堂の前に出ると、右手に千代の富士像がある。生前の平成二十三(2011)年に建立されたもの。お墓も境内にあるということだが、気がつかなかった。昭和の大横綱も嘉陵にとっては未来人だ。

 本堂の裏手に墓地がある。一段高くなっていて、古い石仏が両側に並ぶ石段を上がると、墓地はかなり広い。右手に墓域とは塀で仕切られた一角があり、巨樹が生い茂っている。スダジイの木で、玉林寺の創建以前からあるといい、東京都の天然記念物に指定されている。

 さて、多数の墓が並ぶ間を歩き回って、中村蘭林の墓を探す。太宰春台は名前ぐらいは知っていたが、中村蘭林はまったく知らなかった。

 蘭林は元禄十(1697)年、江戸の医者の家に生まれ、家業を継いで幕府の医官となったが、朱子学者・室鳩巣の門人となり、幕府の儒官に転じ、第九代将軍・徳川家重に近侍した。没年は宝暦十一(1761)年。嘉陵が生まれた翌年である。

 蘭林は号で、名を明遠、深蔵と称する。ここの墓は春台のに比べると、その四分の一ほどの大きさである。

 太宰春台の墓に比べてずっと小さいというのを目印にして探すと、あった。墓地の右奥の方。まったく知らない人のお墓なのに、嬉しい。懐かしいとさえ思う。そして、確かに周囲の墓石と比べても小さな墓である。

 石の表には、「蘭林藤原明遠之墓」と正楷書体の文字で書かれている。

 現代語訳の阿部孝嗣氏は藤原の後に(中村か)と誤記の可能性を示唆しているが、墓石には嘉陵の書いた通りの文字が刻まれている。中村蘭林の本姓は藤原だった。

 墓石の側面には「寶暦十一年辛巳九月三日卒」と彫られている。

 「墓石には、ただその姓名、生没年だけを記せば十分である。言行を記すようなことは浮華のことである」と、彼が著した『学山録』や『講習余筆』などには書かれている。碑陰の文がないのも、その遺志にしたがってのことであろう。室鳩巣の門の出といえども、「宋学の教えを研鑽すること、その師の如く、宋説に対しては毫も疑いを入れず」とある文にあったが、医者を志していた者が儒者に転じたという例は、この人をおいて他に例がないであろう。寺僧に問うてみたが、知らないと言う。墓参りする人もないので、寺僧に花を手向けてくれるように頼んで去る。

 嘉陵は蘭林の名、明遠を詠みこんで一首を残している。

 つたへこし道明らけく遠ながき世にもあふがん朽ぬ其名を

 

 ところで、玉林寺は山号を望湖山という。

 この山を望湖山と呼ぶ。ここはその昔猷廟(ゆうびょう、徳川家光のこと)が来られた時に、後山に登られて不忍池をごらんになり、こう名付けられたといわれている。 
 その頃までは、この辺りには人家もあまりなく、今のように樹木も生い茂っていなかったので、眼下には池水が見えるだけでなく、限りなく遠くまでの遠望も利いた。 

 シイの巨樹がそびえるあたりが境内でも一番高いので、家光はそこに登ったのだろう。現代ではもちろん、不忍池など見えるはずがないが、嘉陵の時代でもすでに池は見えなかったようだ。

 文政三年(十八二〇)に清水の土居の石垣が崩れた時に、掘り出された古い石碑をこの寺に納めたと聞いていたので、尋ねてみると、「青石の碑六、七個を小さな厨子に安置して、これを選仏場の傍らに置いてある」と言う。この碑の中に、「暦応四年(一三四一)と彫られた一番古い碑もあった。

 嘉陵が仕えていた清水徳川家の屋敷内から出土したという板碑が今もあるのかどうかは不明。

 さて、太宰春台と中村蘭林、二人の儒学者の対照的な墓に参った後、嘉陵は玉林寺をあとに善光寺坂を東へ上る。

 寺を出て、少し東に戻って、小径を四丁ほど行くと、奥に寺がある。領玄寺という。この寺には会式桜があると、ある人が言っていたので、その桜を訪ねてみる。

 

 善光寺坂を上る。坂沿いには寺院が並んでいる。200メートルほど行って、本光寺の角を左に入る。嘉陵が歩いた「小径」はこの道だろう。この界隈には日蓮宗の寺が多い。

(前方に聳えているのはヒマラヤ杉)

 まもなく右手に「谷中富士」がある。極小の富士塚である。

 江戸時代からあったらしいが、正確な築造年代は不詳。敷地内に中世の板碑もある。

 富士塚の先で右から道が合流する角にヒマラヤ杉がそびえている。最近まで株立ちしていた幹が一本を残して伐採されて、だいぶ姿が変わってしまったようだ。元々は木の下にある「みかどパン」の初代店主が植木鉢で育てていたものらしい。台東区の保護樹木に指定されている。

 この三方をお寺に囲まれた三角地帯は江戸時代には三方地店(さんぽうちだな)と呼ばれ、古くから人が集まる地区だったという。今も観光客、特に外国人の姿が目につく。

 そのヒマラヤ杉を過ぎて、さらに行くと道の奥に日蓮宗の領玄寺がある。ここに会式桜があったという。

 御会式(おえしき)とは日蓮上人が入滅した十月十三日の前後に宗徒が上人を追慕して行う法会のことで、その時期に咲くのが会式桜。池上本門寺などにもあるようだ。

 すでに葉だけになってしまって、花はわずかに二房、三房が、あちこちの葉の陰に残っているだけである。一重の山桜と思われるが、定かではない。

 嘉陵によれば、境内に享保六(1721)年十二月二十六日に遷化した身延山三十三世日享上人の墓があり、その墓前の桜に札を立てて、「享師桜十月会式に花咲く由」と記してあったという。ただ、それらしい桜は見当たらず、上人の墓も探せなかった。というのも、墓参の人も受付に申し出るようにと書いてあり、お寺側は部外者の境内への立ち入りを望んでいないような雰囲気だったからである。

 嘉陵は会式桜について、「この桜は春と冬と二度花を咲かせるのであろうか。おそらく会式の頃に咲く花は、返り花の類で、春咲く花にはかなわないのではなかろうか」と書いている。

 ちなみに境内には縄文中期の貝塚があるらしい。その頃は不忍池のあたりまでは海だったはずで、海に面した台地であるこの付近に縄文人が暮らしていたのだろう。

 

 寺門を出て東に折れていくと、瑞輪寺という寺がある。

 領玄寺をあとにヒマラヤ杉まで戻り、先ほど来た道ではなく、左の道を行き、すぐ左へ曲ると、この界隈では幅の広い道の先にこれも日蓮宗瑞輪寺が見える。今は両側に塔頭寺院(すべて日蓮宗)が並び、左手には日本美術院もあるが、この道の入口にかつては山門があったのだろう。

 門から本堂までおおよそ二丁。その間、左右はみな大樹の桜並木で、見上げれば道を隔ててこずえの枝が入り乱れていて、空が見えないほどである。しかも、そのこずえの高いことといったら、五、六丈はあるであろう。仰ぎ見ていると首の骨がかったるくなってくる。全体に淡い紅色の一重桜である。

 往時は桜並木が生い茂り、空が見えないほどだったというが、今は参道に桜は一本もない。

 慈雲山瑞輪寺は、身延山久遠寺第十七世慈雲院日新上人が身延山の江戸宿寺として天正十九(1591)年、馬喰町に創建した寺院。日新上人は徳川家康の幼少期の学問の師範でもあり、江戸に入府した家康が恩師に謝意を表するため、日新上人を開山に迎えて寺を創建したとのこと。

 元禄年中には幕府の不受不施派に対する弾圧により天台宗へと改宗させられた感應寺(現天王寺)から当寺へ江戸十祖師の一つである祖師像が移され、寺はその後、慶安二(1649)年に当地へ移転してきた。瑞輪寺は本山の格を有し、谷中の日蓮宗寺院の中でも中核的な存在である。

 本堂の傍らにある祖師堂の前にも桜が一本ある。これはとりわけ美しい。おおよそ境内には三十本ほどの桜があるが、その木の大きさは同じぐらいである。どの木にしても、二囲みには足りないが、一囲み半はある。また、桜のこずえというのはだいたいが枝を垂らしているものであるが、ここの桜はまるで銀杏の木のように、枝を空に向かって伸ばしている。世の常に異なる桜である。思うに上野や飛鳥山の桜は、都会の地に咲く花という感じであるが、ここのは深山の桜という思いが強い。桜の花の寿命も、都会の花に比べて長いのではないだろうか。

 境内では二本ほどある八重桜がちょうど見頃だったが、枝ぶりは普通。桜が三十本ほどもあったという嘉陵の時代とはまったく違って、深山の雰囲気などは微塵も感じられなかった。

 嘉陵の谷中散策記は瑞輪寺の桜を見たところで終わっている。儒学者の墓参りをして、桜を眺めて、このあと「どこかで美味いものでも食べて帰るか」となったのかどうか。