八王子城跡探訪(2)

 八王子城跡のある八王子城山に登った話の続き。標高446メートル(460メートルと書いてある資料もあり)の山頂の本丸跡に着いたところから。

 天正十八(1590)年六月二十三日の午前二時過ぎに開始された前田利家上杉景勝連合軍による攻撃は守る北条軍だけでなく攻撃側にも多大な戦死者を出し、あまりにも悲惨な戦いとなった。山は屍で覆われ、大量の血を吸い込むこととなった。城代の横地監物吉信が守っていた本丸が攻撃側の手に落ちて、八王子城は落城。これが決定打となって小田原城に籠城していた北条氏政、氏照兄弟も豊臣方に降伏するほかなくなった。それが七月五日。氏政、氏照が秀吉に切腹を命じられ、北条氏が滅亡したのが十一日のことだった。そして、ひと月も経たぬうちに徳川家康が江戸に入り、関東は家康の支配下となったのである。

 もし北条氏が豊臣秀吉に徹底抗戦せず、速やかに臣従する道を選んでいたら、その後も関東、少なくとも相模・武蔵は引き続き北条氏の支配が続いたかもしれない。そうなったら、その後の歴史はどう変わっていただろうか。

 とにかく、祠と石碑があるだけの本丸跡からすぐ下の八王子神社がある曲輪(中の曲輪)まで下ると、その南側には二の丸だった松木曲輪がある。

 大きな石碑が二基立っており、今はベンチも置かれ、ちょっとした展望台になっている。谷を挟んで、向かい側に高尾山が見える。

 この松木曲輪を守っていたのが中山勘解由家範。わずかな兵力で前田の軍勢に対して奮戦したが、圧倒的な敵兵の前に討死した。その勇猛ぶりが徳川家康の耳にも届き、遺児が取り立てられて、水戸藩の家老にまでなっている。

 松木曲輪のすぐ下には当時からの井戸が残り、今も清らかな水が湧いているというが、それは見逃してしまった。

 八王子神社の北側には三の丸の小宮曲輪。今は一対の狛犬が残るだけだが、以前は御嶽神社が祀られていたらしい。祠は撤去されていたが、その奥に小さな石の祠があった。

 狩野一庵が守っていたが、上杉軍の奇襲により攻め落とされ、それがきっかけで本丸まで次々と突破され、落城につながった。また、ここでは炭化した握り飯や味噌玉、米、麦、桃や梅干しのタネなどが発見されている。

 山上での激戦と同時進行で山腹から山麓まで各所で死闘が繰り広げられていたのだろう。秀吉は徹底抗戦の姿勢を崩さぬ小田原の戦意を挫くためにも八王子では前田・上杉軍に徹底的な殺戮を命じたという。

 下りは新道経由。こちらは尾根筋を下る。この山も高尾山と同じ地質で、1億年ほど前に海底で堆積した土砂が固まった砂岩や泥岩(頁岩、粘板岩)の互層なので、そうした岩盤が至るところで露出している。

 山中で採れる岩石が石垣などにも利用されているようだ。

 金子丸。金子三郎左衛門家重が守っていたと伝わる。尾根をひな壇状に造成して、敵の侵入を防ぐ工夫がなされている。

 片道30分弱で頂上まで登って、下ってきたが、ハイキング気分というよりは、悲惨な戦場となった場所だということを考えながらの山歩きだった。そういう場所なので、古くから怪談話も多く、長い間、死霊が宿る「忌み山」として、人々を遠ざけてきた歴史があったようだ。

 山の上は戦時に備えた要害地区だったが、次に氏照が生活していた居館跡を見に行く。

 つづく