江戸の侍・村尾嘉陵(1760‐1841)が文化九年一月十七日(1812年3月1日)に友人たちと府中の六所宮(大國魂神社)に参詣した道を辿った話の続き。
調布市西つつじヶ丘(昔の多摩郡金子村)の「くら寿司」で早めの昼食休憩をとり、正午頃、再び歩き出す。夜が明ける前に江戸を出発した嘉陵たちは府中で六所宮に参拝した後で昼食をとっている。こちらは9時過ぎに下高井戸から歩きだして、府中まではまだ9キロ近くある。
すぐに菊野台に入る。昔の金子村のうち下金子といった地域で、そこに妙円地蔵がある(菊野台1‐32)。

調布市教育委員会による説明板。
「妙円は、若くして金子村(菊野台)の新助に嫁いだが、恵まれない境遇の上に両眼を失明した。 その後、自ら悟るところがあって尼になり、寿量妙円と号した。 そして、村人のために毎日路傍で鉦をたたき、念仏を唱え続け、多くの人びとから受けた浄財をもとに文化二年(一八〇五)この地に悲願の地蔵菩薩像を建立した。 その後も妙円は菩薩像のそばで念仏三昧の日々をおくり、村人に頼まれては加持祈禱を行った。 それは必ず効験があったと言い伝えられている。
妙円は、自分の死ぬ日を予告していたが、実際には一日遅れて文化十四年(一八一七)十月二十九日、安らかな往生をとげたという。 このことは、瀧澤馬琴がその著「玄同放言」に紹介したため、一躍江戸近在にまで有名になった。
妙円の墓は深大寺の三昧所にあり、鉦は調布市郷土博物館に保管されている。 また、この地蔵菩薩像は長い間頭部を欠損していたが、昭和六十二年六月、地元の有志たちによって修復された」
台石に「金子村 願主 妙圓」と刻まれている。嘉陵がここを通った時、すでに地蔵尊は建立されていて、妙円尼もまだ健在だった。道端で鉦を叩きながら念仏を唱えていたのだろうか。ちなみに妙円尼の享年は五十九歳とか六十五歳とか諸説ある。
滝沢馬琴(1767‐1848)から妙円尼の話を聞いた渡辺崋山(1793‐1841)は実際に現地に赴き、妙円地蔵周辺の風景を写生したものが馬琴の『玄同放言』に挿絵として載っている。当時の甲州街道の風景を描いた貴重なものといえる(画面右に妙円地蔵)。
(渡辺崋山画「金子村妙圓常念佛遺址眞景」、高橋源一郎『武蔵野歴史地理』昭和3年に採録)
妙円地蔵を過ぎて、少し行くと「柴崎駅入口」信号の角にまた地蔵尊があり、「深大寺案内地蔵」の札が立っている(菊野台1‐46)。だいぶ傷んでいるが、宝暦年間(1751‐63)のものであるようだ。

ここから北へ入るのが佐須街道と呼ばれる道で、深大寺方面に通じている。
さらに500メートル行くと野川に架かる馬橋である。間橋と表記したり、大橋と呼んだりもしたらしい。そばに立場茶屋もあったようだ。

かつては馬橋を渡ってすぐに野川の分流に架かる小橋があり、そのそばに馬捨て場があったという。嘉陵がここを通った後のことだが、文政七(1824)年には馬の供養のために馬頭観音像が建立され、現在は道路拡幅のためにこの先の常性寺に移されている。

調布警察署前を過ぎると、再び国道20号線から旧甲州街道が左に分かれる。まもなく国領駅前である。国領は古代から中世にかけて武蔵国府の国衙領が置かれていたことに由来すると言われている。
このあたりから高井戸宿の次の宿場であった布田五宿で、国領、下布田、上布田、下石原、上石原の五つの集落が六日ずつ交代で宿場の役目を担っていた。甲州道中は参勤交代で利用する大名が信州の三藩(諏訪・高遠・飯田)しかなく、通行量も東海道に比べるとずっと少ない閑散路線で、宿場は負担ばかり大きく、実入りが乏しかったので、このような形になったようだ。国領宿から上石原宿まで3キロ余りで、五宿全体で旅籠は9軒、本陣や脇本陣もなかった。
高層マンションのそびえる国領駅前を過ぎると、左手のお堂の中に風化した庚申塔がある(国領町1‐41)。寛政十(1798)年建立。

この庚申堂付近で甲州街道は右へカーブする。上高井戸宿付近からここまで南西方向へ進んできた道が、ここからは府中まで北西方向に進んでいく。高井戸からまっすぐ西へ向かえば府中付近に到達するのに、あえて南へ迂回するルートとなっているわけだ。なぜ遠回りをしているのか。高井戸と府中の間に宿場を設ける必要があり、水の便が悪く人口希薄な地域を避けて、古くから人が暮らしていた国領や布田を経由するルートを選んだというのが有力な説であるようだ。

布田駅前まで来ると、右手に医王山長楽院常性寺(国領町1‐2‐8)。真言宗豊山派の寺院である。創建年代は不詳ながら、当初は多摩川沿いにあったと伝えられる。これはこの付近の集落にも共通することだが、いずれも元は多摩川沿いに成立し、多摩川の水害を避けるなどの理由で、北へ移動し、江戸初期には甲州街道沿いに移転してきたようだ。常性寺も集落と共に甲州街道沿いに移転したのだろう。

境内には成田山新勝寺の不動尊の分身だという不動明王が奉安され、調布不動尊として信仰を集めている。また、すでに触れた野川の小橋にあった馬頭観音が境内にある。尊像を刻んだ馬頭観音塔は調布市内では珍しいものだという。
(文政七年造立の小橋馬頭観音塔。甲州街道沿いの多くの村々の人々によって建立された)
「そこから下布多、上布多などを過ぎて、布多の天神(調布市調布ヶ丘一丁目)に着く。今日はお参りをせずに通り過ぎる。布多はその昔、調(税)のための布を作った里だと好事家は言うが、これは「布多」という文字にこじつけたのではないかと思う」(現代語訳:阿部孝嗣、注釈:朝倉治彦)
布田駅を過ぎるあたりから下布田宿(布田2・3・6丁目ほか)となり、調布駅に近い上布田宿(布田1・4・5丁目ほか)が続く。

下布田の街道左側(布田2‐34‐3)には日蓮宗の惺誉山蓮慶寺がある。戦国時代に布田郷を領していた小田原北条氏の家臣、中将(中條)出羽守が昔からこの地にあった真言宗閻魔寺を天文元(1532)年に日蓮宗に改宗し、創建したと伝わる。開山は池上本門寺第十二世佛乗院日惺聖人。慶安三(1649)年に幕府より十石九斗の御朱印地を拝領し、朱塗りの山門(赤門)を許されていた。赤門の一部が境内に保存されている。

(蓮慶寺赤門の遺構)
そして、調布駅北口の手前から北へ伸びるのが布多天神社への参道である。嘉陵が布田を「布多」と表記しているが、古くは布多と書き、天神社の名称も布多天神である。創建年代不詳ながら、平安時代の延喜式神名帳に記載され、千年を超える歴史を持つ古社である。布田(布多)という地名もその頃からあった。

(長谷川雪旦画『江戸名所図会』より「布多天神社」)
もとは多摩川の低地を見下ろす府中崖線沿いにあったが、文明九(1477)年に多摩川の洪水を避けて、現在地に遷座。この時に古来の祭神・少彦名命に加えて菅原道真も祀るようになったという。旧地は今は古天神公園(布田5‐52)となっている。
甲州街道から伸びる参道は300メートルほどあり、嘉陵たちはここも素通りしているが、せっかくなので参拝。参道は賑やかで、ゲゲゲの鬼太郎のキャラクターがあちこちにいて、鬼太郎茶屋もある。国道20号線の信号を渡り、天神様を拝んできた。


嘉陵は布多が布を作った里だというのはこじつけではないかと書くが、この地方で古くから布の生産が盛んであったのは確かであるようだ。
『万葉集』巻十四にも東歌として次の一首があり、布多天神社境内の「松寿軒筆子中の布多天神社由来碑」(1846年)でも紹介されている。
「多摩川に さらす手づくり さらさらに 何そこの児の ここだ愛(かな)しき」
(意味)多摩川にさらさらとさらす手作り(布)のように、どうしてこの娘はこんなに愛らしいのだろう。
多摩川流域では渡来人のもたらした技術により製糸と織物が盛んになり、布が調(貢納物)として都へ納められたが、織った布を多摩川の清流にさらし、槌で叩いて柔軟にし光沢を出す工程(この作業に使う道具が砧)が必要だった。古代から「みつぎの布」を多摩川にさらす暮らしを続けてきたこの土地ならではの一首である。府中市から調布市、世田谷区にかけて、こうした歴史にちなんだ地名が多い。染屋、白糸台、布田、調布、染地、砧など。ただし、調布は地名としては明治二十二(1889)年の町村制施行により布田五宿と周辺の村々が合併して誕生した調布町で初めて使われた近代地名である(世田谷区の砧も同じ)。

さて、調布駅北口を過ぎて、さらに街道を行く。ここから小島町に入る。昔の布田小島分村で、上布田と下石原に挟まれ、正式な宿場ではなかったが、上布田宿の役割の一部を分担していた。
小島には日本橋から六里目(約24km)の一里塚があり(小島町1‐17)、今は駐車場の敷地内に石碑があるのみだが、行き交うクルマやバスに視界を遮られたせいか、見過ごしてしまった。ということで、調布市のホームページから。
府中まであと6キロぐらいか。
つづく

