本当に霧の摩周湖とタンチョウ

 北海道・摩周湖に近いユースホステルにいる。

 午前4時。「4時ですよ」というヘルパーさんの声にすぐ目を覚ます。宿から5.5キロほどの摩周湖まで歩いて日の出を見に行くのである。相部屋の寝室のドアの表には『全員行きます』の札が掛けてあり、それに合わせてヘルパーさんが起こしに来てくれたわけである。

 出発準備を済ませ、階下へ降りると、ほとんどの人が行くようで、外はまだ真っ暗だというのにユースの館内はにわかに活気づいた。

 屋外に出ると、強烈な寒さに身を包まれる。

 摩周湖への一本道は街灯などあるはずもなく、目が慣れるまでは本当に何も見えない。

 お互いに相手の顔も見えないまま、ワイワイガヤガヤ、未明の道を歩く。振り返ると、後続集団の懐中電灯だけがぽつんとひとつ揺れている。

 少し霧が出ているようで、闇に目が馴染んでも、周りがどんな景色なのか、よく分からない。前方も霧でぼ~っと霞んでいて、道路も霧の中に消え入っている。

 どこまでもまっすぐ続く道をひたすら歩き続け、だいぶ来たな、と思う頃、過去に何度か歩いたことのある大学生のNさんが「やっと半分ぐらいだ」などという。

 え、まだ半分?

 確かにまだ出発して40分ぐらいしか経っていない。摩周湖までは1時間20分ほどだそうだ。

 空が白んでくるにつれて、霧が思っていたよりも深いことが分かってきた。一応、日の出を拝むというのが摩周湖へ行く目的なのだが、日の出どころではなさそうだ。せめて湖が見えますように。

 一直線に続いていた道がにわかに曲がりくねって、勾配も急になってきた。

 登っていくと、ようやく立ち込める霧の彼方に幻のように摩周湖第一展望台の電灯がひとつ見えてきた。

 着いた!という歓声があちこちであがる。

 やっとたどり着いたという安堵感と湖は見えるだろうかという不安感を抱いて、雪で凍りついた階段を駆け上がり、展望台に立った。

 摩周湖第一展望台からのライブカメラ

 しかし、あるべきところに湖はなかった。周囲は全面的に真っ白な霧で、何も見えないのだった。

 ああ、という失望感のこもったため息があちこちで聞こえる。

 がっかりしたのは確かだけれど、こんなに何も見えない濃霧の中を歩くのもなかなか体験できないことだし、展望台そばの木々にはびっしりと霧氷がついて神秘的ですらある。いい思い出になりそうだ。

 見えない摩周湖をバックにいずれも東京の大学生であるNさん、Sさんや23歳だという綺麗なお姉さんと一緒に記念写真を撮ったりして、また同じ道を歩いて帰る。

 相変わらずの霧の中を歩くうちに、みんなの髪の毛に霧が凍りついて、白髪頭のようになってしまった。

 往路は暗くて何も見えなかったが、すっかり明るくなって、あたりが森林地帯であることが分かる。ミヤマカケスのつがいが木から木へと飛び回っていた。

 

 森林が途切れ、牧草地が広がり、最初に見えてくる建物が摩周湖ユースホステルだ。  7時頃に帰着。少し休むと朝食。搾りたてのミルクが出たが、表面に膜が張るほど濃くて、飲みなれた普通の牛乳とは全然違う味だった。

 

 さて、今日の予定だが、急ぐ旅でもないし、ここでもう一泊していこう。それでSさんと鶴居村の鶴見台にタンチョウを見に行くことにした。

 鶴見台は弟子屈(てしかが)から釧路方面へ40キロほどの地点にあり、釧網本線弟子屈駅から阿寒バスが出ているが、バスは12時半までなく、しかも片道1,050円もかかる。しかし、ほとんど一本道だからヒッチハイクでも行けるそうだ。僕はまだ未経験だが、今回はヒッチハイクで行ってみようと思う。

 まずはヘルパーさんの運転するマイクロバスで弟子屈市街へ向かう。まずは駅に立ち寄り、列車に乗る人たちを降ろし、次にレンタカーで回るというグループを阿寒バスの営業所で降ろし、残った僕たちは弟子屈の街はずれで降ろしてもらった。

 マイクロバスが走り去り、二人だけが道端に取り残されると、本当にヒッチハイクができるのか、と少し不安になるが、こうなったら実行あるのみだ。Sさんもヒッチハイクは初めてらしい。

 とにかく、降ろしてもらったが見通しのきかないカーブの続く区間だったので、釧路方面へ歩く。車が来るたびに手を挙げたが、そう簡単には停まってくれない。いつのまにか2キロぐらいは歩いてしまった。

 直線区間で本格的に始める。

 1台・・・2台・・・。

 なかなか停まってくれない。当たり前だけど。

 5台・・・6台・・・。

 最初は控えめだった手の振り方もだんだん派手になってきた。通る車の数も少ないから、一台来るたびに気合も入る。なかにはダメダメと手を振って走り去るドライバーもいた。

 また車が来たので、二人で両手を振っていたら、それがタクシーで一瞬焦ったが、幸いお客さんが乗っていたので助かった。

 通り過ぎた車が10台を超えた頃、とうとうダンプカーが左ウィンカーを点滅させて停まってくれた。

 恐縮しながらも喜んで乗り込み、「鶴見台まで乗せていただきたいのですが」というと、50歳ぐらいの運転手さんは「あそこには鶴がたくさんいるよ」と教えてくれた。

 この冬は「異常気象」で、雪が降るべき時に降らず、降らない時にたくさん降ったそうだが、沿道にはまだまだ雪が多い。

 二人とも東京からだというと、東京ではもう桜が咲いたか、と聞かれた。一度、青森県弘前に桜を見に行ったことがあるそうだ。

 なだらかな起伏の続く雄大な丘陵地帯を右に左にカーブしながらトラックは走る。途中でスノーシェルターがあったりして、いかにも北海道らしい風景だが、トラックの運転台がこんなに見晴らしがいいとは初めて知った。

 久著呂という集落を過ぎて、やがて鶴居村の市街地にさしかかる。鶴がいるから鶴居村なのだろうか。

 そこで運転手さんが新しい軍手を買って、再び走りだす。

 市街地を抜けて、再び広々とした雪原に出ると、「もうすぐだ」というので、2,3キロかと思ったら、10キロも走って、ようやく鶴見台に着いた。

 メロンのキャンディーまでいただき、お礼を言って、走り去るトラックを見送った。

 さて、初めてのヒッチハイクで到着した鶴見台はもう少し高台なのかと思っていたが、平坦な土地で、去年訪れた阿寒町の「丹頂の里」と似た場所だった。ただ、こちらには観察センターのような施設はなく、従って無料で見学できる。

 タンチョウはたくさんいた。数えてみると60羽以上はいる。あまりに多くて、有難みはないが、こんなにたくさんのタンチョウが一度に観察できるのはこの地方ならではだ。

 やがて、レンタカー組も到着して、一緒に写真を撮ったりした。

 持参の双眼鏡で鶴を観察。同行のSさんは立派な望遠レンズ付きのカメラで撮影していたが、僕の安カメラではごま塩ぐらいにしか写らないだろうと思いながらも、何枚か写真を撮った。

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(ゴマ塩のように見えるタンチョウの群れ)

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 雪上の鶴はあまり引き立たないが、ひとたび大空に舞い上がると、タンチョウの美しさは格別だ。朝の霧が嘘のように晴れて、雲ひとつない青空を優雅に舞う鶴の姿には本当に感動した。

 レンタカー組が美幌峠へ行くといって一足先に行ってしまい、しばらくSさんと二人で鶴を眺めていると、もう一組のレンタカー組がやってきた。

 タンチョウをゆっくりと見て、今度は僕らのほうが先に鶴見台をあとにして、弟子屈方面へ歩き出す。またヒッチハイクだ。

 今度はわりと簡単に停まってくれたが、鶴居までしか行かないというので、丁重にお断りして見送ったのだが、その後、なかなか車が通らず後悔した。

 次に停まってくれた車も鶴居までしか行かないということだったが、とりあえず乗せていただいた。今度は普通の乗用車である。とても感じのいい男性だったが、助手席に座った僕としてはタバコの煙がすごいのに参った。

 10キロ近く走って鶴居村の中心部に入る手前で降ろしてもらい、また車が通るのを待ちながら歩いていたら、さっきのレンタカー組がクラクションを鳴らして通り過ぎて行った。こちらも手を振り返すが、なんとなくみじめな気分でもある。

 村の中心部にさしかかると、トラックが停まってくれたので、「弟子屈まで乗せていただきたいのですが」というと怖そうな顔をした運転手さんが無言のまま目で「乗れ」と合図したようだった。

 恐縮しながらも高い運転台に乗り込むと、雑然として足の置き場にも困ったが、タダで乗せてもらうわけだし、ゼイタクは言えない。とにかく、これで弟子屈に帰れる。

 鶴居の街はずれの店の前で一度停車したので、何かと思ったら、Sさんが百円玉を3枚渡されて、「ここにビン入りのコーヒーを売っているから3本買ってこい」と言われた。

 Sさんがコーヒーを買いに行っている間に「どちらまで行かれるんですか?」と尋ねると、「サッツル」と答え、「といっても、どこだか分からねぇだろ」というので、「昨日汽車で通りました」と答える。札弦は釧網本線弟子屈から網走方面へ4つ目の駅である。

 Sさんがビン入りコーヒーを3本抱えて戻ってきて、出発。1本ずつご馳走になった。

 運転手さんは一気に飲み干すと、窓から雪の中にビンを投げ捨てたが、僕は飲み終えたビンをずっと握りしめていた。

 やがて電線にフクロウが止まっているのが見えたが、一瞬のことで、気づいたのは僕だけのようだった。

 往路の運転手さんは冬の北海道について「流氷なんかはきれいだもんな」などと言っていたが、今度の運転手さんは「流氷なんてあんな汚ねえもの!」といった調子だ。

 それからユースホステルは一泊いくらぐらいするのか、というような話をするうちに弟子屈が近づいてきた。

 運転手さんは時々、無線でほかのトラック運転手と交信している。

弟子屈までお客さん二人乗っけてるんだ」などと言っていた。

 やがて釧路行きの阿寒バスとすれ違った。ヒッチハイクでなければ、今のバスに乗るはずだった。

 弟子屈の市街にさしかかって間もなく、運転手さんがトラックの前でもたついていた車に向かって「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけた。

 お礼を言ってトラックを降り、コーヒーのビンをゴミ箱に捨てて、道を尋ねつつ弟子屈駅に戻った。

 駅前食堂で牛丼を食べて、外に出ると、ちょうどユースの送迎バスがやってきた。列車で到着する宿泊者を待って、僕らも便乗させてもらい、宿に戻った。

 夕食までの時間は併設の喫茶店ミルクランドで過ごす。椅子やテーブルはない、カーペット敷きの空間で、いろいろなゲームやパズルがある。ぽかぽかと暖かく、居心地がいい。200円のカフェオレを飲みながら、のんびりくつろいだ。旅先ではこんな無為な時間もたまにはいいものである。