今日も東京は梅雨空。弱い雨が降ったり、止んだり。都心の最高気温は22.7℃。
今夜は金星と木星の最接近が見られるはずで、楽しみにしていたのだが、曇っていて、星は見えず。
庭のテッポウユリが咲き始めた。今年で5年目。

ヤマユリもいいけれど、テッポウユリのこの清楚な感じもいい。
ナスタチウム。やはり鉢植えよりも地植えのほうが断然元気だ。

ポーチュラカ。

(きょうの1曲)GROBSCHNITT / Anywhere
今日も東京は梅雨空。弱い雨が降ったり、止んだり。都心の最高気温は22.7℃。
今夜は金星と木星の最接近が見られるはずで、楽しみにしていたのだが、曇っていて、星は見えず。
庭のテッポウユリが咲き始めた。今年で5年目。

ヤマユリもいいけれど、テッポウユリのこの清楚な感じもいい。
ナスタチウム。やはり鉢植えよりも地植えのほうが断然元気だ。

ポーチュラカ。

(きょうの1曲)GROBSCHNITT / Anywhere
本日、気象庁が関東甲信地方が梅雨入りしたとみられると発表。午前中は曇り空だったが、午後には弱い雨。都心の最高気温は4月下旬並みの21.3℃。
その梅雨入り前に高尾山にまた行ってきた。ここ数年、この時期に登っているのはギンリョウソウなどの花が目的。
高尾山口駅に着いて、まずは駅高架下のイワツバメの巣を見る。たくさん飛んでいて、巣もたくさんある。

それから歩きだし、今回は1号路~3号路経由で山頂へ行き、帰りは薬王院に寄って、1号路を下ってくる。
上りの1号路ではホトトギスの声は聞いたが、ほかの夏鳥の声はあまり聞こえず。
1号路のセッコク。今年は花数が少ない。というか、もう終わってしまったようだ。

3号路に入ると、ようやくキビタキがさえずっていた。高齢者には聞こえないというヤブサメの声もちゃんと聞こえて、今年の聴力検査もとりあえず合格だった。ほかにウグイス、カケス、イカル、クロツグミなど。ガビチョウもいて、クロツグミと紛らわしい。遠くでアオバトも鳴いていた。あとオオルリも1羽。姿を探したら、飛んだので、一瞬だけシルエットが確認できた。
3号路には毎年、ギンリョウソウやムヨウランが咲いているポイントがあるが、今年はギンリョウソウは見当たらず。ムヨウランも数が少ないうえに、もう花もほとんど咲き終わっているようだ。
サイハイランももう咲き終わり。今年は全体的に季節の進行が速いのか。

3号路。1号路は外国人だらけだが、3号路にはいない。日本人も普通の観光客は少なくて、植物好きらしい人達が多い。その人の視線を観察すると、花を探しているのだとすぐわかる。なので、会うと、「ムヨウランは咲いてましたか」とか「イナモリソウが全然ないですね」とか「ヒトツボクロ、見ました?」とか「ウメガサソウがあそこに咲いてますよ」とか、お互いにそんなマニアックな会話になる。みんな、毎年この時期に来ているようで、毎週来ている人もいるようだ。全体的に年齢層は高く、女性が多いが、いろいろ詳しいのはオジサンだ。

ムヨウラン(無葉蘭)。

こんな地味な花のどこが面白いの?と言われそうだが、まぁ、そんなに面白いわけではない。
カンアオイ。

ウメガサソウ。

やっと1つだけ見つけたギンリョウソウ(銀竜草)。この花は面白いと思う。

初めて見た時、大小の花が並んでいて、小さな妖怪ファミリーみたいで、それが面白かったのだが、今回は1つしか咲いていなかった。もう咲き終わったのか、これから出てくるのか、数自体が減っているのか?
こんなのが見たかったのだ。2023年6月4日。

去年の6月7日。

いかにも植物目当てと思われる人に「ここにギンリョウソウが咲いてますよ」と教えてあげると、みなさん、ものすごく喜んで写真を撮り始める。でも、普通の観光客っぽい人には教えてあげない。こういうものに興味がありそうには見えないので。
ギンリョウソウは植物だけど、1輪というより1匹という感じ。

イチヤクソウ。これも小さすぎて、うまくピントが合わない。

ウツギ。

ベニカミキリ。

ナナフシモドキも見つけたのだが、写真を撮り損ねた。
山頂から薬王院に向かう途中で、ギンリョウソウをもう「1匹」。

薬王院の本堂前のセッコクは完全に終わっていた。

ちょうど1年前はきれいだったのだ。

最後にケーブルカーの高尾山駅がある霞台ではホトトギスがすぐ近くで鳴いていた。
この中のどこかにいる。

いた! 思った以上に近い場所から飛び出してきて、見やすい位置に止まった。




そばで大勢が名物の団子を食べている中、ひとりだけ団子に背を向けて夢中でホトトギスの撮影をしていたのだった。
啼くまで待とう、ホトトギス…の動画。
多摩市の永山から町田まで旧鎌倉街道を歩いた話の続き。町田市本町田までやってきた。
多摩地域の古道を研究している宮田太郎氏によると、本町田の一色で鎌倉街道は原町田・藤沢経由の上道本路と成瀬・大船経由の別ルートに分かれていた。そして、本路のほうは一色の台地の上で途切れているようなので、成瀬ルートで台地を下ってきた。
現代の鎌倉街道・都道18号線にひなた村バス停があり、そこで左に入ると、小さな川(今井川)に架かる橋を渡り、丘の上にある「ひなた村」の入口を過ぎる。ひなた村とは正式には町田市子ども創造キャンパスひなた村といい、子どもたちが自然の中で様々な体験を通じて心身の健康や豊かな創造性を育むことができる青少年施設らしい。


コンクリート護岸ながら澄んだ水が流れる川沿いを道なりに行くと、左手に宏善寺がある。

久住山善立院宏善寺は創建年代は不詳ながら、文永八(1271)年十月十八日、鎌倉幕府により流罪となった日蓮が配流先の佐渡へ向かう途中、当地にあった真言宗の観音堂で休息して、そのもてなしに感じ入り、住職を教化して日蓮宗に改め、板本尊を安置して、山号寺号を与えたと伝えられている。日蓮も鎌倉街道上道を通って佐渡へ行ったのだろう。宏善寺は江戸時代には幕府より寺領七石の御朱印状を受けている。
(日蓮聖人像)
ところで、昨年、江戸の侍・村尾嘉陵の足跡を辿って訪ねた埼玉県戸田市の日蓮宗・妙顕寺にも佐渡へ向かう日蓮が今の和光市新倉を通ったという伝承があり、日蓮御真筆という曼陀羅も妙顕寺に伝わっている。上道を北上したとすれば、新倉は通らないはずだが、実際はどこを通ったのだろう。本当に両方通ったとすれば、罪人としては寄り道のしすぎである。罪人といっても、思想犯、政治犯というべきものだが。
宏善寺から左側の山に沿うように400メートルほど行くと、今度は養運寺がある。
(養運寺)
鶏足山養運寺も創建年代等は不詳ながら、宏善寺が日蓮宗に改宗したのと同時期の文永年間(1264-74)に天台宗寺院として創建されたと伝えられる。その後、永禄十(1567)年に誓誉重南が浄土宗に改めて中興開山となり、江戸期には幕府より寺領三石の御朱印状を受領している(なぜか宏善寺の半分以下だ)。

ちなみに宏善寺の所在地は昔の本町田村一色であり、養運寺は本町田村宿である。養運寺周辺に宿場があり、戦国時代には小田原北条氏によって市が開かれたのだろう。現代の町田市の中心は言うまでもなくJR横浜線と小田急線が交わる町田駅周辺であるが、昔は本町田こそ町田地域の中心であり、往時は村の名も町田村であった。天正十(1582)年に町田村のうち南部の今の町田駅一帯が分離独立して原町田村となり、残りの区域が本町田村となったのである。
(鎌倉街道と鶴川街道の交差点。向こうに養運寺)
養運寺の南で旧街道は鶴川街道と交わり、そのまま南へ行く。鶴川街道も金井や大蔵に通じる古道だったようだ。旧鎌倉街道と鶴川街道は今はここで交差するが、かつては合流して、一緒に南へ行き、今の交差点から120メートルほどでまた分岐していた。ここから直進するのは成瀬方面である。二俣川、大船、北鎌倉を通って鎌倉へ行く。この道は元久二(1204)年、鎌倉幕府の重臣、畠山重忠が北条氏の謀略によって本拠地の菅谷館(埼玉県嵐山町)から誘い出され、一族郎党を率いて鎌倉へ向かった時に通った道筋だとされる。畠山主従は二俣川(横浜市旭区)で待ち構えていた北条軍に敗れ、全滅している。
(直進が畠山重忠の通った道。右折が旧鶴川街道)

一方、ここで右折するのが鶴川街道の旧道で、、恩田川を稲荷坂橋で渡り、稲荷坂を上っていく。そして、坂の途中で二手に分かれ、左にカーブする道は原町田に通じていた。この道をここでは便宜上、旧鶴川街道と呼ぶことにする。
(稲荷坂の途中で左へカーブしていくのが原町田へ向かう旧鶴川街道)
一方、そこで旧鶴川街道から分かれた道は原敬という米穀店の角で現在の鎌倉街道に出る。向かい側は本町田の鎮守、菅原神社である。ただ、この鎌倉街道は新しい道路で、昔の鎌倉街道は神社の裏手を通っていた。その旧道まで現鎌倉街道を越えて、菅原神社の南側にさらに坂が続き、坂上で稲荷坂と鎌倉古道は合流していた。稲荷坂は成瀬道および旧鶴川街道と鎌倉街道本路との連絡路といえるのだろう。
ちなみに稲荷坂の名は坂の途中にあった藤木稲荷に由来し、現在は菅原神社境内に新しい祠がある。
(現鎌倉街道の先に続く稲荷坂)
では、ここで現鎌倉街道を北へ戻って、一色の台地の下から鎌倉古道上道を探索する。
(木曽団地東交差点の向こうが一色台地)
「木曽団地東」交差点まで戻る。交差点の北西側にあるのが一色台地である。宮田太郎氏のいう台地上の古道分岐点から成瀬ルートに近い道筋を辿ってみたわけだが、原町田経由の本道は台地の上で消えている。
ただ、台地の裾から何やら神社らしきものに通じているような細い石段が見つかった。ここから台地の上に行けそうだ。

竹林の間を登っていくと、ちょっとした広場に出て、そこに「南無妙法蓮華経」の題目塔があり、側面には「未法総鎮守七面大明神」と刻まれている。「未法」は「末法」の誤りではないかと思うのだが、とにかく七面大明神が祀られていたのだろう。七面大明神は日蓮宗で法華経を守護する女神(七面天女)として信仰されるから、宏善寺と関係があったのだろうか。宏善寺にも七面大明神を祀るお堂があった。

境内には小さな人工池もあり、その上に祠を設えてあるのは弁財天だろうか。参道の先にあったはずの建物はなくなっている。その代わり、コンクリートブロックを積んだ上に小さな赤い祠が載せてある。
(池の上の弁天様?と参道。その先の建物は消えている)

境内には木柱が立てられていて、各面に様々な文字が書かれているが、その中には「南無妙法蓮華経」の題目とともに「當地所埋葬者埋葬物一同霊追善供養」の文字もある。やはり、寺院があったのだろうか。そして、どなたか埋まっているのだろうか?
『町田市史』によると、本町田には宏善寺、養運寺のほかに明治四(1871)年に廃寺となった梅元山大沢寺という寺が存在したといい、その所在地は一色となっているから、この場所だろうか。ただ、宗派は日蓮宗ではなく、普化宗。普化宗は禅宗の一派で、深い編み笠を被り、尺八を吹きながら全国各地を遊行する虚無僧の拠り所となる宗派である。虚無僧になれるのは武士に限られ、江戸幕府の保護を受けていたため、幕府を敵視する明治政府は普化宗を認めず、大沢寺も廃寺となったわけだ。
大沢寺の創建は寛永七(1630)年、開山は玄了、開基は本町田村の名主、大沢玄番で、この人物はこの後訪ねる菅原神社も同じ年に創建したことになっている。複数の執筆者による『町田市史』の中には大沢寺が菅原神社(所在地は一色ではない)の境内にあったという矛盾した記述もあり、確かなことは不明。ただ、創建年は同じなので、菅原神社の別当寺として大沢寺が建てられたということらしい。
しかし、『新編武蔵風土記原稿』では本町田村の条に大沢寺は出ておらず、一色に宏善寺持ちの「七面社」があったと記されている。社殿は巽(南東)を向き、「社前に石階あり、その側に古松あり」と書かれている。社殿は存在しないが、石段の向きは記述と概ね合致している。
大沢寺は菅原神社の別当、七面社の別当は宏善寺。この台地の上に何があったのか、どうもよく分からない。ただ、日蓮宗の色が濃いのは確かだ。また、七面神は明治時代に菅原神社にも合祀されている。ますますややこしい。
謎めいた境内を北へ抜けると、農地になっていて、探ってみると、その中を行く野道が途中から一般道になり、古道分岐点に通じていることが分かった。とにかく、石段以外の台地から南に下る古道は消えているようだ。
(古道分岐点から右の道が途切れた先の畑の中の小径を行くと、七面社跡に繋がっていた)
さて、石段を下り、丘の裾に湧水があるのを確認し、交差点を南に渡ると、現代の鎌倉街道に面したガソリンスタンドの裏側に旧道が残っている。
(ガソリンスタンド裏に残る旧道)
旧道は坂を下って西から来る恩田川支流を渡り、坂を上ると、すぐにまた現鎌倉街道に合流する。道路はこの先、再びなだらかな下り坂となる。坂がなだらかなのは築堤によって勾配が緩和されているからだが、この先の谷が「井出の沢」である。
(井出の沢の谷に下る鎌倉街道。正面の丘が菅原神社)
鎌倉時代に流行した歌謡を僧の明空が集成した『宴曲抄』の中の「善光寺修行」という歌は鎌倉から信濃善光寺までの参詣ルート上にある地名を詠み込んでいて、その中に「井出の沢」が出てくる。
「(前略)干飯たうべし古も、かかりし井出の沢辺かとよ、小山田の里に来にけらし、過ぎ来し方を隔つれば、霞の関と今ぞ知る(後略)」
井出の沢は旅人が携行した干飯を食べるのに適した清らかな水が湧く土地だったようだ。日蓮が休息した仏庵も井出の沢にあったと伝わる。
しかし、この場所は旅の休息地としてよりも古戦場として有名である。清らかな水が湧きだす一方で、たくさんの血を吸った土地でもあるようだ。鎌倉幕府が滅亡した2年後、建武二(1335)年に鎌倉幕府最後の得宗・北条高時の遺児で密かに鎌倉を脱出し、信州・諏訪大社の神官の一族、諏訪氏のもとに匿われていた北条時行が挙兵し、鎌倉奪還をめざして軍勢を進めてきたのだ。女影ヶ原(埼玉県日高市)、小手指ヶ原(所沢市)、武蔵府中などで足利方の鎌倉軍を撃破してきた時行軍が鎌倉街道上道を南下してきたのは間違いない。一方、鎌倉方は足利尊氏の弟・直義が自ら軍勢を率いて、ここ井出の沢で迎え撃ち、最終決戦が行われたのだった。結果は北条軍がここでも勝利し、鎌倉を奪還する。鎌倉から脱出する足利直義はこの時、尊氏と対立し鎌倉の土牢に幽閉されていた護良親王(後醍醐天皇の子)を北条方に奪われないように臣下の淵辺義博に殺害させている。
当時、北条時行はまだ十歳にも満たない少年だったが、諏訪氏や北条方の残党、建武政府に不満を募らせる武士たちに擁立され、鎌倉奪還に成功したのだった。2年前に鎌倉を攻めた新田義貞の陣中に足利高氏の嫡子で四歳の千寿丸(のちの義詮)がいたことが新田軍に予想以上に多くの兵が集まる結果となったのと同様、時行がまだ少年だったことが、北条方に多くの兵を集め、士気を高めることにもなったのだろう。しかし、後醍醐天皇の許可を得ずに京都から大軍を率いてきた足利尊氏によって再び鎌倉は奪い返され、時行はわずか二十日余りでまた鎌倉から逃れ、行方をくらませている。この反乱を中先代の乱という。時行は南北朝の対立が始まると、南朝方について足利氏と戦い続ける。時行個人としては、北条氏の姻戚(尊氏の妻は北条氏の娘)ながら北条を裏切り、幕府を打倒した足利尊氏に対する憎悪が何よりも強かったということだろうか。戦闘と逃走・潜伏を繰り返し、鎌倉を三度まで奪還した時行だったが、最初の挙兵から18年後、正平八年/文和二(1353)年五月二十日、ついに足利方に捕らえられ、鎌倉龍ノ口で処刑されている。享年は二十代半ばだったと思われる。
井出の沢付近には恩田川から西に入り込む大きな谷戸とその支谷があり、支谷が菅原神社の裏に入り込んでいる。支谷を流れるのが井出の沢だろうか。流れは今は暗渠化されている。
井出の沢の谷は一部に農地も残っているが、大部分は宅地化され、井出の沢住宅の名がある。さらに今も住宅地を拡大すべく造成工事が行われていた。掘り返すと、いろいろ出てきたりしないのだろうか。
井出の沢の谷戸の最奥部は市民体育館や野球場になっているが、その工事の際には鎌倉時代から室町時代の板碑20点が発見されたという。

その井出の沢に沿って、現鎌倉街道から分かれていく道があり、これが旧道である。
沢沿いの道は緩やかに曲がりくねりながら坂を上り、菅原神社の裏に出る。

本町田の鎮守である菅原神社は寛永七(1630)年に村の名主、大沢玄番が先祖伝来の天神像を祀り、土地を寄進して創建されたというが、町田村が天正十(1582)年、本町田と原町田に分かれる前から存在したはずで、歴史はもっと古いと思われる。
とにかく、菅原神社は井出の沢を見渡す丘の上に立地しているので、北条時行軍を迎撃した足利直義はこの辺りに布陣したのだろう。ちなみに日本人の大多数が長い間、源頼朝だと信じ込んでいた京都神護寺の肖像画が実は足利直義を描いたものだという有力な説が出されている。

(源頼朝ではなく足利直義?)
さて、菅原神社境内には旧道に面して「史蹟井手の澤」の碑が立っている。1955年建立。「井出」が「井手」になっているが、そういう表記もあったのだろう。

旧道は菅原神社の南角で稲荷坂を上ってきた道と合流。そこから南に150メートルほど行った地点で切通しの道路によって分断され、切通しの向こうに続きがある。これを古道の跡だと思ってしまいそうだが、この道は明治十四(1881)年の地図には描かれていない。大正十(1921)年の地図には描かれているから、その間に造られた近代の道である。旧道ではあるが、古道というほど古くはない。
昔の鎌倉古道は稲荷坂上から南ではなく、いったん南南西に進み、徐々に南寄りに向きを変えながら原町田に通じていた。この古道は区画整理によって完全に消えている。
現代の鎌倉街道は菅原神社の東側を通り、神社南方で台地を掘り割って西へ向きを変え、町田市森野に通じている。そして、原町田への街道は「鶴川街道」と名前を変えてまっすぐ南下している。この西へカーブする鎌倉街道の切通しが旧道を分断したわけだ。
(新しい道路により旧道が分断。右へ行くのは森野方面。奥へ行くのが原町田方面。向かい側に続きがあり、すぐ鶴川街道に合流)
1881年の地図。中央の天神祠が菅原神社。その西側の道が鎌倉街道。「祠」の字の下で北東から合流するのが稲荷坂。坂の途中で南に分かれるのが旧鶴川街道。神社の西に入り込む谷戸が井出の沢。

1921年の地図。95.1m地点から新しい道が開かれ、旧鶴川街道に繋がり、こちらがメインルートになったが、のちに分断された。

1954年の地図。菅原神社の東側に新しい道路が開かれ、古道は区画整理で消滅。旧道の分断地点を赤線で示した。鶴川街道は菅原神社の北東で鎌倉街道に接続した。

現在、菅原神社前から鶴川街道を南へ行くと、新しい鎌倉街道を西へ見送り、すぐピザハウスポポロ(閉店)の前で分断された稲荷坂上からの道が合流し、さらに数十メートル先のセブンイレブン手前で左から実は最も古い旧鶴川街道が合流する形になっている。この本町田からの道がいつできたかは不明だが、本町田と原町田が分村した時に二つの村を直結する役割があったと思われ、その頃、開かれたのだろう。
とにかく、鶴川街道を南へ行く。消えた古道はこの道の150~200メートル西を並行していた。
都立町田高校前を過ぎ、町田街道と交差して、まもなく町田第一小学校がある。その校地の南東角に明治から昭和にかけての馬頭観音が4基並んでいる。一番古いのが1894年、最も新しくて大きいのが1936年建立である。この付近で消えた古道が合流していた。古道は町田一中と一小の敷地を突っ切る形でここまで来ていたようだ。

まもなく小田急線の町田駅の東側の踏切を渡る。

町田に初めて鉄道が通ったのは1908年のこと。今のJR横浜線の前身である私鉄の横浜鉄道(1917年国有化)が東神奈川と横浜の間で開業し、原町田駅が開設された。1927年には小田原急行鉄道(小田急)が開業。こちらには新原町田駅が設置された。両駅の間は500メートルほど離れていて、乗り換えには商店街を5分ほど歩かねばならなかった。その後、1976年に小田急の新原町田は町田に改称。1980年に当時の国鉄原町田駅が小田急寄りに移設されたのを機にこちらも町田駅となり、乗り換えは便利とまでは言えないが、ペデストリアンデッキで結ばれ、以前よりはだいぶ近くなっている。

とにかく、現在も駅周辺の町名は原町田である。踏切を渡り、商店街となった旧街道を行くと、原町田大通りの交差点で右からもう一本の商店街が合流し、Y字路になっている。このもう一本の商店街はやはり鎌倉街道で、八王子や青梅、秩父方面に通じるので山ノ道と呼ばれ、また幕末の開港後、海外へ輸出する生糸を集散地の八王子から横浜港へ運ぶのにこのルートが利用されたので「絹の道」とも呼ばれた。ここは2本の街道が合流する重要地点で、この場所に戦国時代から市が開かれたのが、現在の町田の繁栄の原点となったようだ。
ちなみに、このY字路付近に本山派修験の延命院があり、江戸後期の町田周辺地域に地神塔の信仰を広めたという。延命院は明治の初めに新政府が修験道を禁じたため、廃寺となった。
(原町田のY字路。右が上道、左が山ノ道。戦国末期にここで市場が開かれた)
永山から町田までいろいろ探索しながら歩いたら、36,000歩を超えた。
この先の街道沿いにある町田中央図書館でちょっと調べものをして、小田急で帰る。
昨日の台風6号は午前中を中心に強い雨は降ったけれども、暴風雨とはならず、心配したほどひどいことにはならなかったという印象。それでも、道路が冠水したり、河川が溢れそうになったりということはあったようだ。
この季節だと台風一過の晴天とはならず、今日の東京は一時的に日は差したものの、大体曇り空。都心の最高気温は24.4℃。湿度が高かったのか、ちょっと蒸し暑くは感じた。
けさのインコ。

野生のラン、ネジバナが咲き始めた。もっとピンクの花が咲くはずなのだが、色が薄い。

花がほぼ咲き終わって、地上部を全部カットしたビオラがまた咲きだした。

こちらは冬に寒さで一度ダメになったかと思われたが、復活して、細々と咲き続けているビオラ。

ムラサキシキブの花。

(きょうの1曲)Yangpa / Young Love
韓国のタマネギちゃん。いつまでもフレッシュな存在でいられるように、ということらしいけれど、芸名がタマネギ(ヤンパ)って韓国のファンにとってはどんな感じなのだろう。日本人が明石家さんまとかコロッケにもはや何の違和感も持たないのと同じぐらい馴染んでいるのだろうか。
よく聴いていたころは若手の実力派だったが、もう47歳なんだね。
この映像はもう29年前。18歳。
2026年の映像。
多摩市の小田急永山駅から町田駅まで旧鎌倉街道を歩いた話の続き。貴重な古道遺跡が発掘された町田市の野津田公園から華厳坂を下ってきたところから。
(華厳坂を見上げる。ここを中世の鎌倉街道や古代の東海道が通っていた)
華厳坂から芝溝街道を横断し、南へ行くと、丸山橋で鶴見川を渡る。


丸山橋から100メートルほどで左に分かれる町田ぼたん園方面の急坂も古い道だが、鎌倉古道は丘の下を南南西に進む。やがて民家に突き当たり、その敷地に沿って右に曲がり、すぐ左に曲がって、道なりに行くと、会員制の農園があり、その脇から未舗装の山道がある。これが鎌倉古道である。昔は丸山橋からもっとスムーズに繋がっていたようだが、今は宅地化されて消えたようだ。

とにかく、「この先車両の通り抜けはできません」とある山道を登っていく。
まもなく、ここが「東京における自然の保護と回復に関する条例」で指定された「七国山緑地保全地域」であることを示す標識があり、またカサカサというトカゲが立てる物音やコジュケイの声が聞こえ、キビタキのさえずりも耳に届く。



しばらく行くと、右から道が合流する。これも古道で、そこに「鎌倉古道・鎌倉街道上ノ道(鎌倉ー七国山ー府中ー所沢ー高崎)」と書かれた板が置かれていた。「七国山自然を考える会」によるものだ。


古道は町田市野津田町から山崎町に入り、標高128.6メートルの七国山の西側を通過し、丸山橋から町田ぼたん園前を通過してきた道と合流し、ここから舗装路となる。
まもなく右手に「七国山鎌倉街道の碑」の石碑があり、その先には町田市旧跡の「伝鎌倉井戸」がある。指定は2021年だから、最近のことだ。

町田市教育委員会が立てた説明板には次のように書いてある。
伝鎌倉井戸(鎌倉古道推定地)
七国山の頂上付近には、鎌倉時代から続くとされる「鎌倉井戸」と呼ばれる古井戸があり、元弘三年(一三三三年)、新田義貞が鎌倉攻めに際して軍馬に水を与えた場所との伝承があります。この井戸の脇を通る道の周辺には掘割状の遺構が残り、古道の面影をよく伝えています。この道は天和二年(一六八二年)に描かれた「野津田村絵図」に「是ハ府中より鎌倉え通申道」と記載されたルート上にあるため、近世には鎌倉道として認識されていたことがわかります。現在、井戸は埋もれていますが、昭和五〇年代頃まで湧水が認められました。
井戸の跡は今は地面に木製の井桁を置いてあるだけのように見え、水気はまったくないが、説明板にある昭和五十年頃の写真では確かに水が湧いていたようだ。小野路の山中にある小町の井戸のようなものだったのだろう。


さて、道はやがて山林を抜け、住宅地の中を下っていき、そのまま行くと町田ダリア園の前を通って、現在の鎌倉街道(都道18号線)の今井谷戸に出る。しかし、鎌倉古道はこのルートではなかったようだ。
七国山の山林を抜けて住宅地に出てすぐ「やなぎだ」という定食屋の前で右下から合流する道がある。この道を戻るように50メートルほど行くと、左から合流する道があり、道の間の高い所に庚申塔がある。鎌倉古道は鎌倉井戸からこの庚申塔に向かって右側の道に繋がっていたようだ。地形が改変され、分断されたのである。

この道を行く。右側が山崎公園の樹林に覆われた崖となった尾根道である。

(右に山崎団地。正面に給水塔)
左下にダリア園を見ながら尾根筋を行くと、やがて右手には山崎団地が見えて、坂を下っていくと、団地いちょう通りの「千代ヶ丘入口」交差点に出る。古道はこの通りを渡り、ファミリーマートの裏に回り込むようにまた坂を上っていく。

駐車場と住宅の間の尾根道を登っていくと右に桜美林大学のキャンパスがあり、その敷地の東端で道が分岐する。多摩丘陵の古道を研究している宮田太郎氏によると、ここは重要な分岐点と考えられるらしい。鎌倉古道はここから右へ行くと、原町田、藤沢を通り、化粧坂から鎌倉に入る道筋で、これが上道の本道である。一方、左へ分かれる道は成瀬を通って中道に合流し、大船から巨福呂坂を抜けて鎌倉に入るルートである。
(古道分岐点)
この分岐点のある台地は鶴見川の支流、恩田川の源流域にあたり、二つの流れに挟まれた舌状台地となっていて、一帯には一色という地名がある。第4代鎌倉公方・足利持氏(1398‐1439)の家臣だった一色伊予守の居館があり、地元では殿の城とも呼ばれたという。一色氏といえば足利氏の支族であるが、この伊予守なる人物の本拠地は神奈川県の海老名市付近だったという。だとすれば、足利持氏が幕府に無断で相模国守護に任命したとされる一色時家(持家)のことだろうか。とにかく、持氏に仕える一色氏が鎌倉街道の重要地点に家臣を配置して監視していたのだろう。
さて、台地の中央に入り込んだ谷戸の窪地を挟むように左右に分かれる道のうち、まず右へ行って上道本路を行ってみると、古道は農地の中で消え、道は台地の西側の山崎団地のほうへ下っている。
そこで分岐点から左の道を選んで、丘を東に下る。

右に高齢者施設を見ながら下っていくと、現代の鎌倉街道に出る。このあたりが本町田で、中世には宿場として栄え、市が開かれた町田の中心地だった。

つづく
多摩市の永山から町田まで鎌倉古道を歩いた話の続き。中世からの宿場町、小野路で昼食休憩をしたところから。
昔の旅籠「角屋」の建物を改修した里山交流館で昼食後、再び歩き出す。

小野路川の谷の出口にあたる小野神社下で道は二手に分かれる。南南西へ行くのは江戸時代に大山道などと呼ばれた道で、この先でさらに時代の異なる複数の道筋に分かれるが、元和三(1617)年に徳川家康の遺骨が一周忌を経て静岡の久能山から日光東照宮に改葬された時に千人規模の大行列が通ったのもこの道である。それに合わせて、街道の整備が行われ、小野の町はずれには一里塚が築かれている。また、小野路に下る坂で、御尊櫃を乗せた車の車軸が折れ、地元の鍛冶屋が急遽修理したという逸話も残っている。家康の霊柩も小野路から関戸を通って府中へ向かったのである。ただ、丘陵越えの区間は僕が歩いてきた山道ではなく、新たに整備した道で、今も舗装道路として残っている。
また、室町時代の文明十八(1486)年には京都聖護院の門跡・道興准后(1430‐1501)も相模の大山から日向薬師、厚木、半沢(町田市図師町)と来て、関戸(霞の関)を通って恋ヶ窪へと鎌倉街道を北上しているから、小野路を通ったと思われる。peepooblue.hatenablog.com
さて、今回は小野神社下から南東へ向かう。今はクルマが行き交う道路となって、古道は消えているが、この先、野津田(のづた)の丘を越え、鶴見川を渡り、さらに七国山を越えて町田へ向かう。今は公園化されている野津田の丘では中世の大きな道路の遺構が発見されており、それが鎌倉街道上道の跡と考えられている。
新屋敷のバス停付近でバス通りから右に入り、野津田公園に通じる道路を突っ切って行くと、正面に雑木林の丘が立ちはだかり、そこに水路があるが、道はそこで途切れている。この付近にかつて鎌倉橋という橋があり、その先で丘を上っていたらしい。ただ、今は消えてしまっている。
(この付近に鎌倉橋があり、古道が丘の上へと通じていたらしい)
そこに野津田公園の入口があるので、そこから入り、野球場、上の原グラウンド方面に園路を上っていく。
園内で発見した古道跡の解説板にあった地図。水色の点線(実線部分は実際に道路遺構が見つかっている)で示された鎌倉古道跡を辿るように歩く。

野球場(野津田球場)の北側の一段低いところに草を刈られた場所がある。上の地図だと、この辺が「野津田上の原遺跡」であるらしい。

多摩丘陵の古道を研究している宮田太郎氏が1985年頃から地元の古老への聞き取り調査をもとに篠竹が生い茂る藪の中を単独で調査して古道の痕跡を発見し、そこから大掛かりな発掘調査が行われ、1991年に最大幅12メートルの道路跡が見つかったのだそうだ。室町時代の土器も2点出土している。鎌倉古道は鎌倉橋から野津田の丘に上がり、今の野球場の一塁線に沿うようにライト後方へと続いていた。道路跡は埋め戻して保存されている。
(ライト側から見た野津田球場。一塁線に沿うように鎌倉古道が通っていた)
野球場の南側の駐車場の脇から雑木林の中に入っていくと、古道の続きがある。

「いざ!鎌倉古道の会」(会長・宮田太郎氏)が立てた「鎌倉古道(上ノ道)」の標識がある。

雑木林の中を探検気分で歩いていると、今年初めてのホトトギスの声が聞こえてきた。
これは高尾山のホトトギス。

上の原グラウンドを左下に見ながら雑木林の中を行き、グラウンドの先の原っぱに階段で下りる。グラウンドの南側には鎌倉古道よりも古い奈良時代の古代東海道も通っていたと推定されるらしい。小野路とは山を隔てて東側の谷を現代の鎌倉街道(都道18号線)に沿うように南下してきたようだ。


雑木林に沿って草原の道を行くと、舗装された広場がある。バスの転回場であるらしい。野津田公園内にはサッカーJリーグの町田ゼルビアの本拠地、町田GIONスタジアムがあるのだ。鉄道の駅からは遠い、とても不便な立地である。試合日にはどんなことになるのだろう。
その転回場を斜めに横切るように2本の赤い線が引かれ、その地下を古道が通っている。ここに古道遺跡に関する詳細な解説板が3枚設置されている。それによれば、この一帯はただ古代~中世の古道が通っていたというだけでなく、軍馬の牧があったり、軍勢の駐屯地のような場所であったりもしたようだ。

赤い線で示された古道跡を行くと、その先にまた鎌倉古道が現れる。ここにも「鎌倉古道(上ノ道)」の標識が立てられている。

両側が高くなった凹状の道は古道の特徴を明確に示している。


古道跡は左に並行する遊歩道と途中から一体化して、東側にある真言宗寺院・華厳院にちなんだ華厳坂を下る。ここは鎌倉古道だけでなく古代東海道も下っていたと推定される地点である。
(華厳坂)
坂の途中には町田市名木百選のケンポナシの老樹が幹の内部はほとんど空洞になりながら支柱の介助で立って葉を茂らせている。樹齢は分からないが、この道が現役の街道だった時代のことを知っているのだろうか。

坂道の傍らに鎌倉古道の碑が立っている。

正面には「鎌倉古道・町田市野津田」と彫られ、側面には「北方面 小野路-関戸―府中」、反対側は「南方面 七国山―本町田―鎌倉」となっている。

坂を下ると、芝溝街道(津久井街道)にぶつかる。東京湾の芝浦と相模原の溝を結ぶ古くからの道である。その交差点の角に「地神齋」と彫られた地神塔がある。文政十一(1828)年建立。

華厳坂の東にある幸山華巌院は創建年代不詳ながら、天平年間に福王寺と号して創建されたと伝えられる。すぐ近くを当時の東海道が通っていたとすれば、奈良時代の創建もあり得ない話ではない。寺はその後衰退していたが、戦国時代に興満聖人(天正四年、1576年寂)が再興したという。今の薬師池公園にある福王寺薬師堂(現野津田薬師堂)の別当を務め、江戸時代には幕府より八石の御朱印地を拝領していた。
(華厳院の本堂裏より七国山を望む)
古道はいったん平地に出て、芝溝街道を越えると、鶴見川を渡り、今度は七国山へと分け入っていく。
つづく
今日で5月も終わり。東京は晴れて、都心の最高気温は30.0℃で真夏日。都内の最高は府中の32.0℃。全国で一番暑かったのは大分県日田市の34.8℃。5月にこんな暑さでももう全く驚かない。
久しぶりに新宿の東口に行ったら、「笑っていいとも!」でおなじみだったスタジオALTAの建物がすっかり消えていた。


今日は旧暦では四月十五日。今月2度目の満月。



西の空には木星と金星。左上が木星。

(きょうの1曲)moumoon / moonlight