江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が府中の六所宮(大國魂神社)を参詣した時に歩いた道筋を辿った話の続き。調布駅前を過ぎ、日本橋から六里(約24km)の小島一里塚跡を過ぎたところから。
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「下石原、上石原などを過ぎて行く。この辺りの路には石が多い。ゆえに石原というのであろうか。ここから西南の林のはずれに向山が見える」(現代語訳:阿部孝嗣)
調布の繁華な中心街を過ぎ、鶴川街道の交差点を過ぎると、調布市下石原。昔の布田五宿の一つ、下石原宿である。石原とは多摩川中流の石の多い河原に由来すると言われ、初期の村落は多摩川低地にあった。それが甲州街道の開通により、街道沿いに移動して宿場となったわけである。街道が通っているのは多摩川低地より一段高い立川段丘上であるが、遠い昔にはここを多摩川が流れていたため、やはり石が多かったのだろう。当時は街道から多摩川の対岸の丘陵が見えたようだが、今はほとんど見えない。

なんとなく、のどかさを感じさせる街道沿いには常演寺(天台宗、下石原1‐52‐4)、源正寺(臨済宗、下石原1‐36‐1)がある。
(源正寺前の石仏群)
源正寺前を過ぎると、上石原に入る。この村ももとは多摩川沿いにあり、甲州街道の整備によって街道沿いに移転している。赤い「誠」の文字とともに「新選組局長 近藤勇 生誕の地 上石原」の幟が目立つようになる。ただし、近藤勇(1834‐68)が生まれたのは調布市の北西端に近い上石原宿の飛び地で、今の町名だと調布市野水である。嘉陵たちがこの道を歩いた時はまだ生まれてもいない。

西調布駅(開設時は上石原駅、1959年改称)入口を過ぎると、西光寺(上石原1‐28‐3)があり、境内に近藤勇像がある。

長谷山聖天院西光寺はもとは聖天坊という修験の寺で、深大寺の僧・長弁(1362‐?)の著作集『私案抄』に「石原聖天坊幸承追善の諷誦」という聖天坊にいた幸承という修験僧の三十三回忌の追善供養のために長弁が作成し、法要で読み上げられた文章が収録され、「応永三十四(1427)年丁酉十月二十日敬白」とあることから応永年間(1394‐1428)には石原に聖天坊が存在したことが分かる。その後、江戸時代の寛文年間(1661‐72)に天台宗に改宗している。また、それより前の慶安二(1649)年には徳川家光より十四石二斗の朱印地を拝領している。
なお、『私案抄』には石原のほか、布田郷やこれから通る染屋、車返といった地名も出てきて、これらが室町時代には存在した古い地名であることも分かる。

西光寺を過ぎると、中央自動車道の高架をくぐり、まもなく飛田給(とびたきゅう)に入る。昔の多摩郡飛田給村である。飛田給とは変わった地名であるが、このあたりが誰かの荘園だった時代、その管理を任された飛田氏が領主から支給された領地が飛田給と呼ばれたという説がある。また、もとは悲田給で、「悲」の字が村名に相応しくないということで、同音の「飛」に改め、読み方も「ひでんきゅう」から変化したものとの伝承もある。古代の武蔵野は無人の原野が果てしなく広がり、飢えや病気で苦しむ旅行者が相次いだため、多摩郡と入間郡の境に悲田処(所在地不明。所沢市、東村山市、清瀬市などに複数の候補地あり)を設け、食料などを提供して救護したといい、その給田地が悲田給だというわけだ。

飛田給駅前を過ぎると、左手に飛田給薬師堂がある(飛田給1‐25)。

本尊は石造瑠璃光薬師如来立像といい、「飛田の原の石薬師」として信仰を集めていた。仙台藩に仕えた医師の松前意仙という人物が貞享三(1686)年に彫刻して安置したものである。意仙は仏道を志し、諸国遍歴の末、この土地を生涯の地と定めて庵を結び、医業のかたわら人々の救済を願って石の薬師像を刻んだ。そして、像の完成後、元禄十五(1702)年、薬師像の傍らに自ら穴を掘り、村人に「鉦の音の止んだ時が我が命の尽きた時である」と言い残して、穴の中に入って鉦を叩きながらお経を唱え続け、そのまま入滅した。意仙の成仏後、村人たちがその遺徳を称えて行人塚を築き、また弘化四(1847)年にはお堂を建て、それまで野外にあった薬師像を奉安したという。行人塚は昭和四十七年の改修の際、専門家により内部が調査され、遺骨の存在が確認されている。座禅を組んだまま白骨化していたそうだ。
(行人塚)
(薬師堂境内には近隣から集められたと思われる庚申塔や馬頭観音がある)
嘉陵が通った時は露座の薬師があり、すでに行人塚もあったはずだが、嘉陵は何も書いていない。
この薬師堂の角を左折して、すぐ右折し西へ伸びる道は「品川街道」などと呼ばれているが、この場所から西では初期の甲州街道であるとも考えられている。その証拠に日本橋から七里目(約28km)の一里塚(常久一里塚)はこの古道沿いにある。ただ、この道は六所宮の随神門前を通っており、つまり神社の境内を横切っているため、府中の宿場が整備できず、そこで神社の北側を通る新たな街道を開いたのだと思われる。薬師堂前が旧道と新道の切り替え地点となったのだろう。
薬師堂から旧甲州街道を250メートルほど行くと、いよいよ府中市の白糸台に入る。

「これより少し行くと下染屋(府中市白糸台)・上染屋に至る。この辺りには原がある。江戸からここまでの間は、道からは林が見えるだけで眺望できるような所はないのだが、ここに至って初めて景色が広がり、遠くに山容の美しさを見ることができる。南には大山が見え、そこから山々が連綿として続き富士の根を遮りそばだっている。西北をかえりみれば、八王子、子の権現(埼玉県飯能市)、秩父、武甲の諸山が見える。
ここから富士の裾野の山々を見ると、山に皺のあるのが見える。そのことによって、富士に少しは近づいたことを知ることができる。秩父諸山についてはなおさらのことである。その他は江戸で見るよりは山が高くそびえ、富士は江戸で見るのに比べれば根方の山に裾を遮られてしまい、五、六合目までしか見ることができない。玉川、向山も間近に見渡されて、眺めはことに美しい。
傍らにある民家の軒先を借りて、ここの風景を写す。今日は昼前から北西の風が吹いて、寒さに耐えられず、手が凍えて、筆をとることができないほどであったが、ようやく図の体をなすことができたので、絵を懐に入れて、歌を詠もうとしたけれども、どうしても図と同じ題にしかならないのであきらめた」
府中市白糸台には下染屋村と上染屋村があり、その間に車返村があった。現在の町名の白糸台はいかにも新しい地名に思えるが、車返村の古称が白糸村だったという。いずれも古代からの製糸や染め物に由来する地名なのだろう。車返については後で書く。
下染屋の中心は今の白糸台三丁目あたりであったようだ。この付近の村もみな多摩川沿いの低地に形成され、水害や街道の整備などによって台地上に移ってきた。
嘉陵によれば、ここまで広々とした眺めのなかった甲州街道が、ここでようやく眺望が開け、大山から続く丹沢山地、奥多摩、秩父の山並みが連なり、その向こうに真っ白な富士山がそびえていた。それは今でも都内の少し高いビルなどから眺められる風景であるが、この付近の甲州街道からは今はほとんど見えない。わずかに南へ向かう道路の先に多摩丘陵(向山)が見えるだけである。
(旧甲州街道と交差する白糸台通りの彼方にかすかに見える向山=多摩丘陵)
街道の北側に神明山観音院金剛寺(天台宗)と下染屋の鎮守だった神明社が並んでいる。どちらも創建年代は不詳。
(観音院門前の石仏群)
(下染屋神明社)
さらに行くと、旧車返村に入る。白糸台二・四・五丁目あたりが概ね昔の村域にあたるらしい。ここにある京王線武蔵野台駅も昭和三十四年までは車返駅であった。
この車返の地名の由来には次のような伝承がある。源頼朝が奥州藤原氏を討伐し、平泉から鎌倉へ凱旋する際、藤原秀衡の持仏であった薬師如来像を畠山重忠に命じて鎌倉まで運ばせた。しかし、その途次、この地で野営した時に薬師如来の夢告があり、そこに草庵を結んで薬師像を安置し、移送用の車をもとへ返したので、この付近の土地に車返という地名がついたというのである。真実かどうかは分からない。『新編武蔵風土記稿』ではそのような地名伝承にはまったく触れていないので、信憑性はないと判断されたのかもしれない。その薬師堂はその後、当地に来住した宮崎泰重という人物によって天正二(1574)年、府中崖線沿いの白糸台5‐20に再興され、この時から八幡山本願寺と称するようになり、徳川幕府から十一石四斗の朱印地を賜って、同時に葵の御紋の使用も許されている。ただ、本願寺の薬師如来は江戸時代のものとされている。
旧車返村の領域は下染屋の東側(今の白糸台六丁目)にもあったようで、この付近の村は領域が複雑に入り組んでいた。車返の名は今は団地名などに残されている。
やがて、西武多摩川線の踏切を渡る。東京都内では珍しい単線である。甲州街道をずっと歩いてきて、新宿以来、初めて渡る踏切でもある。踏切の南にあるのは白糸台駅。

現代の甲州街道、国道20号線はこの北方で線路を陸橋で越えている。車返跨線橋というそうだ。
踏切の脇に庚申塔。

踏切を過ぎて、少し行くと白糸台一丁目。昔の上染屋村である。この村も成立当初は多摩川沿いの低地にあった。
まもなく「不動尊前」交差点があり、左手に染屋不動尊がある(白糸台1‐11)。元は本山派修験の玉蔵院という寺で、上染屋八幡神社(白糸台1‐42)の別当寺であったが、明治になって廃寺となり、現在は本尊だった不動明王を奉安する上染屋不動堂だけがある。
(上染屋不動堂)
そして、その境内には宝物殿があり、通常非公開の阿弥陀如来像が一体安置されている。これは神仏習合時代、上染屋八幡神社の本地仏だったもので、像の背面の銘文には上州八幡庄、弘長元(1261)年の文字が残されている。この仏像は鎌倉攻めに向かう新田義貞軍の陣中守護として新田一族の上州里見氏が奉戴し、鎌倉幕府を打倒して建武中興を成し遂げた後、当地に建立された神社に神仏習合の本地仏として奉安された。正平十一(1356)年に武蔵守新田義宗(新田義貞の子)が社殿を再建するが、承応二(1653)年の多摩川洪水で社地が流失し、村の移転と同時に現在地に遷座したという。阿弥陀像は明治の神仏分離、廃仏毀釈の流れの中で売り払われ、一時は行方不明となるが、徳川宗家第16代当主・徳川家達(いえさと、1863‐1940)の手に渡り、上染屋に戻された。昭和三年に旧国宝に指定され、現在は国指定重要文化財。
(銅造阿弥陀如来立像を安置する宝物殿)

(大國魂神社境内のふるさと府中歴史館にあった阿弥陀像の写真の写真)
上染屋八幡神社は不動尊前から250メートルほど西へ行き、浅間山通りとの「白糸台一丁目」交差点の手前に参道入口がある。ここから北へ200メートルほど行き、国道を渡ったところにある。

社伝によると、正慶二(1333)年に上野国(今の群馬県)碓氷郡八幡庄より武蔵国府に遷座したという。「国府に遷座」というのは、この付近まで国府の領域が及んでいたことを意味するようだ。初めは多摩川低地に創建され、洪水による流失を経て現在地に移転というのはすでに触れた通り。
八幡神社前の国道には「日本橋から28km」の標示がある。府中まであと2キロぐらいのはずだ。今日は自宅から2キロほど歩いて下高井戸で甲州街道に出て、そこからずっと歩いてきたわけだが、歩き始めた頃のことを思い返すと、ずいぶん遠い道のりを来たものだと思う。現在の時刻は14時を過ぎたところ。下高井戸をスタートしたのが9時過ぎだった。ただ歩くだけなら、13時前には府中に辿り着けたと思うが、あちこちで寄り道をしているので、予想以上に時間がかかった。電車ならあっという間の区間であるのに、けっこうな旅をした気分になる。安上がりな旅であるが、そのわりには面白い。
つづく
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