嘉陵紀行「南郊看花記」を辿る(その4)

 江戸の侍・村尾嘉陵(1760-1841)が江戸南郊の桜を見て歩いた日帰り旅の足跡を辿っている。

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 嘉陵は途中で知り合った大日向民右衛門と一緒に品川の御殿山から東海寺をめぐり、さらに南へと足を進める。

 当時は東海寺境内を横切るように流れていた目黒川を要津(ようじん)橋で渡る。ここから南品川である。

(目黒川を渡って、対岸の東海寺を振り返る。もはや昔の大寺院の面影はない)

(目黒川に浮かぶカモメが海の近さを教えてくれる)

(東海寺の)南門より出て、畑のほそみちをゆく〔右に田の面見わたさる、左に海晏寺の山のうしろ見ゆ〕、菜の花のさかりなる、満地に金をしくがごとし」

 左にかつては東海寺境内の塔頭だった清光院、右の路傍に銀杏と稲荷の祠(小野稲荷大明神)を見ながら南へ行く。

 道はすぐ突き当りとなるが、ここに東海寺の南門があったようで、左折すると、まもなく左手にレンガ塀の天龍寺曹洞宗)。その門前で右折。


(レンガ塀の天龍寺

 天龍寺前から南へ行くのが、嘉陵の歩いた「畑のほそみち」だと思われ、当時は菜の花が満開で一面に金を敷き詰めたかのようだったという。現在は「品川銀座」と称する商店街となっていて、「ゼームス坂通り」の名がある。この先にある坂がゼームス坂で、元は浅間坂と呼んだが、慶応二(1866)年に来日した英国人で、造船技術の指導などにあたったJohn M. Jamesがこの坂の下に住み、地元の人たちが急坂に難儀するのをみて、私財を投じ、坂を改修したので、それ以来、人々が感謝の意を込めてゼームス坂と呼ぶようになった。

 この通りの東には第一京浜国道15号線)があり、そのさらに東に旧東海道が通じている。嘉陵はあえて当時の幹線道路を避けて、この田舎道を歩いたのだろうか。

 天龍寺前からすぐ左手にはお堂の中に三面六臂馬頭観音が祀られている。

 しばらく行くと、今度は右側に東関森稲荷。「とうかんもり」は稲荷森(とうかもり)だろう。

 ゼームス坂の上りが始まる手前、「南品川五丁目西」の交差点付近で嘉陵たちは左へ分かれる道を行ったようだ。交差点を左折して、すぐ右折。細道を南下する。
 品川エトワール女子高の東側を通って池上通りに出る。通りを左へ行くと青物横丁、右へ行くと仙台坂だが、通りを渡って、少し右にずれて、さらに南へ入る細道を上ると、左手に海晏(かいあん)寺の森が見えてくる。

 海晏寺は建長三(1251)年頃、品川の海で網にかかった鮫の体内から観音菩薩の木像が出てきたことから、その観音像を安置するために臨済宗の寺として創建され、その後、衰退したが、徳川家康によって再興される際に曹洞宗に改められている。境内の山はもみじの名所として知られた。なお、付近の鮫洲という地名はこの観音像の出た鮫が由来となっている。

(海晏寺)

「向ひに木だちしげりたる一かまへみゆ、松平陸奥守どのの品川のやしきといふは是也と云めり」

 海晏寺の裏の坂を上り詰めた突き当りが松平陸奥守、つまり仙台藩伊達家の下屋敷である。この屋敷に沿って東へ下るのが本来の仙台坂(旧仙台坂)で、先ほどの池上通りの仙台坂は新しい坂である。

 旧仙台坂上からの眺め。走る電車は京浜急行。その向こうに東海道が海岸沿いを通っていた。

 旧仙台坂を坂下から見る。右が海晏寺、左には臨済宗の泊船寺。泊船寺はこの寺の住職が松尾芭蕉と親交があったことから地元の俳人が集まる寺となり、境内に多くの句碑があり、また松尾芭蕉の木像を安置している。

 この旧仙台坂の上には樹齢300年以上というタブノキ(温暖な海岸地域に多く見られる常緑高木)の古木が今も葉を茂らせ、さらに新旧の仙台坂が合流する坂上には仙台味噌醸造所がある。これは伊達家が江戸在勤の仙台藩士に仙台味噌を作って配給したのが始まりという。

 仙台坂のタブノキ。嘉陵が「向ひに木だちしげりたる~」と書いた中にこの木も含まれていたのだろう。

 仙台味噌醸造所。入口に大きな味噌樽がある。

(松平陸奥守殿の)その垣にそふて西へめぐり、又南に行くば〔このあたり道の左はみな畠なり〕来福寺のうしろに出」

 嘉陵は御殿山、東海寺から来福寺までの道筋を絵図に残している。

 図の右端が御殿山、左端が来福寺で、下端の広い通りが東海道である。東海寺の南門を出て、嘉陵たちは「畑」「ハタ」「菜花多」の文字のある細道を南へ行って、松平陸奥守の品川屋敷の門前に出たようだ。ちなみに伊達家の品川屋敷はかつては広大な敷地を有していたが、越前鯖江藩間部家の大崎の下屋敷と土地を交換しており、嘉陵が通りかかった時は仙台坂沿いに物資を収納する蔵と味噌の醸造所があるだけで、敷地の大部分は間部家の下屋敷となっていた。

 とにかく伊達家の敷地に沿って西へ回り込み、今の「見晴らし通り」に入ったようだ。これが東の海岸低地と西の立会川の低地に挟まれた台地の上を行く古道である。

 嘉陵の割註に「このあたり道の左はみな畠なり」となっているが、絵図では左側に間部下総守の屋敷があり、右側に畑が広がっている。嘉陵の書き間違いか、自筆本を後に書写する段階で逆になったかのどちらかだろう。

 やがて嘉陵たちの左側に来福寺が見えてくる。垣根の隙間から寺の裏手の桜が見えたようだ。

「まばら垣のすきまより寺の後面の花見ゆ、よこ折て径に入ば、小門あり、そこより入てみれば、堂の前うしろ、庭の築山まで、なべてみな花なり、書院の庭の左の隅にかきをへだてて、幹くちたる老木のさくら一もとあり、これぞ春日の局のうえし、しほがまといふ桜也と云」

(東向きの来福寺山門)

 来福寺の表参道は東側の東海道から伸びているが、嘉陵たちは境内の脇の小門から入ったようだ。現在も東大井3-13と20の間を左に入ると来福寺西門があり、階段を上り、寺の駐車場を通り抜けて本堂前に出られる。

 海賞山地蔵院来福寺は正暦元(990)年に智弁阿闍梨が創建した真言宗智山派の寺である。寺はその後、荒廃し、本尊の延命地蔵菩薩も行方不明となってしまう。文亀元(1501)年に梅巌という僧がその昔、源頼朝が戦死した兵士たちの追善のために写経を埋めたという納経塚(大井一丁目)から読経の声が聞こえるのを不思議に思い、掘ってみると、地蔵尊が出てきたので、この地蔵尊を来福寺に戻し、改めて本尊として安置したと伝わる。その秘仏だった地蔵尊は昭和の戦災で本堂諸とも焼失している。

 嘉陵たちが訪れた時、境内は桜が満開で、徳川家光の乳母・春日局が植えたと伝えられる「塩釜」と呼ばれる桜の老木も健在だったという。岡山鳥著『江戸名所花暦』(1827)にも桜の名所として来福寺が取り上げられ、境内に咲く「塩釜」を含む28品種の名前が挙げられている。

 また、境内には信州伊那出身の俳人与謝蕪村と同世代の雪中庵蓼太(1718-87)の「世の中は三日見ぬ間に桜かな」の句碑が弟子たちによって建立され、嘉陵が訪れた時にもあったはずで、現在もある。


(雪中庵蓼太句碑)

 嘉陵によれば、境内には百本近い桜があったそうで、ほかに本堂前に「梶原松」と呼ばれる松が一本あったという。これは源頼朝重臣だった梶原景時が植えたと伝わる松が枯れた後、新たに植えたものだという。

 来福寺は付近一帯を領有した梶原一門の帰依を受け、境内の北側には梶原塚があり、梶原一族の墳墓であるとの伝承があるが、嘉陵はこの地にいた梶原氏とは戦国時代に小田原北条氏の家臣であった梶原氏で、それが鎌倉時代梶原景時・景季父子と混同されたのだろうと考えている。『新編武蔵風土記稿』でも北条家臣の梶原説である。ちなみに来福寺の北に梶原塚は現存し、梶原稲荷が祀られ、神社の縁起では梶原景時の創建としている。


(梶原稲荷)

 さて、現在も来福寺の庭園には枝ぶりのよい松や多くの桜があるが、古木は枯れたり戦災で焼けたりして、すでに失われている。その後も桜の植樹は続けられ、近年の奉納者の名前には小泉純一郎安倍晋三石原慎太郎などの名前もある。いずれも染井吉野である。

 僕が訪れた時は境内はひっそりとしていたが、嘉陵たちが訪れた時は桜の木の下に床几を並べて茶や菓子を売る男がいて、嘉陵は持ってきた飯を民右衛門にも分け与えて、昼食にしている。

(『江戸名所図会』来福寺)

 

「やがて、もとの径を出て西南をさして、人のゆくまにまに行〔右は畠、左は松平土佐守殿のやしき也〕」

(嘉陵紀行の絵図・来福寺~西光寺)

 来福寺をあとにした嘉陵と民右衛門はさらに今の見晴らし通りを行く。右には相変わらず畑が広がり、左には松平土佐守の下屋敷があった。松平土佐守は土佐藩山内家で、当時は十二代の山内豊資(1794-1872)の時代である。

 その屋敷跡には現在、大福生寺という天台宗寺院がある。これは明治十四年に日本橋蛎殻町に創建され、明治二十四年に現在地に移ってきたものである。

(左が土佐藩下屋敷だった大福生寺)

「ややゆきて南へくだる小坂あり、ここの右の方を千軒台と云、そのかみ梶原景時このあたり二万石ばかりの地を領して、ここに住しとぞ、人家ありし跡、今畠と成、と土人のかたるままに書つく」

 この下り坂にはヘルマン坂の名がある。戦前にドイツ人のヘルマン・スプリット・ゲルベルト氏が坂の途中に居住していたことにちなむという。

 この右側がかつて千軒台と呼ばれ、梶原景時の領地で、居館があったと地元の人が語るので、嘉陵はそのまま書き留めているが、信じてはいないようだ。

 大福生寺の下で道は二手に分かれる。右へカーブする道が古い。坂を下ると立会川を渡る。

「坂をくだれば用水流る、その見わたしに水磨ある家あり、小橋をわたりて少しゆけば、西光寺〔来福寺より七八丁ばかり〕」

 当時は川を渡ったところに水車があったようだ。もちろん、今はない。現在の立会川はこの橋の上流では暗渠の緑道、下流は開渠となっている。コンクリートで固められた味気ない都市河川である。

 少し上って、東海道本線の線路を前後に階段のある地下道でくぐり、まもなく西光寺の前に出る。

 松栄山西光寺は浄土真宗の寺で、口伝では天徳二(958)年の開創、寺伝では弘安九(1286)年の創建といい、当初は天台宗の寺であった。江戸時代には桜の名所として知られ、嘉陵も有明桜、車がえし、児(ちご)桜、醍醐桜などを見て、歌を詠んでいる。

 今日ここの花にやどりて起ていなばなごり有明の月もみてまし

 佐保ひめやなでて生せしちござくら山ふところの露を乳ぶさに

 いつの世にみやこの花をたがうへてつきせぬ春のさかりみすらん

 しづけさはすまでもしらるすまばさぞ花にこもれる春の山でら

(『江戸名所図会』西光寺)

 これらの名木は明治二十六(1893)年の火災で焼けてしまった。ただ、境内には今も「兒(ちご)櫻」だけが残っている。

 「近年品川区の調査で固有品種、つまり西光寺にしかない世界でひとつの櫻」と判明した兒櫻。

「寺門を出て、岨にもあらぬ木の下みちを、垣にそふて猶南にゆき、とばかりの坂をくだりはつれば、少しの畠をへだてて、向ひの小高き所に、かやふける門つきづきしく住なしたる一かまへの家あり、其門の前に、さくらあまたうえなみたり、こはここ〔大井村〕の名主五蔵といふものの宅也けり」

 西光寺を出て、さらに南へ行く。道なりに進むと、右手に大井山光福寺があるが、嘉陵たちは素通りしていて、嘉陵はのちに再訪したようである。


(樹齢八百年以上という大銀杏のある光福寺)

 光福寺は延暦元(782)年に天台宗の神宮寺として開かれたのが始まりで、文永二(1265)年に親鸞上人の門弟であった了海上人により浄土真宗の寺として再興され、この時に光福寺と名を改めている。境内には「大井」という横穴式の井戸があり、この井戸で了海が産湯をつかったとの伝承があり、また大井の地名の由来になったともいう。水に恵まれた土地でもあり、古代東海道の大井駅が置かれたのがこの付近だとも考えられている。


(大井の地名の由来となった「大井」)


 光福寺を過ぎて、すぐ突き当りを右折して、すぐ左折。さらに南へ行くと、左にタブノキが茂る来迎院墓地が見えて、来迎院の門前に出る。

 来迎院は平安時代の安和二(969)年、南隣の鹿島神社創建と同時に別当寺として開かれた天台宗寺院で、江戸時代に入ると徳川家光が鷹狩のたびに立ち寄る休息所となり、「大井の御殿」と呼ばれた時期もあった。道を挟んだ向かい側には小堂が三つ並び、品川区有形文化財に指定された江戸初期の念仏講供養塔3基のほか、庚申塔不動明王像などが安置されている。

 もとは石仏の堂宇も境内にあったが、戦後、第一京浜国道池上通りを結ぶ道路が来迎院境内の本堂と石仏のお堂や墓地の間に通され、敷地が分断された形になっている。

 その来迎院を分断した道路を渡り、寺の敷地に沿って南西に坂を上ると、池上通りにぶつかり、これを左折すると鹿島神社の前に出る。

 安和二年に常陸鹿島神宮から祭神・武甕槌神タケミカヅチノカミ)の分霊を勧請して創建された古社である。ここまで歩いてきた道に来福寺、西光寺、光福寺、来迎院、鹿島神社といずれも平安時代の創建と伝わる古い寺社が並ぶことは、古代からここを街道が通っていた証拠でもあるだろう。

鹿島神社


 嘉陵は来迎院や鹿島神社には触れず、この池上通りを挟んで鹿島神社の向かい側の谷戸田の先(大井7-4)にあった大井村の名主、五蔵の家を訪ねている。

 この五蔵(1763-1847)は大野五蔵惟図(ただのり)といい、杜格斎景山(とかくさいけいざん)と号する俳人でもあって、『南浦地名考』など地誌や随筆の著作も多い、この地域を代表する文化人であった。鹿島神社境内には「爐の友のめくり逢ひたるさくらかな」という景山の句碑がある。ちなみに鹿島神社宮司が大野氏である。

(杜格斎景山句碑)

 嘉陵が五蔵宅に立ち寄ったのは、やはり桜が目当てである。敷地内にはたくさんの桜が植えられており、「大井桜園」と称し、屋敷の門前に台命桜、上意桜と呼ばれた名木があった。嘉陵は台命桜とは徳川家光が愛でたことが由来かと書いているが、徳川吉宗が鷹狩でその前を通りかかった時に桜に目を留めて一枝を所望し、大枝ではなく小枝を折るようにと命じたためにこの名がついたと伝わる。八重の薄色であったという。ちなみに五蔵はこの地方の桜の名所案内である『南浦桜案内』自費出版している。

 嘉陵たちは五蔵に会って話を聞いたわけではなく、ただ屋敷の前で桜を眺めただけのようで、ここで一首を詠んでいる。

 うらやましいく世をここにすみぬらん花のあるじと人にいはれて

 

 高輪の如来寺で知り合い、ここまで一緒に歩いてきた民右衛門は、今日は行先も告げずに出かけてきたので、遅くなると母や子が心配するから、といって、ここで帰ることになる。民右衛門は三田荒木の近くに住んでいるそうだが、四五日のうちに芝口の松坂屋の方に呼ばれて、そこに移るのだという。

 嘉陵も一緒に引き返そうかと迷ったが、道行く人が「まだ未のさがり(午後二時過ぎ)ですよ、池上まで行って本門寺の桜をごらんなさい。ここらの桜とは比べものにならないですよ」などというので、その気になり、民右衛門と別れて、さらに南へ足を伸ばすことにした。

 

 つづく

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