村尾嘉陵「代々木村八幡宮道の枝折」を辿る(その1)

 今から二百年ほど前、江戸近郊の散策記録を後世に残した侍・村尾正靖(号は嘉陵、1760-1841)の紀行を辿るシリーズの第二弾。いつの間にかシリーズ化しているが、それぐらい面白い。ただ、日帰りなのに、ものすごい距離を歩くので、その足跡を実際に辿るのはなかなか大変でもあるのだが、今回はそれほど遠出はしていない。

 天保二年八月八日(1831年9月13日)のことだから、嘉陵はもう数え年の七十二歳である。彼は当時住んでいた三番町の自宅(今の千代田区九段南三丁目の靖国通り沿い)から代々木八幡宮に詣でている。出かけたのは、その日の午後のことだったようだ。

 村尾嘉陵の紀行はもともとは個人的な記録で、当時は刊行されていないものが後世になってから出版され、広く知られるようになった。そうでなければ、村尾嘉陵も全くの無名の侍に過ぎなかったわけだ。

 現在、出回っているものには、ほぼ完全版に近い平凡社東洋文庫版の『江戸近郊道しるべ』(朝倉治彦編注)と、これをもとに現代語訳した講談社学術文庫版(阿部孝嗣訳)があり、こちらは抄訳で、嘉陵が描いた絵や地図なども大部分が割愛されている。

 さて、原文と現代語訳の双方を入手して、現代の道路地図帳と照らし合わせながら、嘉陵の歩いた道を探るのはなかなか楽しい作業であるが、嘉陵がどこを歩いたのか、さっぱり分からないというケースもある。その代表例が今回の代々木八幡へ行った話である。現代語訳で見てみよう。

天保二年(一八三一)辛卯陰暦八月八日、嘉陵七十二歳。西郊を楽しもうと代々木村八幡宮(渋谷区代々木五丁目)に詣でた。
 その行程は、四谷新町(新宿区四谷二、三丁目)の天満宮のある宮居の傍を通り、上水に架かっている橋を渡り、少し下っていくと、四、五丁で四つ辻に制札が立っている所に出る。ここが代々木村である。
 この四つ辻を北に行くと井伊掃部頭殿の屋敷前を通って、千駄ヶ谷に通じる道である。ここを南に行く」

 カッコ内は編注者の朝倉氏によるもので、東洋文庫版では天満宮のあとに(不明)となっている。また、この井伊掃部頭(かもんのかみ)の屋敷について、現代語訳では文末に今のホテルニューオータニの敷地にあった旨が注釈として付記されている。

 ここまでを読んで、現代の地図で嘉陵の歩いた道筋を辿ることができる人は恐らくいないと思う。僕はまったく分からなかった。魏志倭人伝の記述をもとに邪馬台国の位置を探るのより難しいかもしれない。邪馬台国と違って、代々木八幡の場所だけは分かっているわけだが、そこへたどり着けないのだ。

 とにかく、まずは手元の1万分の1の道路地図帳で四谷二、三丁目の天満宮を探すが、これが見当たらない。この一帯にはお寺も神社もたくさんあるが、天満宮や天神社などは出ていない。少し範囲を広げると、西向天神社があるが、まるで方向違いである。

 それで、この代々木八幡参詣の話はよく分からないまま、ただ読んだだけで済ましていたのだが、その後、たまたま代々木八幡のそばを通ったので参拝したら、そこで大きなヒントが得られた。

 境内に菅原道真の歌碑があり、天神社が合祀されているのである。そして、そばに立つ説明板に「新町三番地(現在の文化学園の西)にあった銀杏天神社」が明治三十三年に合祀されたとあるではないか。明治初期の地図で南豊島郡角筈村字新町という地名があるあたりに「天満宮」があったのだ。実は『江戸近郊道しるべ』を読んでいると、その注釈には誤りが散見されることにはだいぶ前から気づいていたが、嘉陵のいう「四谷新町」が今の四谷二、三丁目というのも誤りであったことが判明し、これで大方の謎は解けた。

 かつては四谷を過ぎれば、もはや江戸の郊外であり、田舎であったが、甲州街道の最初の宿場が高井戸宿では遠すぎるというので、元禄年間に内藤新宿が開設され、新しい町が発展した。それが今の新宿であり、嘉陵は今の新宿一帯を「四谷新町」と認識していたということかもしれない。内藤新宿は一時、風紀の取締りの目的で廃止され、五十数年ぶりに再開されたのは嘉陵の少年時代であったから、彼にとっては新しい町であったのだろう。

 さて、天満宮の場所が分かれば、注釈にある井伊掃部頭の屋敷が今のホテルニューオオタニの場所であるというのも誤りであることがハッキリする。幕府の重臣であった井伊家の屋敷は現在の国会議事堂前の憲政記念館の敷地に上屋敷があり、ホテルニューオオタニの場所に中屋敷があり、明治神宮の場所に下屋敷があった。嘉陵が書く「井伊掃部頭殿の屋敷」とは今の明治神宮である下屋敷のことであった。ここまで分かれば、現代の地図でも嘉陵の歩いた道筋が浮かび上がってくる。

 ということで、実際に行ってみた。高層ビルが立ち並ぶ西新宿の南端を通る甲州街道沿いに箒を逆さにして立てたような銀杏の木がそびえ、「箒銀杏」と呼ばれている。甲州街道の南側で現在の所在地は渋谷区代々木3-23-3である。旧角筈村の新町は甲州街道の北側であるが、銀杏の木がある南側も旧代々木村字新町であった。

 ここにあった天満宮と祭神・菅原道真の歌碑は代々木八幡に合祀されたが、今も「天満宮」の額が掛かる鳥居と石祠などがある。今は狭い敷地だが、かつては境内が127坪あったという。甲州街道の拡張などで削られたのだろう。とにかく、江戸城下・三番町の自宅を出た嘉陵は甲州街道を歩いてきて、ここで左へ曲ったのである。

 ちなみに箒銀杏は樹齢300年ほどだというから、嘉陵もこの銀杏を見ているはずである。当時は樹齢百年ほどだったか。今はビルに囲まれているが、当時はランドマークにもなっていただろう。

 すぐに天神橋跡がある。ここを玉川上水が流れていたわけだ。今は暗渠化され、遊歩道になっている。

 ゆるやかな起伏とカーブのある道を行くと、嘉陵によれば、四、五丁で四つ辻に出る。1丁は109メートルなので、500メートルほどか。そのぐらい行くと、四つ辻があり、高札場があったようである。今は小田急線の切通しの線路があり、道はその上を天王橋で渡っていて、道路の形状も変わっていると思われる。

 線路の手前の私有地内には大山道の道標がある。正面には大天狗、小天狗の面が上部に彫られ、その下に「大山石尊大權現」の文字。右側面には「右 相州大山 北澤淡嶋 道」と刻まれ、左側面には「左 目黒不動尊 同祐天寺道」とある。甲州街道を来た大山参りの人々は天神橋を渡って、ここまで来て、ここにあった四つ辻を右へ行き、代々木八幡から駒場付近を経て大山道(今の国道246号線)に出たのだろう。ちなみに旧下北沢村の淡島森厳寺はお灸で有名で、江戸市中から多くの人々が詰めかけていた。ただ、この道標は弘化三(1846)年に建てられたものなので、嘉陵の没後である。 

 天王橋の右手には参宮橋が線路を跨いでおり、その先には参宮橋駅がある。小田急線の開通は昭和2年だが、参宮橋はそれ以前から存在した。参宮橋駅渋谷川の支流・宇田川のそのまた支流・河骨川のさらに支流の谷底に位置する駅で、駅の新宿寄りに谷のどん詰まり、つまり谷頭があった。その谷を跨ぐのが参宮橋である。ここに最初に橋ができたのは今の代々木公園に明治四十二年、代々木練兵場が造成された時と思われ、甲州街道と練兵場を結ぶ道路の橋が架けられた。その後、練兵場に隣接して大正九年明治神宮が造営された際に道路は西参道となり、橋は参宮橋となった。その後、その橋の下を通るようになった小田急線に参宮橋駅ができたわけである。

 天王橋から参宮橋を見ると数十メートルしか離れていないが、天王橋は小田急切通しに架かる跨線橋、参宮橋は自然の谷(窪地)に架かる橋という成り立ちの違いがある。二つの橋の間に谷頭があり、湧水源があったと思われる(下写真)。

 とにかく、参宮橋に近い台地上に四つ辻があり、江戸時代には代々木村の高札場となっていたようだ。嘉陵がここを北へ行くと井伊掃部頭殿の屋敷の前を通って千駄ヶ谷へ行くと書いているが、現在も天王橋を渡った先を北(正確には北東~東北東)へ行く道は明治神宮の北側を迂回して千駄ヶ谷方面へ通じている。直進の道はすぐ右へカーブして、ここから南へ伸びる谷の東側を南下していく。そして、嘉陵はここで右折して谷の西側を南下したのである。 

 四つ辻から先はこうだ。

 ここを南に行く。道の両側には木立が茂っており、所々に民家がある。そこを過ぎて少し下って行くと、田圃が広く見渡せる所、畦道の山際の西に出る。そこで働いていた男に道を聞くと、『この畦道を南に行くと、前に八幡宮の木立が見えてくる」と教えてくれる。

 その言葉どおりにしばらく行くが、畦道に生えていた下草を昨日か今日刈ったばかりと見え、小笹や茅の根が切り立っていて、足を傷めるというほどではないが、歩きづらい。この道は農夫が行き交うばかりで、他の通行人はまったく見かけない。この田の左の方が、井伊掃部頭の屋敷に違いない。

 

 現代に戻って、天王橋を渡った突き当りを右折すると、参宮橋の交差点がある。これを越えると、谷底の参宮橋駅前に向かって下り坂になる。嘉陵によれば、道の両側に木立が茂っていたという。

 参宮橋駅の道路際には「陸軍省所轄地」と彫られた境界石が今も立っている。代々木練兵場時代の名残だろう。参宮橋駅付近の小田急線は陸軍の用地内に敷設されたことが分かる。嘉陵には知る由もないことだけれど。

 さて、参宮橋駅前を過ぎ、商店街を行くと、道はさらに下って行く。下りきったところで、河骨川を渡っていた。当時は少し上流側に迂回して、谷の狭い所を渡っていたようだ。参宮橋が架かっているのは河骨川の支谷であり、本流は北西方向から流れてきて、参宮橋駅の南側で合流していた。

(右手の蕎麦屋のすぐ先を横切る道が河骨川の旧河道。電柱にある「春の小川」の案内が目印)

 河骨川の名前の由来は清らかな水で育つスイレン科の植物、コウホネが咲いていたからといい、また、この川は唱歌「春の小川」のモデルであると言われている。そのため、流路跡の電柱に「春の小川」の標識があって、それを追っていけば川跡をずっと辿ることができる。嘉陵が訪れたのは初秋のことであったが、美しい田園風景の中を清らかな水が流れていたのだろう。

 嘉陵も河骨川を渡ったはずだが、何も書いていない。当時としてはありふれた小川で、わざわざ書き留めるほどのことではなかったのだろうか。

 「春の小川」の標識がある道を突っ切ると、再び上り坂である。ここから代々木八幡方面へ行くメインルートはここで台地に上って、あとは台地上を行く。しかし、嘉陵はこの道から左に分かれて、台地の裾の畦道を行ったようである。マルマンというスーパーのある四つ角を左折するのが、嘉陵の歩いたルートに近いようだ。原文では「田の面ひろく見わさるる所の、西の畔の山ぎし」とあるから、田圃が広がる谷戸の西側の縁を行ったことになる。今でいうなら、小田急の線路がかつて田圃だったところを通っており、それを左に見ながら行く。右手は代々木八幡まで続く高台である。そして、線路の向こう側には河骨川の旧河道が続いており、「春の小川」の歌碑もある。そして、かつて田圃だった谷地の向こうには今は明治神宮に隣接する代々木公園の森が連なっている。神宮の森は井伊家の敷地だったが、今の代々木公園の土地は江戸時代には複数の大名や旗本の屋敷があったという。

(線路際の細道が川跡。往時は曲がりくねって流れていたはず)

 嘉陵によると、道端には野生のハギが咲いていたほか、ススキも穂を出し、フジバカマやモジズリ(ネジバナか)、オトコエシなどの秋の花がひっそりと咲き、キリギリスやコオロギの声がしたという。

 さらに行くと、林の奥に民家が三、四戸ほど見える。えび蔓の虫を取っている最中の男に八幡宮を聞くと、「この先にある山の木立がそうだ」と教えてくれた。

 「えび蔓の虫」というのは原文では「かまゑびの蔓の虫」となっている。「えび」とはブドウの古名で、エビヅルはブドウ科のツル植物である。カマエビはその別称。その蔓の中にいる虫(ブドウスカシバという蛾の幼虫)は鳥の餌にしたり、釣りの餌にしたりするという。

 さて、代々木八幡の森が見えるところまでやってきた。このまま道なりに行けば、今は山手通りに面した参道入口に到達するが、嘉陵は手前から山に登り、裏手から境内に入ったようである。

 そこから山径を少し登り、狐や兎が通るようなけもの道を行くと、少し離れた所に人家が見えた。夕餉の仕度をしている煙が立ち昇っているのも、場所がらからか、もの寂しい感じがする。そこから左に山の木の間を登って行く道は、八幡宮の広場に行く山の入口で、前に鳥居が立っている。

 

 獣道のよう山径は今はクルマも通る急坂となっている。当時はキツネやノウサギがいるのが普通だったのだろう。

 坂を上ると、八幡宮へ通じる車道が左へ上っていく。この道を行けば、代々木八幡の拝殿前の広場に出る。嘉陵が通った道と同じではないかもしれないが、嘉陵も裏手からいきなり拝殿の前に出たようだ。

 鎌倉時代の建暦二(1212))年に創建された古社。嘉陵が参詣した時は茅葺で、西向きだったとある。現在、社殿は南西を向いているが、これは変わっていないだろう。

 下の絵はちょうど嘉陵が訪れたのとほぼ同時期に刊行された『江戸名所図会』の代々木八幡。嘉陵は画面右のほうから山裾を歩いてきた。山の下を流れているのが河骨川。手前が宇田川。

 

 社殿にはさまざまな額が掛かっていたようだが、夕暮れと老眼のせいで、ほとんど読めなかったようだ。今も「八幡宮」の扁額の横に額が掛かっているが、文字が消えかかって、何が書かれているのか、よく分からない。人名が多数並んでいるようだが、そんなに古いものではないだろう。

 社殿からまっすぐ伸びる参道の両脇に天明五(1785)年の狛犬があり、これは嘉陵の参拝寺から変わらずにあるものだ。その参道の社殿に向かって左に門があり、「福泉寺庫裡」と書かれている。福泉寺は八幡宮別当だった天台宗の寺である。

 さらにその前の門に入って敷地を見ると、客殿と庫裏が、それぞれ五間、七間の長さで立ち並んでいる。みな茅葺きで、庫裏の端近くの障子を開け放った部屋で、この家の主と老翁とが碁を囲んでいる姿が見える。この他には人ひとりいない。寺の名前はと調べてみると、福泉寺とある。客殿の仏前に経机などがあるのを見ても、ただ一人で勤行を行なっているようである。

 今は門は閉まっているので、参道をさらに進み、左に曲がると寺の門に出る。右に曲がると石段を下って山手通りに出る。これが正式な参道である。

 福泉寺の門前には4基の庚申塔が並び、嘉陵とほぼ同時代のものであるが、当時は村の各所にあったのだろう。

 南門を出ると、その傍らに石地蔵がある。その台の石に「正徳三」と彫ってあるのが読み取れる。 

 福泉寺の門の内側には多数の石仏があり、地蔵尊もいくつかある。正面には近代建築の本堂。

 この中で嘉陵が見た正徳三(1713)年の地蔵を探す。四角形の石組に水を張り、睡蓮を植栽し、金魚が泳ぐ池の中に立つ地蔵(上写真)は台石が半ば水中に没しているが、「正」の字だけ水上に出ている。水中の文字に目を凝らすと、その次は「徳」のようだが、その下は「三」ではなく「元」に見える。正徳元年。ほかにこの時代の地蔵は見当たらないから、嘉陵が見誤ったのだろうと考えることにする。何しろ、嘉陵がこの地蔵を見た時は夕暮れが迫り、しかも視力もいくらか低下していたようなのだ。

 嘉陵はこの後、往路とは別ルートで家路を急ぐ。

 つづく

peepooblue.hatenablog.com