八王子城跡探訪(3)

 関東における戦国時代最後の激戦地となった八王子城跡を探訪した話の続き。城山山頂部の要害を見て回り、山を下ってきたところから。

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 登山道入り口には管理棟などがあるが、この平坦地も曲輪(くるわ)の跡であるようだ。そこから一段下った城山川の渓流沿いの道を上流へ向かって行くと、大砲のような望遠レンズをつけたカメラを持った一団がいる。何か珍しい鳥がいるのだろう。気になったが、素通りして、渓流の対岸に渡る。

 そこが大手門跡。今は埋め戻されているが、昭和六十三年の発掘調査で門の礎石や敷石が見つかったそうだ。ここが当時の八王子城の正面口と考えられ、この右岸側の道が当時は下流からずっと続いていたらしい。

 しばらく進むと、対岸へ渡る木橋がある。これは現代の橋だが、往時はここに城主の居館である御主殿へ通じる木橋があり、敵の侵入を阻止するため簡単に橋を落とせる構造になっていたと考えられている。発掘調査で橋台の石垣が検出されている。

 この橋を渡ると、御主殿への入口。往時のままの石垣が残っている(一部補修)。長い年月の間に土の中に埋もれていたのが、崩れることなく良好な状態で出土したという。

 ここでもすべて城内で産出する硬質砂岩が使用されている。

 入口から9メートルの標高差を25段の石段でコの字形に上っていくと御主殿跡。

 石段を上りきると広場に出て、そこが御主殿跡である。夏草の中に石が点々と配置されている。ここからは城主・北条氏照の生活と政務の場であった「主殿」と宴会などを行ったと思われる「会所」、さらに石を敷き詰めた道路や水路、池のある庭園などの遺構が発掘された。現在はすべて埋め戻され、厚さ60センチの盛り土の上に建物の礎石や道路や水路の敷石、庭園の庭石などを忠実に再現している。下の写真の右手が城山。

 会所と推定される建物跡は床面を再現し、間取りや敷居も表現されている。

 ここでは中国製の陶磁器だけでなく、イタリア・ベネチア製のレースガラス器まで発見されており、それは戦国時代の城では唯一のものだという。氏照が滝山城から八王子城に移った時期は諸説あって、正確には分かっていないが、いずれにしても短命の城ではあった。戦に明け暮れる日々でありながら、ここで安らかなひと時を過ごすことも少しはあったのだろう。

 キビタキがしきりにさえずっていたが、姿は見つけられなかった。

(過去にほかの場所で撮影したキビタキ

 松尾芭蕉が平泉で「夏草や」の句を詠んだ時に眺めた風景もこんな感じだったろうか。まさに兵どもが夢の跡だ。

 御主殿跡から下ると、城山川にかかる「御主殿の滝」がある。

 断層でできた滝だと思うが、八王子城が落城した時、城の将兵や女性たちが自害し、身を投げた場所だと伝えられている。川の水は真っ赤に染まり、それは三日三晩続いたという。ということで、ここは心霊スポットだと後で知った。

 滝の上には南無阿弥陀仏の供養塔。

 恐らく、少なからぬ子どもも犠牲になっただろうし、武家だけでなく、城下の農民なども巻き込まれたことだろう。この戦の後、関東では天下泰平の時代へと移っていくのだ。

(滝もいいけれど、小仏層群の露頭も見ごたえがある)

 滝をあとに、渓流沿いの林道を戻る。相変わらず野鳥カメラマンがたくさんいるので、「何がいるんですか?」と聞いてみたら「サンコウチョウ」とのことだった。なるほど。帰宅後に「八王子城サンコウチョウ」でネット検索してみたら、写真がたくさん出てきた。 

 八王子城跡のサンコウチョウ! | 東京近郊の野鳥撮影日記

 大砲の列に水鉄砲みたいなカメラで加わる気にもならないので、そのまま高尾駅まで50分ほど歩いて戻る。

 城山から見た京王線

(新宿行きの電車が高尾の次の狭間駅に到着するところ)

 

 24,879歩。