プラムの花が咲きだした

 今日の東京は曇り空。都心の最高気温は10.0℃で、2月上旬並み。

 プラム(スモモ)の花が咲き始めた。

 若葉も出始めて、白い花との取り合わせも良い。今年はいくつ収穫できるだろうか。

 シラー・シベリカ。

 ツグミ

 メジロ

(おまけ)1981年3月の急行「宗谷」と急行「ニセコ」。長万部にて。

 当時、函館と稚内を倶知安・小樽回りで結んでいた急行「宗谷」。函館11時45分発で、最北の駅・稚内には22時48分着。北海道内だけで11時間もかかっていた。

 僕は函館から長万部まで乗っただけだったが、一度は全区間乗り通してみたかった。

 下の写真は札幌発函館行きの急行「ニセコ」。「ニセコ」といえばC62が重連で牽引する列車として有名だったが、この当時はSLを駆逐したディーゼル機関車DD51の重連が14系客車を牽引していた。いくつもの峠を越えて長万部駅に到着。

(きょうの1曲)Phil Miller / Eastern Region


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ツタンカーメンのエンドウ豆

 東京は一時雪も降った昨日の天気から一転、穏やかな晴天。でも、朝は冷え込んで、都心の最低気温は1.5℃。郊外は氷点下2~3℃まで下がる。うちでも野鳥用の水に薄い氷が張っていた。都心の最高気温は11.9℃。平年よりやや低め。

 5年ぐらい前に近所の人からもらった数粒の豆から育て、毎年栽培しているツタンカーメンのエンドウが最初の花を咲かせた。

 莢が紫色のグリーンピースの収穫が目的で栽培しているわけだが、花もきれい。

 カロライナジャスミンも開花間近。

 アンズの花とラナンキュラス・ラックス。

(おまけ)1981年3月の青函連絡船「津軽丸」

 青森5時25分出港。函館まで3時間50分の船旅だった。

(きょうの1曲)John Coltrane / To Her Ladyship


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嘉陵紀行「府中道の記」を辿る(その6)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文化九年一月十七日(1812年3月1日)に府中の六所宮(大國魂神社)に参詣した時に歩いた道筋を辿ってみた話の続き。旧上染屋村の府中市白糸台一丁目までやってきたところから。

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 白糸台一丁目交差点を過ぎると府中市若松町に入る。昔の多摩郡常久村である。蔵のある旧家の残る道を350メートルほど行った右側に常久八幡神社がある(若松町1‐32‐1)。村の鎮守で、当初は多摩川低地にあったが、洪水被害に遭い、村落と共に台地上に移転してきたという。

(常久八幡神社)

 この地域の村々の多くは多摩川沿岸から移転したため、旧地と新たな土地、さらに北部の原野を開拓した新田など村域が散らばり、互いに複雑に入り組んでいるのが特徴である。常久というのは人名に由来する地名で、中世に常久という人物が名主だった名田の名残といわれる。つまり、これも古い地名であり村落である。このあたりの多摩川沿岸には旧石器時代から人が暮らしていた痕跡があり、縄文遺跡や古墳も数多く存在して、遠い昔から人々の生活の営みが連綿と続いてきたことが分かっている。

 常久八幡神社の南方、旧甲州街道の150メートルほど南を東西に走る品川街道に「常久一里塚跡」がある(府中市清水が丘3‐15)。江戸時代初期、甲州街道が整備された時に築かれた日本橋から七里目(約28km)の一里塚で、当初の甲州街道が飛田給から品川街道に入って、六所宮の随神門前に通じていた証拠となっている。

 旧甲州街道と品川街道は東府中駅前で合流するが、昔の品川街道(初期甲州街道)は駅の東側から京王線の南側を通って六所宮まで通じていた。嘉陵たちが歩いたのはこの古道ではなく、飛田給以西で新しく付け替えられた甲州街道である。

 東府中駅前を過ぎると、京王線の踏切を渡り、いよいよ府中の街へと入っていく。

「この道を行った先の左側に松林があり、八幡宮がある。六所神主の所有だという」(現代語訳:阿部孝嗣)

 注釈ではこの八幡宮は府中市白糸台五丁目と書いてあり、それは京王線武蔵野台駅の南東にある旧車返村の八幡神社を指すと思われるが、実際に嘉陵がいう八幡宮はこの先の八幡町にある国府八幡宮のことである。

 府中市八幡町は昔の八幡宿で、宿場だったような地名だが、実際は六所宮領の農村だった。当時の六所宮は古代以来の武蔵国総社として戦国期の小田原北条氏からも徳川幕府からも五百石という破格の待遇を受け、八幡町の東隣の清水が丘もかつては六所宮領であった。

 その国府八幡宮へは甲州街道から南に長い参道が伸びていて、今は途中を京王競馬場線が横切っている。

 踏切を渡って二の鳥居、さらに神門をくぐり、街道から200メートルほど行くと、参道は直角に左へ曲がり、三の鳥居の先に玉垣に囲まれた八幡宮の社殿がある。小さな社だが、一帯は杉などの林になって、神聖な雰囲気が漂っている。

(長谷川雪旦画『江戸名所図会』 街道から八幡の森まで松並木の参道が続く)

 この国府八幡宮の創建年代は不明だが、聖武天皇(在位724‐749)の勅命により一国一社の八幡宮として創建されたという伝承をもつ。国府の守護神として西向きに建てられ、六所宮付近にあった武蔵国衙の方角を見守っている。

 社の傍らに社務所があり、表札は猿渡と書かれている。猿渡(さわたり)家は中世から六所宮の宮司を世襲する家である。

 街道に戻り、さらに進むと「八幡宿」の交差点があり、ここから宮町に入る。ついに府中宿に到着で、この付近はそのうちの新宿と呼ばれた地区である。ただ、新しいビルが立ち並び、宿場の面影はほとんど残っていない。

 下高井戸から15、6キロ。自宅からだとプラス2キロ余り。さらに寄り道も2キロぐらいにはなるから20キロ近くは歩いただろうか。時刻は15時になるところ。

「八幡宮を過ぎれば、府中の宿、新町、本宿などがある。風はますます強くなり、寒いことこのうえない。足も疲れてきたけれど、先に六所明神にお参りしてから食事にしようと詣でる」

 江戸・日本橋から七里半(約30km)、内藤新宿、高井戸、布田五宿に続く四番目の宿場である府中宿には中世以前、相模国府や鎌倉、小田原へ通じる鎌倉街道(相州街道)が六所宮の西側を南北に通っており、この街道沿いに宿場が形成され、本町といった。江戸時代になって甲州街道が開通すると、甲州道沿いにも宿場が整備され、六所宮から東は新宿、西は番場宿と呼ばれた。

(甲州道と相州道の交差点に残る高札場。その向こうの敷地は六所宮の例大祭の夜、神々が一夜を過ごす御旅所)

 少し後の時代になるが、天保十四(1843)年の『甲州道中宿村大概帳』によれば、府中宿は東西十一町六間(約1.2km)にわたり、人口は2,762人で、家数は430軒。本陣が1軒、脇本陣が2軒、旅籠が29軒だったという。

 大國魂神社の斜向かいにあった旅籠の松本屋は今も同じ名前のホテルとして健在で、ほかにも江戸時代から続く酒屋があったりする。

 さて、大國魂神社(江戸時代は六所宮)は第十二代景行天皇四十一年(西暦111年)に創建と伝わる、それが本当なら1,900年以上の歴史を持つ神社である。その時、この地に降臨した大國魂大神を地元の人々が祀ったのが起源だという。日本人がまだ文字も持たない時代の話であり、創建年代については信じられないが、大変な古社であることは間違いないし、数千年前からこの地には人が暮らしていたので、なんらかの祭祀は当初から行われていたに違いない。

 多摩川の流れが形成した河岸段丘のうち、多摩川低地より一段高い立川段丘上に立地し、段丘崖(府中崖線)を背に北向きに鎮座する大國魂神社とその周辺地域に大化の改新後、武蔵国府が置かれ、神社は祭祀の場となる。当初、都から派遣された国司は任国内の神社を巡拝し国の安寧を祈願する慣習があったが、巡礼は長期にわたるため、やがて十一世紀後半に国内の神々を一か所に祀る総社が成立する。大國魂神社が武蔵国の総社となり、ここには武蔵国の一之宮から六之宮までが合祀されている。一之宮から六之宮までの順位について異説もあるようだが、公式には以下の通り。

 一之宮 小野大神   小野神社 (多摩市)
 二之宮 小河大神   二宮神社 (あきる野市)
 三之宮 氷川大神   氷川神社 (さいたま市大宮区)
 四之宮 秩父大神   秩父神社 (秩父市)
 五之宮 金佐奈大神  金鑚神社 (埼玉県神川町)
 六之宮 杉山大神   杉山神社 (横浜市緑区)

 このため、大國魂神社は六所宮、六所大明神と呼ばれるようになり、時代ごとの関東の支配者から崇敬を受けるようになる。
 古くは平安時代に源頼義・義家父子が陸奥の前九年の役の平定に向かう途上、六所宮に戦勝を祈願し、この時、品川の海で禊を行ったともいい、それが大國魂神社の浜下り神事の起源とも言われている。父子は奥州平定を果たした後、再び六所宮に参拝し、ケヤキの苗木千本を寄進したのがケヤキ並木の始まりとも伝えられている。これらはいずれも伝説の域を出ず、証拠は一切ないものの、現在、並木道に源義家の銅像が立っている。頼義・義家父子が遠征の途上で武蔵国府に立ち寄ったことは確かなのだろう。

(大國魂神社から北へ約550m続く国天然記念物の馬場大門欅並木)

(八幡太郎・源義家像)

 また源頼朝が六所宮に使者を送って妻・北条政子の安産を祈願し、さらに社殿を造営したり、徳川家康が関東に入ると、破格の五百石もの朱印地を寄進し、参道のケヤキ並木を整備し、その両側に馬場を寄進したりしている(武蔵野は馬産地として知られ、この馬場で馬市が開かれた)。現在の社殿は正保三(1646)年に火災で社殿が焼失した後、四代将軍・徳川家綱の命により寛文七(1667)年に再建されたものだ。
 もちろん、権力者だけでなく、多くの民衆の信仰も集め、例大祭には遠方からも多くの人が集まった。
 その例大祭は武蔵国の国府祭を起源とし、「くらやみ祭り」として知られている。四月三十日(昔は四月二十五日)の品川での海上禊祓式から始まり、五月五日には六宮の神々と大國魂大神、御霊大神が八基の神輿に乗せられ、府中の町を巡行し御旅所へ渡御して夜を明かし、翌日、再び町を廻って神社に還御して祭礼は終わる。この神輿の渡御が神聖なものは人目に触れてはならぬという考えから深夜に町のすべての灯火を消した闇の中で行われたため「くらやみ祭り」の異名がついたわけだ。現在の神輿渡御は夕刻から行われている。
 とにかく、武蔵国府が滅びてから長い年月が経った江戸時代の各地の道標にも行き先に府中を示すものが多く見られるのは、六所宮の存在が大きかったと思われる。六所宮では「くらやみ祭り」のほかにも年間を通じてさまざまな祭礼が行われ、また市が開かれ、江戸市中など遠方からも多くの人を集めていたのだった。

 源頼義・義家親子が苗木千本を寄進したのが起源で、徳川家康が両側の馬場(今は歩道となっている)を整備したという馬場大門欅並木は国の天然記念物に指定され、北端部などに老木も残るが、多くは新しい苗木を植え足して維持されている。

 旧甲州街道を挟んだ神社入り口前のケヤキはしめ縄が巻かれ、相当な老木で、嘉陵も目にしただろう。

 では、いよいよ嘉陵たちと共に六所宮に参拝となるわけだが、その話は次回につづく。次が最終回の予定。

 

 

 

トサミズキが咲きだした

 未明に降った弱い雨も朝には上がり、日中は晴れて、暖かくなる。都心の最高気温は17.4℃。夕方にはまた雲が多くなる。

 庭のトサミズキが咲き始めた。

 家の前の電線でインコが交尾。


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  終了後、オスはすぐ餌台にやってくる。メスは少し遅れて来て、揃って朝食。その前にも食べていたのだけど。そのうち、子連れで来るだろうか。でも、その頃にはもう餌やりシーズンは終わっている。

 数日前からウグイスがさえずりの練習を始めていて、最初は本調子には程遠い状態だったが、今朝はだいぶ上達していた。あと一息だ(上の動画で聞こえる)。

 

 ビオラ。全部98円。だいぶ株が大きくなった。

(きょうの1曲)TUDOR LODGE / Two Steps Back


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アンズの花

 今日の東京は雲の多い天気。都心の最高気温は14.3℃。 

 鉢植えで育てているアンズの花が咲きだした。豊後梅とほとんど同じ花。

 室内のブーゲンビリアも咲きだした。

 ヒヤシンスがだいぶ咲いた。昔からずっと植えっぱなしなので、普通の人が思い浮かべるヒヤシンスのようには咲かないが、数だけは多い。

 今日の夕空。

 野球のWBCが昨日から始まり、侍ジャパンは今日が初戦。テレビ放送がないので、ずっと観戦しなくて済むのは助かるが、台湾相手に日本が打ちまくってる。大谷がいきなり満塁ホームランを打ったらしい。

 

(きょうの1曲)Pat Metheny / Au Lait


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光の環

 東京は昨日の雨が朝のうちはまだ残って、ぽつぽつと降っていたが、その後、天気は急速に回復。都心の最高気温は15.8℃まで上がる。ただ、北風が強い。

 雨上がりのクリスマスローズ。

 今日はスギ花粉の飛散が多くなりそうということで、あれが出現するかもしれないと密かに予想していたのだが、やっぱり出た。

 花粉光環。

 花粉大量飛散のサインであり、花粉症の人はこんなものがきれいだなんてちっとも思わないのだろう。

 夕空。

 雲の峰。

 今宵の月。旧暦一月十六日の月。昨夜がこのぐらい晴れていたら、皆既月食が楽しめたのに・・・。

 月にも光の環。たまたまか。

(きょうの1曲)村松健/雲の澪を行く


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嘉陵紀行「府中道の記」を辿る(その5)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が府中の六所宮(大國魂神社)を参詣した時に歩いた道筋を辿った話の続き。調布駅前を過ぎ、日本橋から六里(約24km)の小島一里塚跡を過ぎたところから。

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「下石原、上石原などを過ぎて行く。この辺りの路には石が多い。ゆえに石原というのであろうか。ここから西南の林のはずれに向山が見える」(現代語訳:阿部孝嗣)

 調布の繁華な中心街を過ぎ、鶴川街道の交差点を過ぎると、調布市下石原。昔の布田五宿の一つ、下石原宿である。石原とは多摩川中流の石の多い河原に由来すると言われ、初期の村落は多摩川低地にあった。それが甲州街道の開通により、街道沿いに移動して宿場となったわけである。街道が通っているのは多摩川低地より一段高い立川段丘上であるが、遠い昔にはここを多摩川が流れていたため、やはり石が多かったのだろう。当時は街道から多摩川の対岸の丘陵が見えたようだが、今はほとんど見えない。

 なんとなく、のどかさを感じさせる街道沿いには常演寺(天台宗、下石原1‐52‐4)、源正寺(臨済宗、下石原1‐36‐1)がある。

(源正寺前の石仏群)

 源正寺前を過ぎると、上石原に入る。この村ももとは多摩川沿いにあり、甲州街道の整備によって街道沿いに移転している。赤い「誠」の文字とともに「新選組局長 近藤勇 生誕の地 上石原」の幟が目立つようになる。ただし、近藤勇(1834‐68)が生まれたのは調布市の北西端に近い上石原宿の飛び地で、今の町名だと調布市野水である。嘉陵たちがこの道を歩いた時はまだ生まれてもいない。

 西調布駅(開設時は上石原駅、1959年改称)入口を過ぎると、西光寺(上石原1‐28‐3)があり、境内に近藤勇像がある。

 長谷山聖天院西光寺はもとは聖天坊という修験の寺で、深大寺の僧・長弁(1362‐?)の著作集『私案抄』に「石原聖天坊幸承追善の諷誦」という聖天坊にいた幸承という修験僧の三十三回忌の追善供養のために長弁が作成し、法要で読み上げられた文章が収録され、「応永三十四(1427)年丁酉十月二十日敬白」とあることから応永年間(1394‐1428)には石原に聖天坊が存在したことが分かる。その後、江戸時代の寛文年間(1661‐72)に天台宗に改宗している。また、それより前の慶安二(1649)年には徳川家光より十四石二斗の朱印地を拝領している。

 なお、『私案抄』には石原のほか、布田郷やこれから通る染屋、車返といった地名も出てきて、これらが室町時代には存在した古い地名であることも分かる。

 西光寺を過ぎると、中央自動車道の高架をくぐり、まもなく飛田給(とびたきゅう)に入る。昔の多摩郡飛田給村である。飛田給とは変わった地名であるが、このあたりが誰かの荘園だった時代、その管理を任された飛田氏が領主から支給された領地が飛田給と呼ばれたという説がある。また、もとは悲田給で、「悲」の字が村名に相応しくないということで、同音の「飛」に改め、読み方も「ひでんきゅう」から変化したものとの伝承もある。古代の武蔵野は無人の原野が果てしなく広がり、飢えや病気で苦しむ旅行者が相次いだため、多摩郡と入間郡の境に悲田処(所在地不明。所沢市、東村山市、清瀬市などに複数の候補地あり)を設け、食料などを提供して救護したといい、その給田地が悲田給だというわけだ。

 飛田給駅前を過ぎると、左手に飛田給薬師堂がある(飛田給1‐25)。

 本尊は石造瑠璃光薬師如来立像といい、「飛田の原の石薬師」として信仰を集めていた。仙台藩に仕えた医師の松前意仙という人物が貞享三(1686)年に彫刻して安置したものである。意仙は仏道を志し、諸国遍歴の末、この土地を生涯の地と定めて庵を結び、医業のかたわら人々の救済を願って石の薬師像を刻んだ。そして、像の完成後、元禄十五(1702)年、薬師像の傍らに自ら穴を掘り、村人に「鉦の音の止んだ時が我が命の尽きた時である」と言い残して、穴の中に入って鉦を叩きながらお経を唱え続け、そのまま入滅した。意仙の成仏後、村人たちがその遺徳を称えて行人塚を築き、また弘化四(1847)年にはお堂を建て、それまで野外にあった薬師像を奉安したという。行人塚は昭和四十七年の改修の際、専門家により内部が調査され、遺骨の存在が確認されている。座禅を組んだまま白骨化していたそうだ。

(行人塚)

(薬師堂境内には近隣から集められたと思われる庚申塔や馬頭観音がある)

 嘉陵が通った時は露座の薬師があり、すでに行人塚もあったはずだが、嘉陵は何も書いていない。

 この薬師堂の角を左折して、すぐ右折し西へ伸びる道は「品川街道」などと呼ばれているが、この場所から西では初期の甲州街道であるとも考えられている。その証拠に日本橋から七里目(約28km)の一里塚(常久一里塚)はこの古道沿いにある。ただ、この道は六所宮の随神門前を通っており、つまり神社の境内を横切っているため、府中の宿場が整備できず、そこで神社の北側を通る新たな街道を開いたのだと思われる。薬師堂前が旧道と新道の切り替え地点となったのだろう。

 

 薬師堂から旧甲州街道を250メートルほど行くと、いよいよ府中市の白糸台に入る。

「これより少し行くと下染屋(府中市白糸台)・上染屋に至る。この辺りには原がある。江戸からここまでの間は、道からは林が見えるだけで眺望できるような所はないのだが、ここに至って初めて景色が広がり、遠くに山容の美しさを見ることができる。南には大山が見え、そこから山々が連綿として続き富士の根を遮りそばだっている。西北をかえりみれば、八王子、子の権現(埼玉県飯能市)、秩父、武甲の諸山が見える。
 ここから富士の裾野の山々を見ると、山に皺のあるのが見える。そのことによって、富士に少しは近づいたことを知ることができる。秩父諸山についてはなおさらのことである。その他は江戸で見るよりは山が高くそびえ、富士は江戸で見るのに比べれば根方の山に裾を遮られてしまい、五、六合目までしか見ることができない。玉川、向山も間近に見渡されて、眺めはことに美しい。
 傍らにある民家の軒先を借りて、ここの風景を写す。今日は昼前から北西の風が吹いて、寒さに耐えられず、手が凍えて、筆をとることができないほどであったが、ようやく図の体をなすことができたので、絵を懐に入れて、歌を詠もうとしたけれども、どうしても図と同じ題にしかならないのであきらめた」

 府中市白糸台には下染屋村と上染屋村があり、その間に車返村があった。現在の町名の白糸台はいかにも新しい地名に思えるが、車返村の古称が白糸村だったという。いずれも古代からの製糸や染め物に由来する地名なのだろう。車返については後で書く。

 下染屋の中心は今の白糸台三丁目あたりであったようだ。この付近の村もみな多摩川沿いの低地に形成され、水害や街道の整備などによって台地上に移ってきた。

 嘉陵によれば、ここまで広々とした眺めのなかった甲州街道が、ここでようやく眺望が開け、大山から続く丹沢山地、奥多摩、秩父の山並みが連なり、その向こうに真っ白な富士山がそびえていた。それは今でも都内の少し高いビルなどから眺められる風景であるが、この付近の甲州街道からは今はほとんど見えない。わずかに南へ向かう道路の先に多摩丘陵(向山)が見えるだけである。

(旧甲州街道と交差する白糸台通りの彼方にかすかに見える向山=多摩丘陵)

 街道の北側に神明山観音院金剛寺(天台宗)と下染屋の鎮守だった神明社が並んでいる。どちらも創建年代は不詳。

(観音院門前の石仏群)

(下染屋神明社)

 さらに行くと、旧車返村に入る。白糸台二・四・五丁目あたりが概ね昔の村域にあたるらしい。ここにある京王線武蔵野台駅も昭和三十四年までは車返駅であった。

 この車返の地名の由来には次のような伝承がある。源頼朝が奥州藤原氏を討伐し、平泉から鎌倉へ凱旋する際、藤原秀衡の持仏であった薬師如来像を畠山重忠に命じて鎌倉まで運ばせた。しかし、その途次、この地で野営した時に薬師如来の夢告があり、そこに草庵を結んで薬師像を安置し、移送用の車をもとへ返したので、この付近の土地に車返という地名がついたというのである。真実かどうかは分からない。『新編武蔵風土記稿』ではそのような地名伝承にはまったく触れていないので、信憑性はないと判断されたのかもしれない。その薬師堂はその後、当地に来住した宮崎泰重という人物によって天正二(1574)年、府中崖線沿いの白糸台5‐20に再興され、この時から八幡山本願寺と称するようになり、徳川幕府から十一石四斗の朱印地を賜って、同時に葵の御紋の使用も許されている。ただ、本願寺の薬師如来は江戸時代のものとされている。

 旧車返村の領域は下染屋の東側(今の白糸台六丁目)にもあったようで、この付近の村は領域が複雑に入り組んでいた。車返の名は今は団地名などに残されている。

 やがて、西武多摩川線の踏切を渡る。東京都内では珍しい単線である。甲州街道をずっと歩いてきて、新宿以来、初めて渡る踏切でもある。踏切の南にあるのは白糸台駅。

 現代の甲州街道、国道20号線はこの北方で線路を陸橋で越えている。車返跨線橋というそうだ。

 踏切の脇に庚申塔。

 踏切を過ぎて、少し行くと白糸台一丁目。昔の上染屋村である。この村も成立当初は多摩川沿いの低地にあった。

 まもなく「不動尊前」交差点があり、左手に染屋不動尊がある(白糸台1‐11)。元は本山派修験の玉蔵院という寺で、上染屋八幡神社(白糸台1‐42)の別当寺であったが、明治になって廃寺となり、現在は本尊だった不動明王を奉安する上染屋不動堂だけがある。

(上染屋不動堂)

 そして、その境内には宝物殿があり、通常非公開の阿弥陀如来像が一体安置されている。これは神仏習合時代、上染屋八幡神社の本地仏だったもので、像の背面の銘文には上州八幡庄、弘長元(1261)年の文字が残されている。この仏像は鎌倉攻めに向かう新田義貞軍の陣中守護として新田一族の上州里見氏が奉戴し、鎌倉幕府を打倒して建武中興を成し遂げた後、当地に建立された神社に神仏習合の本地仏として奉安された。正平十一(1356)年に武蔵守新田義宗(新田義貞の子)が社殿を再建するが、承応二(1653)年の多摩川洪水で社地が流失し、村の移転と同時に現在地に遷座したという。阿弥陀像は明治の神仏分離、廃仏毀釈の流れの中で売り払われ、一時は行方不明となるが、徳川宗家第16代当主・徳川家達(いえさと、1863‐1940)の手に渡り、上染屋に戻された。昭和三年に旧国宝に指定され、現在は国指定重要文化財。

(銅造阿弥陀如来立像を安置する宝物殿)

(大國魂神社境内のふるさと府中歴史館にあった阿弥陀像の写真の写真)

 上染屋八幡神社は不動尊前から250メートルほど西へ行き、浅間山通りとの「白糸台一丁目」交差点の手前に参道入口がある。ここから北へ200メートルほど行き、国道を渡ったところにある。

 社伝によると、正慶二(1333)年に上野国(今の群馬県)碓氷郡八幡庄より武蔵国府に遷座したという。「国府に遷座」というのは、この付近まで国府の領域が及んでいたことを意味するようだ。初めは多摩川低地に創建され、洪水による流失を経て現在地に移転というのはすでに触れた通り。

 八幡神社前の国道には「日本橋から28km」の標示がある。府中まであと2キロぐらいのはずだ。今日は自宅から2キロほど歩いて下高井戸で甲州街道に出て、そこからずっと歩いてきたわけだが、歩き始めた頃のことを思い返すと、ずいぶん遠い道のりを来たものだと思う。現在の時刻は14時を過ぎたところ。下高井戸をスタートしたのが9時過ぎだった。ただ歩くだけなら、13時前には府中に辿り着けたと思うが、あちこちで寄り道をしているので、予想以上に時間がかかった。電車ならあっという間の区間であるのに、けっこうな旅をした気分になる。安上がりな旅であるが、そのわりには面白い。

 

 つづく

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