村尾嘉陵「井の頭紀行」を辿る(その2)

 前回の投稿からだいぶ間があいてしまったが、江戸の侍・村尾正靖(嘉陵)が文化十三年九月十五日(1816年11月4日)、井の頭弁才天まで出かけた道筋を辿る話の続き。

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 嘉陵は堀ノ内村(杉並区堀ノ内)にある「厄除け祖師」で有名な妙法寺を参詣した後、次に大宮八幡宮に向かう。

「夫(それ)より寺門を出て、直に南に向て行ば少し小坂あり、下りて田ある所左右詠めよし。ここに水磨ある家あり、林のおくに車の音聞ゆ、田の中道を行はてて縄手をゆく事少しにて、大宮の道の北側に出」

 

 彼は文政九年四月二十八日(1826年6月2日)にも同じ道を歩いている。

「堀の内妙法寺にまふで、それより大宮八幡宮に参拝す。
 その道、妙法寺の門の前の道を南に行、人家二戸ばかりある所のかどより右に横をれて、少し高き所にのぼる心ちにて、又少しくだりゆけば、水車の音聞ゆる所を右に見て田間を行、又山径に入て、一条の馬路に出、この馬みち即八幡宮の大門の通り也、東へゆけば幡ヶ谷より新町へ出ると云、この道凡そ一里ばかりあるべしと土人いへり」

 

 妙法寺門前から南へ向かう道は今も変わらずにあり、参道商店街となっている。

 その商店街のはずれに四つ角がある。ここが「人家が二戸ばかりある所の角」で、左から来る道は鍋屋横丁で妙法寺方面に曲がらずにまっすぐに来た道である。ここで再合流するわけだ。

 ここを右折するのだが、少しだけ寄り道して直進すると、すぐ左手にお堂があり、地蔵尊庚申塔などが集められている。

 江戸時代には堀ノ内村の各地の路傍に祀られていたものを後世に集めて、このお堂に安置したものだろう。古道探索者としては立ち寄る価値はあると思う。

 では、先ほどの四つ角を西へ行く。やがて、道は南へカーブしながら坂を下る。この左手には熊野神社が鎮座しているが、嘉陵は触れていない。

 文永四(1267)年に紀州の熊野三社を勧請したのが始まりで、室町時代北条氏綱が上杉頼興を破り、江戸を攻略した際に社殿を修築したと伝えられる古社で、境内に現存するもので最も古いのは文化五年奉納の石鳥居であるから、ここを嘉陵が通り過ぎた時にはすでに存在していたことになる。これは杉並区内最古の鳥居でもある。

 このあたり左に熊野神社、右に済美教育研究所があり、現在でも比較的緑が多い場所だが、ここで嘉陵は水車の音を聞いている。この地点の西側から南へ回り込むように善福寺川が当時は幾筋かに分かれて流れており、水車が回っていたようだ(杉並区立郷土博物館『杉並の川と橋』によれば、付近の2カ所に水車があったことが分かる)。

 坂の下は善福寺川の氾濫原で、現在は住宅街になっているが、当時は水田が広がっていた。嘉陵は田んぼの中の道を行き、幾筋かの流れを渡ったはずだが、現在は改修され一本化された善福寺川を本村橋で渡る。

(昔の善福寺川は幾筋にも分かれて流れ、周囲には水田や湿地が広がっていた)

 本村橋を渡って、田んぼの広がる風景を想像しながら右へ道なりに行くと、再び上り坂となり、方南通りに出る。その前身が嘉陵のいう「馬道」である。往時は東へ行くと幡ヶ谷で甲州街道に出て、新宿に通じていた。彼がいう「新町」とは新宿(内藤新宿)のことだろう。

 馬の現代版といえる自動車が行き交う方南通りを西へ行くと、すぐにまた旧道が右に分かれる。これが大宮八幡宮の参道である。その右手の建物の陰にひっそりと地蔵尊庚申塔、宝篋印塔がある(見逃しやすいので要注意)。この宝篋印塔について、嘉陵は文政九年の紀行で触れている。

「路の出口北の角に、小高き所あり、古墓杉の木のもとにあるを見る。文字摩滅してよむべからず、かたはらに石地蔵二軀あり、これはのちに建てしものなるべし、そのつづきに民戸あるに入て、何人のしるしにやと問に、昔よりここにありといへども、誰人の墓といふ事を伝へずと語る」

 嘉陵はこの宝篋印塔にとりわけ関心を示し、土地の人に誰の墓なのか尋ねただけでなく、スケッチをして、各部の寸法や各面に刻まれた梵字まで記録している。それがまさにこの宝篋印塔なのだ。

 嘉陵のスケッチと比べれば、同じものだと分かる。

 嘉陵の絵にある欠損部分も同じ。絵にはない石が頂部に乗せてある。

さらに参道を行くと、左手に1本の松がそびえている。

「大宮の道の南側に、大きさ二囲余りの松あり、根より一丈ばかりも上にて、東の方へ曲る事二丈ばかりにて、また直に生たち、梢にのみ枝あり、観殊に奇、土俗伝に八幡殿の鞍懸松と云」

 文政九年の嘉陵によるスケッチ。

 現代の鞍掛松(南側から撮影)。八幡太郎源義家が奥州遠征の途中、この地に立ち寄り、鞍を掛けて休息したとの伝承を持つ松の木で、木そのものは代替わりしているという。嘉陵が見た松と現代の松が同じものかどうかは不明。

 嘉陵が歩き、源義家の軍勢も通ったかもしれない道。

 大宮八幡宮までやってきた。

大宮八幡宮は東に向て立せ給ふ、別当の坊は大門の外、道の北側に在、境内並立る松杉ものふりて、いと神さびたり」

 大宮八幡宮平安時代、奥州征討へ向かう源頼義・義家父子の軍勢がこの地を通りかかった際、白雲が八つ幡のようにたなびく瑞祥をみて、八幡大神の霊威を感じて、勝利を得ることができ、戦役の帰途、康平六(1063)年に源氏の氏神である八幡神をこの地に祀ったのが起源とされる古社である。徳川の歴代将軍も崇敬し、御朱印地三十石を与えられ、大名や武士もこぞって参拝したという。

 嘉陵が参拝した当時、境内には松や杉が多く、とりわけ松の立派さを嘉陵はしきりに称揚している。しかし、時代とともに松や杉は減り、今はクスノキシラカシなどの常緑広葉樹が優勢になっている。

 大宮八幡宮にお参りした後、嘉陵は人見街道に入り、井の頭へ向かっている。

 

 つづく

 

 

春の兆し

 箱根駅伝も終わって、あっというまに正月三が日が過ぎていく。
 新春とはいうけれど、冬本番の寒さはこれからである。それでも、春の兆しが見られないわけではない。

 庭に植えたままのクロッカスやヒヤシンスはもう芽を出している。

 いろいろな花が咲く春が待ち遠しい気がするが、時間ができるだけゆっくりと流れてほしいという気もする。

 昨年の春に買ったベルフラワーはずっと咲いている。年中無休なのか?

 この冬も一度は会いたいルリビタキ

(きょうの1曲)Richard Burmer / Across The View


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謹賀新年

 2023年も地元の神社で迎えた。大晦日の23時半頃に家を出て、オリオン座やシリウスが輝く夜空を見上げながら、神社まで徒歩10分。途中、見かけた人影は4人のみ。コンビニも閉店している。静かな年越し。除夜の鐘が聞こえてくる。

 神社にはすでに数名が列を作っていた。年末にお参りした時は境内に人の姿はなく、ひっそりとしていたが、神様に手を合わせていると、頭上から大きめの鳥2羽が背後に落ちてきた。1羽はドバト。もう1羽は猛禽のツミ。どうやらツミがハトを襲ったが、大きすぎて地面に落下し、おかげでハトは危うく難を逃れて逃げ、狩りに失敗したツミは近くの高木の枝に止まった。そんな数日前の記憶を呼び戻しつつ、きっと昔はこの鎮守の森にフクロウなどもいたのだろう、と鬱蒼と茂る常緑樹の合間に星空を見上げながら、そんなことを考える。

 午前0時。打ち鳴らされる太鼓の合図で初詣が始まる。早めに並んだおかげで、ほどなく神様に新年のご挨拶。参拝者の列には外国人の姿もちらほら。

 新春の舞の奉納も始まる。

 西の空には今年最初の月。旧暦ならまだ12月10日だ。

 朝。テレビの画面越しの初日の出。上空5000メートルのヘリから。

 自宅2階からの初日の出。

 けさは家の前の電線にインコ12羽が待っていた。最初は12羽が一群になっていて壮観だったが、カメラを手に戻ると、ばらけていた。そのうちの5羽。

 スズメも20羽ほど。

 まだ残っているムラサキシキブの実を食べにメジロもやってくる。

(おまけ)豪徳寺・三重塔のうさぎ。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

大晦日

 あっというまに大晦日である。今年最後の日も東京は穏やかな晴天。

 墓参りをして掃除をし、迎春用の花を供える。その帰りに豪徳寺に寄ったら、相変わらず外国人だらけだった。というか、コロナ禍で一時は外国人がほとんどいなくなっていたが、また増えていた。

 境内では初詣に備えて、清掃などの作業が行われていた。

 豪徳寺の猫。本物は初めて見た気がする。と思ったら、2年前に違う猫の写真を豪徳寺で撮っていた。

 帰り道、通りすがりに芸能人、著名人の家ではどんな正月飾りをしているのか、チェック。ごく普通の門松としめ飾りだったり、何もしていなかったり。

 今朝はインコ10羽が飛来。

 今年もたくさんの方々にご訪問いただきまして、ありがとうございました。

 来年もどうぞよろしくお願いいたします。

 皆様、よい新年をお迎えください。

月と木星

 夕方、何気なく空を見上げると、月の上に星がひとつ。カメラを向けて、ズームアップすると、衛星がいくつか見えるので、木星だと分かる。しかし、衛星までは撮れず。

 17時10分頃。

 旧暦十二月七日の月。

 18時50分頃。月と木星の位置関係が変わった。

 3日後にはもう新年だ。

(おまけ)昨日の夕方の富士山。

 日比谷・銀座界隈。

(きょうの1曲)一十三十一/Labyrinth~風の街で~


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村尾嘉陵「井の頭紀行」を辿る(その1)

  江戸時代後期の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)が江戸の郊外のあちこちを歩いて旅した記録『江戸近郊道しるべ』については過去に記事を書いた。

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 村尾正靖は徳川御三卿の清水家に仕えた幕臣で、多忙な日常に追われながらも、江戸近郊の神社仏閣や景勝地などを訪ね歩き、簡潔な文章とメモ、地図、スケッチなどの記録を丹念に残した。当時、これらが出版されることはなく、タイトルすらなかったが、後世に残された自筆本や写本をベースに大正期以降に『嘉陵紀行』、『江戸近郊道しるべ』、『江戸近郊ウォーク』などの書名で出版され、江戸時代の東京とその周辺についての貴重な記録として知られている。本書の魅力は何よりも田園都市とでも呼ぶべき当時の江戸近郊の風景の美しさを知ることができる点にあるが、さらに嘉陵が歩いた道筋を書き残してくれたおかげで、彼の旅のルートを現代でもある程度辿ることができるという点も魅力のひとつといえる。本書は嘉陵が訪ねた場所の「点」の記録ではなく、彼が歩いた「線」の記録なのだ。もちろん、彼が歩いてからおよそ200年の間に江戸・東京は大きく変貌し、彼が目にした風景はすっかり失われてしまった。それでも、200年前の侍が歩いた同じ道を自分も歩いてみたいという気持ちにはなる。

 ということで、手始めに彼が江戸から井の頭弁天に詣でた足跡を辿ってみよう。

 

 文化十三年九月十五日(1816年11月4日)、56歳の嘉陵は当時住んでいた浜町にある清水家の賜舎を巳の刻(午前10時)過ぎに出て、「市谷御門を出、尾張殿御やしき前より自性院前通りを過、三光院いなり前より行々て、左へ折て成子通りへ出、中野より又左に折て、堀の内妙法寺に参る、ここにて午の半過る頃と云」と書いている。ここまで簡単にルートを示すのみで、風景などの描写は何もない。彼にとっては歩きなれた道で、改めて書くことはなかったのだろう。

 

 嘉陵は市ヶ谷見附で江戸城下をあとに、尾張殿の上屋敷の前を行く。これは明治以降は陸軍士官学校となり、現在は防衛省などの敷地となっている場所で、嘉陵は今の靖国通りを行ったことが分かる。四ツ谷甲州街道に入るより新宿への近道だったからだろう。

 いま、高台にそびえる防衛省のビルは物々しいが、その近寄りがたい印象は徳川御三家尾張上屋敷の時代から変わらないだろうか。

 「自性院」は正しくは自證院で、新宿区富久町にある。正式には鎮護山圓融寺自證院。尾張家の徳川光友正室、千代姫の生母・お振の方を供養するため寛永十七(1640)年に創建された寺院で、院号もお振の方の法名に因んでいる。当初は日蓮宗だったが、不受不施派日蓮宗法華経を信仰しない者からは施しを受けず、また施しを与えもしないという一派。政権に対しても妥協せず、禁圧の対象となった)に対する幕府による弾圧で寛文五(1665)年、天台宗に改宗させられている。それでも、尾張家に縁の深い寺院で、広大な寺領に諸堂宇が立ち並んでいたので、嘉陵が歩いた当時も存在感はあったのだろう。

 明治になって寺領の大半が国に没収されたものの、残された境内には老樹が多く、門前に居を構えた小泉八雲が散策を楽しんだという。しかし、寺の経済的困窮により、それらの木々も伐採され、宅地化されるなどして、現在は寺域も大幅に縮小して、靖国通りからは奥まった坂の上にこじんまりとある。

 さて、次の目印は「三光院いなり」であるが、現在の新宿の総鎮守・花園神社である。

 徳川家康が江戸に入る前からあったと伝わるが、詳しい創建年代などは不明。当初は現在地より250メートルほど南(現在の伊勢丹付近)にあったのが、江戸初期にその地を旗本の朝倉筑後守が拝領し、神社がその屋敷内に囲い込まれてしまったため、氏子の請願により現在地に移転したとのこと。新しい社地は尾張下屋敷の庭園の一部で、花が咲き乱れていたことが花園神社の名称の由来であるという。ただし、当時は真義真言宗豊山派・愛染院の別院・三光院(明治初年の神仏分離で廃寺)が別当寺となっていたことから三光院稲荷と呼ばれていたわけだ。

 ここまで嘉陵が尾張殿屋敷、自證院、三光院稲荷といずれも尾張家に縁のある場所を経由地として書き記しているのは偶然だろうか。

 

 さて、村尾嘉陵が簡潔に済ませているところをだらだらと書き連ねてしまったが、実は市ヶ谷から新宿までは別の機会に歩いたもので、新宿から井の頭までが今回の徒歩紀行である。

 嘉陵が歩いてきた今でいう靖国通りはJR新宿駅の北側で大ガードをくぐり、そのまま青梅街道に直結している。嘉陵がいう「成子通り」は青梅街道のことである。しかし、当時は花園神社(三光院稲荷)を過ぎると、南に折れ、今の新宿駅東口前で青梅街道に合流し、そこから西に向かっていた。今は線路をくぐる半地下の歩道があり、その入口に旧青梅街道の碑が立ち、そばに説明板などがある。

 当時はもちろん鉄道などなく、このあたりはもう内藤新宿のはずれに近かっただろう。日本で最初の鉄道が新橋~横浜間に開通するのは嘉陵の没後31年目のことである。ひたすら歩いていた嘉陵はそのような時代の到来を想像できただろうか。ちなみに新宿に最初の鉄道が通るのは明治十八(1885)年のことで、当初の旅客列車は新橋~品川~新宿~赤羽間に客車2両の汽車が1日3往復走るだけだった(すぐに4往復に増便)。新宿駅の利用者も1日数十人に過ぎなかったという。

 とにかく、我々は今や乗降客数世界一となった巨大駅の線路の下をくぐり、小田急ハルクの裏の道を行く。これが旧青梅街道の道筋で、嘉陵が歩いた道である。当時、この道筋の北側(ちょうど線路が通っている辺りか)に西方寺という浄土宗の寺があったが、大正9年に道路拡張のため今の杉並区梅里に移転している。

 ハルク裏の通りを抜けると、高層ビル群を見上げながら、現代の青梅街道に入る。このあたりは江戸時代の人には想像を絶するような風景の連続であるが、逆に現代人が江戸時代の新宿の風景を思い描くのも難しい。

 平安時代から続く成子天神を過ぎ、成子坂を下る。このあたりは江戸時代にはマクワウリの特産地としても知られていたそうだ。ということは、街道沿いには商家などが並んでいたとしても、その背後には畑が広がっていたのだろう。

 坂を下れば、淀橋で神田川を渡り、中野区に入る。嘉陵がめざしている井の頭の池を水源とする川である。

 淀橋を渡り、上り坂の途中で右上の高台に稲荷社を見て、坂を上り切ったところが中野坂上。さらに行くと、右手に真言宗豊山派宝仙寺がある。中野を代表する古刹で、寺伝によれば、寛治年間(1087-93)に八幡太郎源義家によって阿佐ヶ谷に創建され、大宮八幡宮別当寺となったという。その後、室町時代に中野の現在地に移転。徳川幕府の保護を受け、寺は発展し、将軍の鷹狩の際の休息所としても利用されたという。

 嘉陵は宝仙寺には触れていないから素通りだったのだろうか。

 

 まもなく鍋屋横丁の交差点。嘉陵が「中野より又左に折て」と書いているのがここである。

 ここで左折して南へ入るのが鍋屋横丁。交差点の南東角に由来碑がある。古くから北の新井薬師、南の堀之内妙法寺へ通じる道が分かれていた場所で、元禄年間に妙法寺が「厄除け祖師」として有名になり、日蓮宗の信者だけでない多くの参詣者で賑わうようになると、この横丁にも商家や料亭が軒を連ねるようになり、なかでもこの角地にあった休み茶屋「鍋屋」が繁盛したため、鍋屋横丁の名がついたとのこと。鍋屋は名物の草餅とともに庭にある二百数十本の梅林で知られ、花の時期には参詣客や文人墨客が多く訪れたという。嘉陵がここを通ったのは秋のことであったが。

 また、ここには「是より堀ノ内十八丁十間」と刻まれた道標があったというが、建てられたのは明治十一年なので、嘉陵は見ていない。この道標は平成十四年に妙法寺へ移されている。ただ、それ以前にも道標を兼ねた「南無妙法蓮華経」の題目塔があったようなので、それは目にしているだろう。とにかく、ここから十八丁十間ということは約2キロで妙法寺である。

 鍋屋横丁を南下して最初の信号を右折する。これが妙法寺への参詣道である。曲がらずに直進するのも古道で、大宮八幡宮を経て武蔵国府(府中)に通じている。井の頭へ直行するなら、こちらの方が早い。平安時代に奥州征討に向かう源義家の軍勢が通った道筋とも言われている。

 その妙法寺への曲がり角の近くにも道標を兼ねた題目塔がある。享保三(1718)年建立なので、嘉陵の時代には既に存在していた。

 ここから西へ行く。ようやく旧道らしい雰囲気が出てきた。

 ゆるやかなカーブを描きながら続く道。やがて左側が杉並区和田となって、中野・杉並区境の道となり、まもなく杉並区に入る。すぐに下り坂となり、小さな谷を越える。蛇窪の名があり、付近の湧水からの流れが善福寺川に通じていたようだ。このあと、もうひとつ小さな川跡を越えるが、いずれも暗渠化されている。

 道の両側には商店が並ぶようになり、和田帝釈天商店街の名があるが、その由来となった帝釈天堂がやがて右手に現れる。江戸時代末期の創建だそうで、嘉陵が歩いた時代に存在したかどうかは不明。

 参詣道はまもなく環状七号線に分断されるが、信号を渡った先に新しい題目塔があり、同じ敷地にかつて鍋屋横丁にあった道標が移設されている。いずれも嘉陵は見ていないものだ。

 ここから妙法寺商店街となり、ほどなく妙法寺に到着。10時過ぎに日本橋浜町の家を出た嘉陵が妙法寺に着いたのは「午の半過る頃」というから13時過ぎのこと。

 ちなみに僕が新宿駅東口をスタートしたのが10時頃で、妙法寺に着いたのが11時45分である。あちこちに寄り道したとはいえ、嘉陵よりはだいぶペースが遅いはずだ。

 さて、妙法寺である。古くは真言宗の尼寺であったが、江戸初期の元和年間(1615- 24年)、日逕上人が母・日圓法尼の菩提のため日蓮宗に改宗。この時に日圓山妙法寺と称した。当初は目黒・碑文谷の法華寺の末寺となったが、法華寺は幕府による不受不施派に対する弾圧を受け、元禄十一(1698)年、天台宗への改宗を強いられ、寺号も円融寺と改められた。それ以降、妙法寺身延山久遠寺末となり、この時にそれまで法華寺にあった日蓮上人像が妙法寺に移されている。この像は日蓮42歳の時の姿を彫ったものとの伝承から「厄除け祖師」として広く信仰を集め、日蓮宗の信者に限らず、多くの人々が厄除けの御利益を求めて妙法寺へ参拝するようになり、江戸から堀ノ内への参詣ルートが発展したわけだ。村尾嘉陵も妙法寺へは複数回お参りしているようである。

 なお、妙法寺は明和六(1769)年の火災で諸堂を焼失し、祖師堂は明和九年に再建されているが、老朽化のため、文化八(1811)年に再び建て直されている。従って、この時、嘉陵が参詣したのは新しい祖師堂の落慶から5年後ということになる。

 妙法寺にお参りした嘉陵はここから南へ針路を取り、大宮八幡宮を経て、井の頭弁才天へ向かう。ここからは紀行でも風景描写が多くなり、嘉陵が目にした風景と現在の風景を比較しながら歩くことになる。

 

 つづく

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ダイコン収穫

 確か9月末にタネを蒔いたダイコン。最初の1本を収穫。あまり大きくないが、食べきりサイズとしてはちょうどいい。

 ビデンスはまだ咲き続けている。

 室内ではブーゲンビリアも咲き続けている。

 一応、クリスマスなので。

(きょうの1曲)鈴木祥子/ムーンダンスダイナーで


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