村尾嘉陵『江戸近郊道しるべ』

 村尾正靖(号は嘉陵)は宝暦10(1760)年に生まれ、天保12(1841)年5月29日に満81歳で亡くなった江戸の侍。徳川御三卿の一つ、清水家に仕えた幕臣である。その村尾嘉陵が江戸近郊各地に徒歩で出かけた旅の紀行をまとめたのが『江戸近郊道しるべ』である。本書はその現代語訳。
 収録されているのは文化4(1807)年から天保5(1834)年にかけての旅。嘉陵、47歳から74歳までである。
 もう若くはない嘉陵だが、歩く、歩く、とにかく歩く。
 江戸城下から西は府中や高幡不動、北は大宮の先の桶川、東は松戸・柏、南は川崎あたりまで足を延ばしている。しかも、ほとんど日帰り。目的地は神社仏閣が多いが、誰かから景色がよいと聞いた場所にも実際に出かけている。
 そして、途中のルートも克明に記録しているので、現代の地図でも彼がどこを歩いたのか、ある程度、辿ることができるというのが楽しいところでもある。
 現代人は出かけた先でちょっと気になったものを気軽にカメラで撮影できる。しかし、江戸時代ではそうはいかない。嘉陵は風景をスケッチしたり、お寺の扁額や石碑、石塔などにどんな文字が書かれているかとか寺社の境内の樹木の種類や大きさなど、気になったものは何でも絵や言葉で記録し、また、歩いた道筋を地図に描いたりしている。
 そして、彼の歩く江戸郊外の風景が現代の東京からは想像もできないほど美しい。当時から大都市だった江戸の街を少し離れただけで、人家もまばらな田園地帯である。新宿や渋谷でももう田舎。そんな時代の江戸近郊散策日記。江戸時代のブラタモリみたいな本である。
 読んでいて、東京近郊の200年前のリアルな光景が細部まで伝わってくる。もうそんな風景は失われてしまったとしても、自分も街をどんどん歩いてみたくなる。そんな本である。
 ところで、嘉陵が途中で水を飲むために持っていたという「椰子の器」というのが気になる。休憩させてもらった豆腐屋のおばちゃんが非常な関心を示して、「みんな来てごらん、これを見てごらん」と人を呼び集めたり、お酒を持ってきて、その器で飲むところを見せてくれ、などと言ったりするのだ。
 残念ながら、この現代語訳は抜粋編集で、挿絵なども割愛されている。そして、やはり嘉陵自身の書いた言葉で読みたい気持ちにもなる。というわけで、現代語訳の底本で、ほぼ完全版といえる平凡社東洋文庫版も神保町の古書店で見つけて購入してしまった。江戸時代の日本語なら大体わかるし、こちらは解説も充実している。