嘉陵紀行「小日向道栄寺・柏木村円照寺 桜のつと」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の記録『江戸近郊道しるべ』のコースを辿るシリーズ。今回は今の文京区小日向にある道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで歩く。

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 嘉陵が歩いたのは文政三年三月十日(1820年4月22日)のこと。前編では新宿区余丁町の「抜弁天」までやってきた。

 ここから抜弁天通りを西へ向かうが、その北側に旧道が残っており、それが「久左衛門坂」である(嘉陵は若松町から抜弁天方面へ下る団子坂と混同した可能性がある)。路傍に坂の名前と由来を記した標柱が立ち、徳川家康の江戸入り以前から大久保に居住する島田家の久左衛門が開いたことにちなむ名称だとある。このあたりの町名は新宿七丁目だが、昔の東大久保村である。

抜弁天通りから右に分かれて下る旧道・久左衛門坂)

 坂上には慶安元(1648)年創建の永福寺曹洞宗)があり、境内に銅造の大日如来地蔵菩薩の座像が並んでいる。宝永六(1709)年造立の大日如来抜弁天別当で明治初期に廃寺となった二尊院にあったものだと伝えられている。

 境内にはほかにも庚申塔やさまざまな石仏、山の手七福神の寿老人を祀るお堂などがあるが、嘉陵はこの寺については何も触れていない。

 「少し行て天満天神の社あり〔祠正西に向ふ、故に西向天神と云〕、本社は銅をもていらかをふく、幣殿、拝殿は茅もてふけり、寂寞として人の来るを見ず、祠頭に大なる松二十本ばかり、てる日の影ももらぬばかり、梢おひしげり、いと神さびたてり」

 嘉陵は抜弁天の後に西向天神を訪れている。旧東大久保村の鎮守であった西向天神は鎌倉時代の安貞二(1228)年創建という古社で、その名の通り、社殿が西方を向いている。台地の端に位置するため、古くから景勝地としても知られていた。

 久左衛門坂の途中で左折し、抜弁天通りの下をくぐって、まっすぐ南へ行くと、左手の高台が西向天神で、境内にはかつての別当寺、大聖院もある。明治の神仏分離後も寺と神社が同じ敷地にあるのは珍しい。境内には富士塚もある。

 昔は境内に松の木が生い茂っていたそうだが、今はクスノキケヤキが目につく。桜もあるが、まだ若い。

 社殿前の狛犬は宝暦十二(1762)年造立なので、嘉陵が三歳の時からここにあり、当然、彼も目にしただろう。

 「木の間より見れば、西南のかた田の面をへだてて、向ひの山の木だち見わたさる、ながめ又こよなし」

 当時は天神の下は田圃が広がり、その向こうの山の木立が見えたようだ。田圃だった低地を挟んで、すぐ向こうは地形が高くなっているのは今でも分かるが、もちろん、すべてコンクリートに覆われている。その意味でもこの西向天神は昔の雰囲気を残していて、貴重な空間だ。

 西向天神一帯はかつては桜の名所でもあったそうだが、嘉陵が訪れた時にはもう桜の木は社殿の傍らに一本あるのみであったという。

(石段の下は田圃だった)

 境内に残る富士塚

 さて、再び久左衛門坂に戻り、坂を下ると、そこにはかつて蟹川が流れていた。歌舞伎町付近に水源があり、西向天神の下の田圃の中を流れ、大久保から早稲田を経て、神田川に注いでいた川で、加二川とか金川とかいくつかの表記がある。

(ゆるやかなカーブを描きながら下る久左衛門坂)

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた道)

(現在、久左衛門坂の区間抜弁天通りは勾配緩和、直線化され、北側に旧道が残る)

 蟹川の谷を過ぎて、少し上ると再び抜弁天通りに合流。

 抜弁天通りはすぐに明治通りと交差し、ここから道路名は職安通りに変わる。交差点の地下が都営大江戸線東新宿駅で、明治通りの下を走る東京メトロ副都心線との接続駅になっている。「市谷柳町」交差点付近の牛込柳町駅から若松河田駅東新宿駅と嘉陵が歩いた道の下を現代の大江戸線が走っているわけだ。

 「猶行て百人町〔南中北の三筋あり、こは南町也〕、家々にあるとはなけれど、ここかしこ花あり」

 

 明治通りを過ぎると町名は北側が大久保、南側が歌舞伎町となり、北側はまもなく百人町となる。百人町は江戸幕府の警護に当たる百人組の鉄砲隊(伊賀組)の居住地で、東西に走る三条の通りに沿って南北に細長い短冊状に区切られた土地に屋敷が並んでいた。この区割は今もそのまま残っているが、今ではハングルの看板が目立つ街となり、いつのまにかさらに多国籍化が進んでいる。

 百人町の三本の道のうち、最も南がいま歩いている職安通りである。百人町の出入り口には木戸が設けられ、木戸番が警備に当たっていたというが、天下泰平の時代が長く続くにつれて、鉄砲隊の軍事的重要性は薄れ、副業としてツツジの栽培が行われるようになり、大久保はツツジの名所として知られるようになった。しかし、ツツジ園も都市化の進行により失われてしまった。

 西武新宿線と山手線のガードをくぐり、さらに中央線の線路をくぐって、さらに西へ歩く。小滝橋通りと交差すると、道路名は税務署通りに変わり、町名も北新宿となり、昔の柏木村に入る。

 「西の木戸を出はなれて、人家ニ三戸、ここにも花あり」
 百人町の西の木戸を出れば、当時はすでに江戸近郊の農村地帯であった。小滝橋通りが百人町の西端であったから、ここに木戸があったのだろうか。

 「これより並木の間をゆく、左右ははたなり、七八丁ばかり行て、両岐(ふたまた)あり、南へ行ば淀ばしのこなたへ出」

 当時は両側が畑だった道を行くと、分かれ道。小滝橋通りの「北新宿百人町」交差点から150メートルほどの地点で、北新宿一丁目3番地の先のことだと思われる。ただ、そうすると「七八丁ばかり」というのはどこからなのか、という疑問が残る。ここで右折して北へ入るのが昔の柏木村への道で、左へ行けば青梅街道に合流し、その先に神田川の淀橋があった。

(税務署通りから、ここで右へ入るのが嘉陵の歩いた「畑の細道」だと思われる)

 「畑の細道を北へのぼりゆけば、又七八丁ばかりにして円照寺、門に扁あり、医光山と書す〔佐々木玄竜〕」

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた推定ルート)

(税務署通から北上する区間はその一本西側の道だった可能性も考えられる)

 

 かつては畑の中の細道だった、今は住宅街ながら、なんとなく古道らしい雰囲気を残す道を北上する。

 やがて交差する道路が大久保通り。百人町の中道だった通りで、現在は百人町を抜け、中野方面へ通じている。

 その大久保通りを渡ると、道は「柏木親友会」という古い商店街になる。ここに昔の村の名前が生きている。

 やがて道は下り坂となり(下の写真で警備員の左側を直進)、円照寺の前に出る。

 門前に「伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地」の石柱が立っている。

「寺門の外曲りかどに、もみの大なるが二本、道を夾みてたてり、門を入て左に愛染堂、其前に斜にたちのびたる大松樹一もとあり、右に多羅樹あり、堂の西に薬師堂、其中間に右衛門桜あり、花はや重ひと重とまぢりさく、堂の前に、いち大なるが一本あり、又老木の幹うちきりたるが三もとばかり、若木三四もと、花はみな八重にて、うすいろ也、堂の東に鐘あり〔寛政二年鋳とあり〕、其かたはらに、すぐにたちのびたるもみの大樹あり、高さ凡七八丈ばかり、かこみは三囲みもありぬべし」

 

 当時は寺の入口の両側にモミの大木が立っていたそうだが、今はない。山門を入ると、左に愛染堂があったというが、それもなく、代わりに当時は反対側にあったという鐘楼があり、寛政二(1790)年の梵鐘がある。これは嘉陵が見たものと同じである。当時はまだ鋳造から30年しか経っていなかった。

 今は山門を入ると、正面の本堂の前に枝垂桜があり、まだ美しさを保っていて、写真を撮っている人がけっこういたが、これは新しい木である。姿のよい松もあるが、大樹とはいえない。

 

 そして、右衛門桜であるが、当時は本堂の左に薬師堂があったそうだが、今はその位置に焔魔堂がある。そして、本堂と焔魔堂の間に今も桜の木がある。嘉陵によれば、右衛門桜は八重と一重が交じって咲いていたというが、今の桜はそうではない。

 そもそも右衛門桜とはどういうものか。文政十(1827)年に刊行された『江戸名所花暦』(岡山鳥著、長谷川雪旦画)によれば、「薬師堂の前にあり。花形大りんにして、しへ長く、匂ひ茴香(ういきょう、ハーブのフェンネルのこと)に似て甚高し」とのことで、右衛門桜の名前の由来はこの桜を愛した武田右衛門という浪人が老木となって枝が枯れているのを見て、若木を接ぎ木したところ、樹勢が回復し、花もかつての色香を取り戻したことから右衛門桜と呼ばれるようになり、「幸なるかな、所を柏木村といへは、源氏の柏木右衛門に因て名高き木とはなれり」という。柏木村の右衛門桜が『源氏物語』の登場人物・柏木衛門督(ゑもんのかみ)と結びついて、ことさら有名になったということなのだろう。その右衛門桜は昭和初期に枯れてしまったという。

 嘉陵は円照寺の桜の花の美しさを楽しんだかと思いきや、当日は本堂の茅の葺き替え中で、境内には茅のくずや芥が散らかり、桜の梢にまで足場の木が立てかけてあるといった有様で、「あまりに心なきわざなめり」と嘆いている。

 

 嘉陵は浜町まで歩いて帰ったわけだが、僕は新宿駅まで歩いて、電車で帰る。