羅臼脱出記

 さて、3月11日。車は国道を標津へ向かって走っていた。隣でハンドルを握っているのは40代ぐらいの網走で水産関係の仕事をしているという人。
 バスで建根別方面へ向かうというFさんと別れ、僕はひとり羅臼の宿を出発し、街はずれで手を上げたら一台目で停まってくれ、僕が行き先を告げるより先に、
「標津まででしょ。いいよ」
 といって乗せてくれたのだ。
 助手席で昨日船に乗ったことなど話すと、話題は流氷のことに及んだ。
「『流氷』って唄があるんだよ。しょうもない唄だけど…」
 彼はカセットテープを取り出してカーステレオにセットした。誰の唄だったか忘れたけれど、いかにもよくありがちな演歌が流れ出す。いい唄ですね、などとお世辞を言っても仕方がないので黙って聞いていると、
「知らんでしょ。全然ヒットしなかったから…」
 と言う。それでも網走あたりではカラオケでよく歌われているのだそうだ。
「だけど、やっぱり6月か7月の方が好きだな…」
 彼は網走付近の海岸に美しい花が咲き乱れる季節のことを語ってくれた。この土地に住む人なら、雪と氷の冬より緑輝く爽やかな夏の方がいいに決まっている。流氷なんかを有り難がるのは、よそから来た旅行者だけだ。冬の北国を旅していると、なんでわざわざ冬に来たのか、と地元の人によく聞かれる。

 それから話は羅臼のことに移って、僕が
「エレベーター付きの家もあるそうですね」
 と言うと、
「ああ、それは有名な話だよ」
 と笑った。とにかく羅臼は物価の高いところで、スナックなどでも女性がみんな札幌あたりから来ているため、とても高いのだそうだ。
 そのほか、漁業に関しても色々と聞くことができた。具体的な数字をあげてかなり詳しく教えてくれたのだけれど、残念ながらほとんど忘れてしまった。ただ、スケソウダラの水揚げの様子を見て、あんなに獲りまくっていたら、そのうちかつてのニシンの二の舞になりかねないのではないか、と思って、その辺を尋ねると、やはりその心配がないわけではない、という。長期の展望よりも目先の利益を優先、というのが実情らしい。羅臼の漁業がどうなっていくのか、ちょっと興味がある(その後、羅臼のスケソウダラの水揚げは激減し、スケソウ目当てで羅臼に集結していたワシたちも各地に散らばって越冬するようになったそうです)。

 ほかにも吹雪の時は衝突覚悟で道路の真ん中寄りを走るという話や釧路の美味しいラーメン屋のことなど聞かせてもらううちに標津の市街に入った。

 根室標津の駅前で降ろしてもらうと、11時半頃で、次の列車までは1時間ほどあった。それで、駅に近い「北方領土館」に行ってみたが、休館日で入れず、建物の裏手から根室海峡国後島を眺めて、あとは駅の待合室で新聞を読んで過ごす。
 青函トンネルの本坑が開通したそうで、北海道民にとっては大ニュースのはずだが、「地底に歓喜、地上に難題」の見出し。新幹線が盛岡までしか来ていないので、「利用法なお不透明」ということなのだ。埋めてしまえ、という暴論まであるらしい。僕としては青函連絡船の運命が気になる。

 根室標津12時35分発のディーゼルカー標津線の終点・標茶に着くと、網走からの列車に連結されて、そのまま釧路まで直通する。
 曇り空の釧路湿原を南へ下る列車が茅沼という駅に着くと、雪原に丹頂鶴が2羽来ていた。

 釧路到着15時25分。今日は完全な移動日になってしまって、あとは釧路のユースホステルに行くばかりなのだが、まだ早いので、和商市場を冷やかしたり、デパートの中の書店に立ち寄ったりして、釧路という街の空気に触れてみた。