オリックス3連覇

 プロ野球は先日、阪神タイガースが18年ぶりにセ・リーグ制覇を成し遂げたが、パ・リーグは中嶋監督率いるオリックスバファローズが3年連続優勝を達成。前身の阪急時代から数えて15回目のリーグ優勝。パ・リーグで3連覇は1990~94年に5連覇した西武ライオンズ以来。

 過去2年は一度もマジックが点灯しないまま大接戦をものにして優勝したオリックスだったが、今年は強力な投手陣を擁して夏場から独走。マジック2で迎えた本拠地での2位千葉ロッテマリーンズとの対戦で、序盤からリードを許しながら7回に打者11人を送る猛攻で一挙6点を奪い、6-2と逆転。先発・山崎福から小木田、宇田川、山崎颯と繋いでロッテの反撃を封じて勝利。2位に14.5ゲーム差をつけるぶっちぎりで優勝した。

 このままオリックス阪神クライマックスシリーズを勝ち抜けば、関西球団同士の日本シリーズとなるが、どうなるか。

 両リーグとも2位、3位争いは激戦となっている。

 それにしても、オリックス若い女性ファンがものすごく増えた印象。

伊藤蘭コンサート2023@東京国際フォーラム(9月2日)

 キャンディーズの一員としての歌手デビューから50年目を迎えた伊藤蘭さんが7月に発売したソロとして3作目のアルバム「LEVEL 9.9」を引っさげて、50周年記念ツアーを行い、デビュー記念日の翌日に当たる9月2日には東京国際フォーラム・ホールAでコンサートを開いた。この日の公演はツアーの中でも特別なプログラムになると予告されており、もちろん行ってきた。少し日が経ってしまったが、コンサートレポートを。

(まだツアーは続いているので、以下、ネタバレ注意)。

 

 さて、開場は17時だったので、それに合わせて現地に着くと、すでに大行列ができていた。今回の会場はキャパが約5千人。キャンディーズ時代には後楽園で5万5千人を前に歌ったとはいえ、ソロとして2019年にデビューしてからは最大級の収容人員である。

 客層はもちろん50年前の若者が多いが、まだ若い人もいる。男性が多いが、女性も少なくはない。赤い法被を着た筋金入りのファンのほか、50周年の記念TシャツやキャンディーズのTシャツを着た人が女性でも目につく。キャンディーズTシャツを着た20代と思しき女性も見かけた。昭和歌謡は若い人の間でもブームだというし、令和の時代に若いキャンディーズファンがいても、意外でも不思議でもない。

 とんでもなく長く伸びた行列が少しずつ進みだし、ようやく会場に入る。今日のコンサートでは入場時にペンライトが全員に配られた。さらにロビーではキャンディーズ時代の衣装展が開催されていて、そこにもまた列ができている。

 バックに「危い土曜日」が流れている。その次が「なみだの季節」だったから、シングル曲が順番に流れているのだろう。

 懐かしい衣装の数々。その保存状態の良さにまず驚く。

 そして、その小ささにも驚く。十数年前に開催された渡辺プロダクションの50周年記念展にも蘭さんのファイナルの時の衣装が展示されていて、あまりの小ささに驚いたものだ。キャンディーズは3人とも小柄だったが、テレビやステージではその小ささをあまり感じさせなかった。

 蘭さんがキャンディーズの解散コンサートで最後の最後に身につけていた衣装。

 当時の後楽園球場には大型スクリーンなどなく、そもそもライヴ映像をリアルタイムでその場に映し出す技術も存在しなかったから、観客からはキャンディーズが小さな豆粒のようにしか見えなかったはずで、そのぶんド派手な衣装が多かった。


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 それにしても、キャンディーズのデビューが1973年9月1日で、解散が78年4月4日だから活動期間はわずか4年7ヶ月。そして、蘭さんの1stソロアルバムの発売が2019年5月29日だったから、ソロデビューからもう4年3ヶ月が経過しているのだ。まだソロ活動は始まったばかりという気がするが、キャンディーズでいえば、もう解散宣言をして、16枚目のシングル「わな」が出る頃にあたるのだから、キャンディーズの活動期間というのは本当に短くて、しかもあまりにも濃密な時間だったのだな、と改めて思う。

 さて、慌ただしく衣装展を眺めて、ホールへ。さすがに客席が広い。

 座席はステージのセンターがほぼ正面。ちょっと遠いが、悪くはない。いつものように懐かしい洋楽が流れている。

 とりあえず、ペンライトの試験点灯。スイッチを押すごとに色が変わる。左隣の席は男性客、右隣は女性の二人連れである。それぞれにライトをつけたり、消したりしている。開演時には赤のライトを、という指示があった。

 すっかり客席が埋まり、予定時刻の18時より少し遅れて、いよいよ開演。消灯された客席を赤いペンライトが埋め尽くし、拍手と同時に早くも歓声が上がる。今回は久しぶりに声出しOKである。薄暗いステージにバンドのメンバーが登場。

 佐藤 準(音楽監督・Keyboards) / そうる透(Drums) / 是永巧一(Guitar) / 笹井BJ克彦(Bass) / notch(Per) / 鈴木正則(Trumpet) / 竹野昌邦(Sax) / 渡部沙智子(Chorus) / 高柳千野(Chorus)

 今回のツアーでは横浜、仙台と「Hello Candies」から始まったという話だったが、今日は全然違った。当時のキャンディーズを知らない人が聴いたら、何事が始まったのか、と度肝を抜かれるようなオープニング。

 いきなりKool & The Gangのカバー「Open Sesameである。胸が熱くなる。自分は行けなかったキャンディーズのファイナルカーニバルで1曲目に演奏された曲なのだ。あのコンサートでキャンディーズはいきなり13曲連続で洋楽カバーをやったのである。

 この映像を見ると、当時、特にライヴにおいてキャンディーズ&MMPが目指していた方向性というのがよく分かる気がする。キャンディーズというとアイドルグループの元祖として語られることが多いが、実際は現代のアイドルではありえないほど音楽的にぶっ飛んでいた。


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  そんなライヴが解散から45年を経て、再現されるとは。このオープニングは今回のツアーでもやっていなかったスペシャルな選曲である。たぶん今日だけなのだろう。

 原曲の熱気をそのまま伝えるような迫力のある演奏に乗って、キラキラ輝く衣装を纏った蘭さんが登場して歌うのはEarth, Wind & Fireの「Jupiter」、さらにWild Cherryの「Play That Funky Music」。こんな曲でコンサートを始める日本人アーティストは昭和のキャンディーズと令和の伊藤蘭だけではないか、と思ってしまう。

 あまりにも意表を突いたオープニングに続いて、すかさず春一番が来る。衣装はいつのまにかグレーに黄色を配したものに早変わり。年齢を感じさせない蘭さんの歌声と相性もバッチリの二人のコーラス、そして名手揃いのバンドの圧倒的な演奏力に対して、客席はコール全開である。凄まじい盛り上がり。たぶん、キャンディーズのファンでなくても、この場にいたら自然に盛り上がらずにはいられないに違いない。

 「みなさん、こんばんは。伊藤蘭です。50年前の昨日、9月1日にキャンディーズでデビューしました」とここで最初の挨拶。

 この後、ソロの新作からキャンディーズ時代から付き合いの長い森雪之丞作詞の非常にモダンな響きを持つ「Dandy」、そしてシティポップ風の「Shibuya Sta. Drivin’ Night」。1曲ごとに解説を加えながら歌っていく。ソロデビューから4年になるが、3作のアルバムを聴くと、音楽的にだんだん若返っていくように感じる。今作も何度も繰り返し聴きたくなる魅力的な曲ばかりだ。


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 トータス松本奥田民生が共作した「春になったら」、都会的な「明日はもっといい日」、蘭さん作詞でタイトル通りファンキーな「Funk不肖の息子」が続く。この曲、蘭さんの作風から大きく逸脱した詞で、まさに新境地と言えそうな作品(作曲は佐藤準)。蘭さんがこんな詞を書いて、こんな曲を歌うことになるとは。とにかく、往年の人気歌手が過去の栄光にすがって、というのとは全然違って、現役バリバリのシンガーであることを実感する。しかも、どんどん進化している。

 そういえば、曲間のMCでは唐突に「蘭ママ」が登場したりもした。蘭さんのラジオ番組「RAN To You」内で「高円寺のバーのママ」という設定で蘭さんが演じるキャラクターである。えーと、これはコントのコーナーなのか、と思ってしまう。「家に刑事がいるから」と水谷豊さんのこともネタにしていたりして。かつてドリフターズ伊東四朗小松政夫らとコントを繰り広げていた蘭さんのコメディエンヌとしての一面が垣間見られる一コマ。その後も蘭ママから伊藤蘭にすぐには戻りきれていなかった?

 さて、「Funk不肖の息子」を歌い終えて蘭さんもバンドのメンバーもステージから退くと、ステージ後方に大きなスクリーンが降りてきて、組曲キャンディーズ1676日」が流れ出す。そして、デビューから解散までのキャンディーズのさまざまなシーンが次々と映し出された。遠い日の眩いばかりのラン、スー、ミキの歌う姿とあの頃の自分自身を誰もが思い出し、感動でいっぱいになるような演出。恐らく、涙が止まらないという人もたくさんいたはずだ。11分を超えるドラマチックな大作は一部間奏がカットされていたが、3人のコーラスはフルで流れた。

 そして、曲が終わると、いよいよだ。まずはバンドのメンバーが登場し、かつてバックバンドMMPがキャンディーズのために作った応援ソング「SUPER CANDIES」からスタート。ギタリスト是永功一のヴォーカル入り。会場は一気に燃え上がる。CANDIESというのはアルファベットを順に発音すると、すごくカッコよく響くというのは偶然か。シー・エー・エヌ・ディー・アイ・イー・エス(ピー・アイ・エヌ・ケー・エル・エー・ディー・ワイだとイマイチな感じだ)

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 ファイナルでは「SUPER CANDIES」から間髪入れずに「ハートのエースが出てこない」が演奏されたのだが、今日も赤いワンピースに着替えた蘭さんが登場すると「ハートのエース」から怒涛の如く、キャンディーズソングの連発。このコーナーもファイナルの曲順に合わせたプログラムだそうだ。「その気にさせないで」「危い土曜日」が続く。

 4年前、蘭さんが41年ぶりにステージでキャンディーズの曲を披露するにあたり、曲の振り付けをすっかり忘れていて、美樹さんに助けてもらったというが、美樹さんも思い出せず、二人で当時の映像を見ながら、思わず見入ってしまったというエピソードが伝わっているが、今や振り付けも完璧。キレキレである。


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 ここでスタンドマイクが用意され、「年下の男の子」「やさしい悪魔」。この2曲はマイクを手にしたままだと、振りに支障が出るので。


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 そして、蘭さんのソロでは今回のツアーで初披露となる記念すべきデビュー曲「あなたに夢中」。スーちゃんがメインだったが、まずランが歌い出し、ミキ、さらにスーが加わると、そのまま3声コーラスに突入し、ユニゾンのパートが全くないという曲だ。蘭さんはキャンディーズ楽曲では基本的に自分のパートを中心に歌っているようだ。バックにコーラスが2名いるので。


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 さらに意外な選曲「どれがいいかしら」。そして、「哀愁のシンフォニー」。サビの部分で昔は大量の紙テープが飛び交ったわけだが、今はみんなが一斉に赤いペンライトを突き上げる。さらに「悲しきためいき」「暑中お見舞い申し上げます」微笑がえし

 蘭さんの口からも「スーさん、ミキさんの存在は私の誇りであり、自慢です」という言葉が出たが、キャンディーズの楽曲、そして、キャンディーズという存在そのものが、50年経っても、僕も含めて多くの人の大切な宝物であり続けるという事実を改めて想った。しかも、この宝物はどんなにたくさんの人たちとでも等しく分かち合えるのだ。みんなで分ければ分けるほど大きくなる宝物。

 「みなさん、せっかく盛り上がっているところに水を差すようですが、ソロアルバムの曲をやってもよろしいでしょうか(笑)」といって2ndアルバムから「恋するリボルバー。キャノン砲が発射され、客席に金色のテープが大量に降ってくる。でも、僕の席までは届いてこない。終演後に拾いに行こう。そして、最新作の1曲で、昨年のコンサートでもアンコールで披露された「美しい日々」で本編終了。


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 そして、この日のアンコール。個人的には一番のサプライズが待っていた。

 イントロが流れ始めた時、えっ、これは現実なのか、夢ではないのか、と思ってしまった、まさかの「かーてん・こーる」。「微笑がえし」のB面曲で、僕がキャンディーズの音楽の魅力にはまるきっかけとなった、あまりに美しく神聖な曲である。ピンクのロングコートにハートマークの付いたTシャツに衣装チェンジした蘭さんが厳粛に歌い出す。キャンディーズもこの曲はライヴでは一度も歌っていないので、スタジオ録音以外では今回のツアーで初めて歌われたことになる。こういう曲をライヴでやると、オリジナルのイメージが損なわれるということもよくあると思うのだが、そういうことは全くなく、素直に感動した。


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 アンコールはまだ続く。キャンディーズのライヴで会場全体が一体となって盛り上がるための曲だった「ダンシング・ジャンピング・ラブ」。コール&レスポンスで客席も全力で盛り上がり、さらにキャンディーズライヴのエンディングの定番だった「さよならのないカーニバル」へ。客層の平均年齢がかなり高いコンサートのはずなのに、会場全体が異様に若返っている。

 最後はソロ最新作から「ネガフィルムの青空」で終演。

 たっぷり2時間半。いやぁ、こんなに感動したライヴは久しぶりだ。いつ以来か思い出せないぐらい久しぶり。初めてかもしれない。とにかく、素晴らしかった。

 会場に飛び交った金色のテープ、拾ってきた。

 50th Anniversary  tour 2023. Started from Candies. I love you all from Ran.

 

 

 

 

世田谷八幡宮の奉納相撲

 世田谷八幡宮例大祭。今日は午後2時から奉納相撲が行われた。

 世田谷八幡宮の相撲は江戸時代から江戸三大相撲の一つとして有名で、現在は近くの東京農業大学の相撲部によって奉納されている。

 神社に着くと、ちょうど土俵上で神主さんの神事が始まるところだったが、ものすごい人出である。しかも、日本人より外国人の方が多いのではないか、というぐらい外国人だらけである。

 すぐ東隣にある豪徳寺も最近は参拝者の9割が外国人だとテレビで言っていた。

 八幡宮は烏山川(目黒川の上流)に面した台地に立地し、土俵を階段状に観客席が囲むようになっている。すでに立ち客がその周りをぐるりと囲み、土俵がほとんど見えないぐらいの盛況である。

 普通に目の高さにカメラを構えると、こんな感じ。

 神事が終了すると、力士の準備運動。四股、すり足、股割など。

 股割ではまず体の軟らかい子に感嘆の声が上がり、次に体の硬い子で笑いが起きるというのがお決まりのパターンである。

 それから取り組み開始。学生相撲の形式で出身地別の団体戦および個人戦。それから江戸時代以来の奉納相撲の伝統に基づく三人抜き、五人抜きなど。これは一人の力士が次々とかかってくる相手に三連勝、五連勝するまで続けるもの。

 さすがに相撲部だけあって体の大きな子が多いが、なかに痩せているわけではないが、体の細い子がいて、彼の思わぬ活躍に拍手喝采。たちまち人気力士になる。

 彼が居反り3連発で三人抜きを達成したところなど、花相撲的な、ちょっとやらせっぽさを感じないわけではなかったが、奉納相撲は神様に見て楽しんでいただくのが目的なので、それも一興か。


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 勝った力士にはお神酒が贈られるが、細身の彼は未成年ということで、進行役の監督さんに没収される。


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 最初は超満員だったが、ある程度見て満足した人も多いようで、だんだん客席にゆとりが出てきた。

 個人戦団体戦の決勝、これより三役の小結、関脇、大関戦ですべての取り組みが終了。

 表彰式で団体戦優勝チームにはトロフィーとともに副賞として文明堂提供のカステラ一箱(でかい)が贈られる。

(賞品のカステラ)

 現在、大相撲で活躍(?)している正代も学生時代、ここで相撲を取っていた。近い将来、今日の力士たちの中から大相撲で活躍する人が出てくるかどうか。

軽井沢から草津へ

 9月9日(土)、群馬県の横川駅から碓氷峠を徒歩で越えて、4時間かかって軽井沢駅までやってきた。時刻は正午を少し過ぎたところ。

 当初の予定は軽井沢から草津温泉まで行って、久しぶりに温泉に浸かって帰るというものだったが、小諸に出て、小海線に乗り、小淵沢から中央本線で帰ってもいいかな、という気持ちになった。

 軽井沢からは信越本線の線路が現役だが、新幹線開通を機にJRから切り捨てられ、第三セクターの「しなの鉄道」となっている。

 国鉄時代の旧軽井沢駅舎。

 ここにも横軽で活躍したEF63が保存されている。

 駅前からの眺め。いかにも火山らしい形状の山は「離れ山」といい、浅間山からは離れているが、2万年以上前に浅間山のマグマが噴出したデイサイト~流紋岩質の溶岩ドームらしい。麓から200メートルほどの高さで、今の天皇陛下が5歳の時に初めて登られた山だそうである。穏やかな姿の山だが、こんな山がこの先、軽井沢の街の真ん中に誕生するとしたら、粘り気の強いマグマだから爆発的な噴火と火砕流を伴い、大災害は間違いなしである。

 父のアルバムにも碓氷峠から望む同じ山の写真があり、そこに「離れ山」と書いてあったので名前が分かり、調べてみたのだ。

 昔、軽井沢と草津温泉を結んでいた草軽電鉄の機関車。大正時代に順次開業し、1962年に廃止。一度乗ってみたかった。

 とりあえず、昼食をとろうと駅前を歩いていたら、12時40分発の草津温泉行きバスがちょうど出るところで、つい乗ってしまった。草津の到着予定は13時56分。それまでは昼食抜きだ。横川からたぶん15キロ以上は歩いて、腹が減っていたのだが・・・。

 草軽電鉄の後身にあたる草軽交通のバスは観光バスのような座席で、ほぼ満席で発車。ところが、数分走って旧軽井沢に着くと、そこでけっこう下車客があった。横川から歩いてきた者としては、このぐらいの距離なら散策気分で歩けばいいのに、と思ってしまう。

 とにかく、旧軽井沢でたくさん降りたのだが、それ以上に乗ってきて、車内は完全に満席になった。

 しばしば、東京の原宿のようだ、などと言われる軽井沢だが、街路樹のモミジが早くも色づいている。

 最初は道が混んでいたが、市街地を抜けて、カラマツ林の続く別荘地帯に入ると、快調に走り出した。この辺を初夏の頃にバードウォッチングしながら散策するのは最高だろうな、と思う。

 観光名所の白糸の滝で大勢下車して、だいぶ空席が多くなった。バスは高原地帯を走り、やがて群馬県に入る。浅間山は雲に隠れて、裾野しか見えない。このあたりの大地はすべて浅間山の噴火に伴う膨大な噴出物に覆われてできているのだろう。

 北軽井沢には草軽電鉄の駅舎が残り、ここにも機関車が保存されていた。

 キャベツやレタス、トウモロコシなど高原野菜の畑を見ながら走ったバスは坂を下り、吾妻川の渓谷を渡ると、再び登り。JR吾妻線の線路が見える。羽根尾駅前を過ぎ、またぐいぐいと登って、草津温泉バスターミナルに到着。

 町に出ると、硫黄のにおい。とりあえず、湯畑を見に行く。大変な賑わいで、外国人もたくさんいる。有名な「湯もみ」の見学には大行列ができている。

 2018年1月23日に突如噴火した本白根山を含む草津白根山の東麓に位置し、pH2という強酸性の温泉。日本一の自然湧出量を誇り、いくつもの源泉をもち、泉温も50℃から95℃と高温。古くから日本を代表する名湯として知られている。

 白旗源泉。

 とりあえず食事を、と思うのだが、なんとなく空腹も治まってしまったし、昼の営業を終えた店が多いので、温泉に入ることにする。

 温泉街のはずれにある「西の河原露天風呂」(700円)で入浴。今までに入った中で一番広いのではないかと思うほど広い露天風呂で、空いていて、最高の極楽気分だった。ここには外国人の姿はなかった。

 温泉の下流の西の河原。随所に温泉が湧き、湯けむりを上げて川が流れている。西の河原は確かに温泉街の西にあるが、「賽の河原」でもあるようで、あちこちに石が積んである。

(正面の木立の奥が露天風呂。人が集まっているのは足湯)

 さて、帰るか。15時50分のバスに乗り、吾妻線長野原草津口駅まで25分。一応、草津温泉の玄関口ということになっているが、駅前には何もない。

 この駅から道路を挟んだ反対側には利根川の支流・吾妻川が流れ、峡谷をなしているが、その流れをせき止めて造成されたのが、建設続行か中止かで政治問題にまでなった八ツ場(やんば)ダムである。結局、工事は続けられ、2020年に完成している。その上流端がこの付近であるが、水はほとんど溜まっていない。普通に川が流れていた。ただ、両岸はコンクリート護岸となり、渓谷美は失われている。

 ダム建設によって、川原湯温泉街を含む多くの集落が水没し、吾妻線も一部区間が水没するため、新線に切り替えられている。

 渋川方面を見ると、かつての線路は吾妻川の左岸を通っていたが、今は新しい橋で対岸に渡り、約12キロほど右岸側を走るようになっている。新線区間はほとんどがトンネルである。

 長野原草津口16時39分発の高崎行きに乗るため、ホームで電車を待っていて、気になる山があった。

 山の陰に潜むパンチパーマの巨人の頭だけ見えている・・・みたいな山。

 あとで調べてみると、丸岩というらしい。どうしてこんな形の山ができたのだろう。群馬県には赤城山榛名山妙義山など個性的な山容の山がたくさんある。

 電車が来た。

 この電車で高崎に18時03分着。夕食を取り、19時15分発の湘南新宿ライン小田原行きのグリーン車に乗って、21時04分に新宿着。

 自宅から自宅で35,922歩。
 とりあえず、これでこの夏の「青春18きっぷ」を使い切った。




 

 

 

碓氷峠を横川から軽井沢まで歩く(その4)

 9月9日に「青春18きっぷ」で群馬県の横川まで行き、信越本線廃線跡を旧熊ノ平駅跡まで歩いた。ここから先、軽井沢までバスに乗るつもりだったが、道路が通行止めでバスが来ない。先へ進む手段がなく、一度は引き返そうかと思ったが、通行止めの原因は「路肩崩落」。2車線道路の路肩が崩れただけなら、人間は通れるのではないか、と考え、とりあえず軽井沢へ向けて歩いてみることにした。

 碓氷峠まで7キロと書いてある。軽井沢はその先だが、横川からひたすら登って、峠を越えたすぐ先が軽井沢であるから距離的には大したことはない。問題は道路がどの程度崩落しているのか。そして、クマが出たりしないか、ということだ。恐らく、この先には峠まで誰もいないと思われるので、不安はあるが、とりあえず行ってみよう。

 ちなみにいつから通行止めなのか、帰宅後に調べてみたら、近畿地方を縦断した台風7号の影響による大雨で8月15日頃、道路が崩落したようだ。今年度中の復旧をめざしているらしい。

 

 とにかく、しばらく車が走っていない旧道は落ち葉や折れ枝、木の実などが大量に落ちていた。時々、上からドングリが降ってきたりする。ドングリぐらいならいいが、直径が10センチほどもある枝が落ちていたりもするので、危険である。

 ドングリのほかに栃の実や栗なども落ちているから、それらを狙って出てくる動物もいるに違いない。リスぐらいならいいが、木の実はクマの好物でもある。

 少し歩くと、最初の崩落地点。路肩どころか、片側車線がごっそりなくなって、ブルーシートで覆われている。しかし、人間が歩くぶんには問題はない。

 さらに行くと、右側にトンネルが口を開けていた。有刺鉄線付きのフェンスで封鎖されている。

 覗いてみると、トンネルの向こうは旧熊ノ平駅だ。つまり、これは駅の軽井沢方に3本並んでいたトンネルの一番左側のものだ。僕はこれがアプト式だった旧線トンネルだと思い込んでいた。そうすると、ここに線路が通っていたことになるが、地形的にもそんなはずはない。トンネル脇のプレートには「熊ノ平ずい道」とあり、長さは125メートル、設計は日本国有鉄道信濃川工事局、竣工は昭和40年8月31日となっている。つまり、アプト式の旧線から新線に切り替えられた後である。どういうことか、この時はまったく分からなかったのだが、あとで調べてみて、これがいわゆる下り「突っ込み線」を改修して道路までトンネルを掘り抜き、駅構内と道路を結ぶ自動車用トンネルに転用したものであると理解できたわけだ。現場ではその辺はまったくの謎だった。

 その先で右手に線路跡が見えた。これもあとで知ったことだが、熊ノ平~軽井沢間では一部区間を除いて旧線を改修して新下り線に活用しているのだった。

 まもなく、また崩落現場を通りかかる。今度は路肩が崩れているだけだが、ガードレールが無残に落下している。

 とにかく曲がりくねった道で、カーブごとに麓から何番目のカーブか、数字が書いてある。その数字がどんどん増えていく。今は通行止めなので、クルマやバイクは来ないが、もしかしたら、通行止めでないほうが歩行者にとっては危険かもしれない。

 100番目のカーブ。

 廃線路は何度も見ることができた。

 峠まであと5.1キロ。カーブの数字は最終的にどのぐらいになるのだろう。

 30分以上歩いた地点に「軽井沢9㎞」の標識。え、9キロ? 思ったより遠い。しかも、雨が降ってきた。

 反対方向は東京144㎞。

 車も人も全く通らない道を折りたたみの傘をさして、ただ歩く。ひたすら歩く。

 さらにしばらく行くと、右側に廃棄されたトンネル。旧線のトンネルだ。

 この前後の区間だけ新下り線は旧線とは別に新規に建設されたのだった。その新線がすぐ先に見えた。

 通行止めの道を歩いてきて、初めて人の姿を見た。半分だけ。どなたですか?

 今度は右斜面から土砂が流れ込んでいた。ずいぶん粒子の大きな土砂だ。この辺だと浅間山あたりから来たものか。

 146番目のカーブ。碓氷峠まで2.2キロ地点。

 このあたりだったか、左側のガードレールの陰にニホンザルがいた。吠えるような声を上げて斜面を駆け下りていった。姿が見えたのは1頭だけだが、複数いたようだ。奴らも驚いたようだったが、こちらもびっくりした。

 標高900メートル。遠くでアオバトの声が聞こえる。いつのまにか、雨はやんだ。

 碓氷峠まであと1キロほど。

 そして、ついに碓氷峠に無事たどり着いた。ここから長野県軽井沢町だ。ゲートが閉まっている。向こうではなく、こちら側が通行止めなのだ。

 時刻は11時42分。熊ノ平をあとにしたのが10時15分頃だったから1時間半弱かかった。横川からは3時間半ぐらい。

 峠からの眺め。

 ここでまた父の古いアルバムにあった昭和三十二年夏の碓氷峠の写真。山の形からみて、上の写真と同じ場所だと思うのだが、眼下にアプト式信越本線の線路が写っている。たぶん今は草木が茂って、線路は見えないのではないかと思う。

 碓氷峠。日傘をさしているのは曾祖母。大きな石碑は僕も現地で見た。道路の改修記念碑のようなもの(修路碑)で、わざわざ写真を撮ることはしなかったが、父のアルバムに同じものが写っていると知っていれば、撮っておけばよかったとも思う。

 いま歩いてきた道のどこかで撮ったもの。祖父母と曾祖母。

 ゲートを逆から撮った写真に修路碑が小さく写っていた。

 さて、峠を越えると、急に開けて、高原風の眺めになり、軽井沢の町が見えてきた。

 坂を下っていくと、まもなく左下に線路が現れる。一瞬、廃線跡かと思ったが、違う。新幹線だ。ちょうど列車がやってきた。

 時刻表で調べてみると、金沢行きの「かがやき525号」のようだ。大宮を出ると、次は長野まで停まらないという生意気な列車である。東京発は10時48分なので、僕が「軽井沢9㎞」の標識に出くわした頃に東京を出ているのだった。

 続いて、信越本線の線路も姿を現した。軽井沢駅の少し手前まではほぼ完全な形で残っているのだった。

 軽井沢の街に入って、まもなく何やら鳥の声。最初、カシラダカか?などと思ったのだが、カシラダカは冬鳥だ。ホオジロか。

 もう1羽いた。

 正午を告げるチャイムが鳴りだした。すっかり晴れ渡った軽井沢駅前には12時05分頃に到着。ちなみに横川駅の標高は386.6メートルだったが、軽井沢は939.1メートルである。ずいぶん登ってきた。

 

碓氷峠を横川から軽井沢まで歩く(その3)

 9月9日(土)に旧信越本線の横川~軽井沢に残る廃線跡を歩いた話の続き。

 かつてギザギザの歯が付いたラックレールに機関車の歯車と噛み合わせて急勾配を上り下りしていたアプト式の旧線跡を歩き続け、横川から6キロ。第十号トンネルの向こうに旧熊ノ平駅跡が見えてきた。ここで「峠の湯」で分かれて以来の新線と合流するようだ。時刻は9時55分

 熊ノ平は横川~軽井沢間が複線化される前、行き違いのために設けられていた駅で、急勾配が続くなか、駅名の通り、わずかに平坦な土地がある場所だった。

 横川方面を見る。

 三つのトンネルが口を開けている。画面右が僕が歩いてきた旧線跡(アプトの道)。左の二つが1997年に廃止された新線のトンネルで、左端の上り線(横川方面)はトンネル断面が大きい。新線トンネルはどちらも立ち入れないようにフェンスで封鎖されている。

 僕は完全に見逃していたのだが、実は旧線トンネルのさらに右側にもうひとつトンネルが口を開けていたのだった。それがどういうトンネルであるかは後で書く。

 とにかく、遊歩道の終点である熊ノ平駅跡に着いて、まず視界に入ったのは慰霊碑と神社だった。

 1969年に当時の国鉄高崎鉄道管理局が立てた説明板によると、「この殉難碑は昭和二十五年六月九日早朝突如として山くずれが起こり一瞬にして埋め去られた職員と家族五十のみたまを末長くまつるため、全国の国鉄職員から寄せられた浄財で設立されたものであります」とのこと。

 大雨の影響で前日に最初の土砂崩れが発生し、この時は人的被害はなかったものの、復旧作業中に2度目の崩落が起き、作業員や宿舎が土砂に埋没。さらに救出作業中にも相次いで山が崩れて、被害が拡大したということだ。駅長を含む死者50名と重軽傷21名を出す大惨事だった。
 殉難碑に手を合せ、隣の神社も拝んでおく。

 こちらの神社は熊ノ平神社といい、JR一ノ宮と称している。鉄道が開通する前から国道の前身となる街道沿いに祀られていたらしい。祭神は稲荷大神、宇佐八幡大神大山祇大神だそうだ。

 さて、熊ノ平である。1893年に横川~軽井沢間が単線で開通した時に信号場として開設され、1906年に駅に昇格。1937年には変電所が設置され、1966年には駅から客扱いをしない信号場に降格。1997年の路線廃止とともに役目を終えている。

 熊ノ平変電所。昭和の建築なので、レンガの丸山変電所とは造りが全く違う。

 ところで、急勾配区間にわずかに存在する平坦地の熊ノ平。トンネルに挟まれた駅だが、単線時代はちょっと変わった駅であった。

 単線区間で列車が行き違うためには、そこだけ線路が2本に分かれて、行き違いを行うわけだが、熊ノ平では十分な線路の長さがとれなかったため、行き違い区間に列車の編成が収まりきらず、列車交換に支障をきたしてしまう。

 そこで次の図のように上下線それぞれに突っ込み線、引き上げ線を設けたのである。

 たとえば、横川から来た列車が先に到着した場合、列車はAの突っ込み線に乗り入れる。用地の都合でAは行き止まりのトンネルになっている。こうして軽井沢からの列車は支障なく行き違うことができる。その後、列車はバックで発車。Bの引き上げ線(これも行き止まりのトンネル)に入り、それから前進して、Cの本線に出て、軽井沢へ向かったのである。一種のスイッチバックだ。

 上り線にも同様の突っ込み線と引き上げ線が設けられたため、旧線時代の熊ノ平駅は両側に三つずつトンネルが口を開けていたことになる。

 その後、複線化に際して、軽井沢方は旧本線(C)を改修して新下り線に活用、そして上り引き上げ線(D)を改修して新上り線としている。あとで分かったことだが、旧下り突っ込み線(A)は駅と外部(旧国道)を結ぶ自動車用トンネルに転用されている。

 一方、横川方は僕が歩いてきた旧本線の第十号トンネルは廃線。下り引き上げ線(B)も廃止。そして、上り突っ込み線(E)は改修して新上り線に活用され、旧本線との間に新規にトンネルを掘って新下り線としている。

(軽井沢面。旧本線と上り引上線が新線に活用されている。左端に下り突込線トンネル)

 下写真の左側が旧下り突っ込み線のトンネルだが、最初はこれを単線時代の本線だと信じ込んでいた。あとになって、そうではないらしいことが分かり、不思議に思って調べてみて、熊ノ平でどのように列車が行き違いをしていたか理解したのだった。

 とにかく、この旧熊ノ平駅構内のすべてが貴重な歴史遺産として重要文化財に指定されている。

 静かな駅跡にコオロギの声がするほか、赤とんぼがたくさん飛んでいる。

 ところで、めがね橋で10人ばかりの観光客を見て以来、熊ノ平までまた誰にも会わなかったのだが、あとから若者がひとり現れた。僕のあとから「アプトの道」を歩いてきたのか、それとも旧国道を車で来たのかは分からない。その彼が坂道を下っていった。

 とりあえず線路跡はここまでしか歩けず、ここから軽井沢までバスに乗るつもりだったのだが、そのバスが別ルートに変更になっているらしい。今の彼はどうするのだろう。僕も道路まで階段を下ってみた。

 駐車場があったが、車は一台もとまっていないし、先ほどの彼の姿も見当たらない。車で来て、もう行ってしまったのだろうか。

 そして、ここから軽井沢方面は道路が封鎖され、通行止めになっているのだった。

 「路肩崩落のため旧道国道18号(碓氷峠)は軽井沢方面へ通り抜け出来ません」ということで、「全面通行止」である。

 そこへ若い男二人組が車でやってきたが、道路が封鎖されているのを見て、引き返していった。駐車場にあった周辺案内図をみると、軽井沢行きのバスが走るバイパスは碓氷峠のずっと南を通っていて、ここからではアクセスできない。これ以上進めないのであれば、引き返すしかない。

 僕はカーブの多い旧国道を横川方面へ歩き出したが、100メートルほど歩いて、考え直す。徒歩で横川に戻るのなら、「アプトの道」のほうが距離が短いのではないか。さらに考える。通行止めの原因が路肩の崩落なら車は通れなくても、人ひとりぐらい通れるのではないか。

 ということで、駐車場まで戻り、その先の柵の隙間を通り抜けて、様子をみる。片側車線に泥が溜り、水に浸かっている。そこを獣が横切ったようで、足跡がたくさん残っている。恐らくシカだろう。イノシシの可能性もあるが、少なくともクマではない。

 いきなりこんな具合だが、なんとか歩けそうな気もする。碓氷峠まで7キロと書いてある。途中でどうしてもダメだったら引き返すつもりで、とりあえず行ってみるか。

 多少不安な気持ちも抱えつつ、僕は通行止めの旧国道を歩き出した。この先は出会うとしたら、動物だけだろう。

 無事に碓氷峠を越えて軽井沢に辿り着けるだろうか。

 

 つづく