関東鉄道常総線の旅

 関東鉄道常総線茨城県の取手と下館を結ぶ51.1キロの非電化ローカル線。名峰・筑波山を望みながら、のどかな田園風景の中をディーゼルカーがのんびり走る印象があって、たまに乗りたくなる。沿線の宅地化が進み、新型車両の導入もあって、昔のイメージとは変わりつつあるのだが、子どもの頃、祖父が筑波山に住んでいたこともあって、家族ドライブでの行き帰りに通った、あの一帯の風景には懐かしい記憶もある。ということで、久しぶりに常総線に乗りたくなって11時15分頃、常磐線取手駅までやってきた。

 取手駅ではJRから常総線への連絡改札口があり、SuicaやPASMOも使えるが、関東鉄道では土曜・休日限定で常総線乗り放題の切符を発売しているので、いったん改札を出て、窓口で1,500円の「常総線一日フリーきっぷ」を購入。取手〜下館間の片道運賃が1,460円なので、フリーきっぷが断然お得なのだ。

 改札を通って、ホームに降りると、2100形ディーゼルカー(キハ2109+2110)の2両編成が待っていた。11時30分発の71列車、水海道乗り換え下館行きである。
 車内は空いているが、地元客のほかに、いかにも常総線に乗りに来ました、といった感じの親子連れなどがちらほら。僕もさっそくホームで列車の写真を撮ったりしているので、傍からは、どう見ても“鉄ちゃん”である。

取手駅で発車を待つキハ2109+2110)

 さて、11時30分定刻に発車。ディーゼルカー独特のエンジン音が嬉しい。すぐに常磐線と分かれて左へカーブして北へ向かう。
 常総線は取手〜水海道(みつかいどう)間は非電化のローカル私鉄としては珍しく複線化されていて、沿線もわりと宅地化が進んでいる。駅の間隔も短く、列車本数もけっこう多い。
 列車は西取手、寺原、新取手…と取手市郊外を坦々と走る。
 昔の下総国常陸国を結んで走ることから名づけられた常総線が走るのはずっと関東平野だが、利根川の支流、鬼怒川と小貝川に挟まれた地域を通っており、このあたりは縄文時代の海進期には海が内陸部にまで入り込んでいた地域でもあり、海が後退した今も台地の間に細長い低湿地が入り組む複雑な地形になっている。そのため台地上は住宅地や畑や雑木林、その間に田んぼや湿地、といった風景が展開する。平安時代に京都の朝廷から関東の独立を企てた平将門が活躍したのもこの地方である。取手の地名も将門が砦を築いたことに由来するという説があるらしい。

 新取手を出て、次は稲戸井だが、途中で何やら駅を通過した。車内ポスターにも出ているが、ゆめみ野という新駅が3月12日に開業するとのこと。

(開業を待つゆめみ野駅。帰路に撮影)

 (東日本大震災が発生した翌日の2011年3月12日、常総線でも運転見合わせ区間があるなか、ゆめみ野駅は予定されていたセレモニーや記念イヴェントも行われないまま、開業しました)

 稲戸井、戸頭、南守谷と過ぎて、次は守谷である。2002年に市制施行した守谷市は2005年のつくばエクスプレス開業で完全に東京方面への通勤圏に入り、今も人口が増え続けている。つくばエクスプレスと交差する常総線の駅も島式ホーム2面で4番線まである立派な駅になり、守谷発着の列車もけっこう設定されている。

 新守谷、小絹と停車して、まもなく右に水海道車両基地が見えてくる。新型車両に交じって、旧型車もいて、なかには京浜東北線みたいなスカイブルーに塗られた編成もあった。さらに古風なディーゼル機関車DD502もいた。
 かつては車両基地と本線の接点にある南水海道信号所で全列車が停車していたが、今日は通過。

(水海道車両基地のDD502)

 12時01分に水海道に到着。駅舎から離れた島式ホームの2番線に着き、下館方面は3番線の車両(1両)に乗り換えとなる。12時03分発だが、僕はこれには乗らず、この駅で途中下車。駅舎へは跨線橋ではなく、線路を横断する踏切で行けるので階段の上り下りの必要はない。

(手前から取手行き、乗ってきた水海道止まり、下館行き)


 さて、水海道で降りたのには理由がある。僕は水門というのが好きで、東京都内の水門を中心に訪ね歩いているのだが、そんな水門への興味の原点とでも言うべき水門が水海道にあるのだ。詳しいことは後に回して、とにかく、その水門を見にいこうと思う。

 駅を出て、線路に沿って、北へ歩きだす。しばらく行くと、国道354号線にぶつかった。この道はかつて家族旅行で筑波山へ行った時、父の運転するクルマで何度も通った道である。筑波山の家は祖父が亡くなった後も残り、山荘がわりに利用していたので、数えきれないぐらい出かけたが、そのたびにここを通り、この場所で常総線の踏切を渡ったのだが、いつも踏切は開いていて、列車が通るのは見たことがなかった。それでも、ここで目にした単線の線路が僕にとっての常総線の記憶の最初である。同じ関東鉄道でも筑波線(土浦〜岩瀬、のち経営分離で筑波鉄道。1987年廃止)には何度も乗ったので、常総線にも乗ってみたいな、と子ども心に思っていたが、それが実現したのは大人になってからのことだった。
 ついでに言えば、この道は自転車でも何度か通ったことがある。東京から筑波山まで自転車で行ったことが2度あるほか、北海道自転車ツーリングでフェリーの出る大洗まで自走で行った時もここを通った。その時、「踏切注意」の道路標識が懐かしい汽車の図柄だったのを覚えているが、それがまだ健在かどうかをまず確認。ちゃんとありました。最近は電車の図柄の標識が多くなっており、まさに標識界の絶滅危惧種なのだ。個人的には道路標識の最高傑作だと思っているのだが…。

(国道354号線・常総線踏切の標識は今や貴重な汽車のデザイン)

 さて、そこから国道を西に歩く。
 左手に常総市役所がある。旧水海道市が2006年1月1日に北隣の石下町編入したのを機に常総市と改称したのだ。「水海道」は江戸時代から鬼怒川水運の河港で栄えた土地に相応しい地名で、平安初期に坂上田村麻呂がこの地で馬に水を飲ませたことに由来する「水飼戸」(みつかへと)が起源だともいう。そういう由緒ある、しかも魅力的な市名をあっさり捨ててしまったのは個人的にはとても残念。

 とにかく、鬼怒川にかかる豊水橋までやってきた。そのすぐ北側で八間堀川(正確には新八間堀川)が合流していて、その合流点に真っ赤に塗られた八間堀川水門がある。八間堀川は鬼怒川と小貝川に挟まれた低湿地帯の幹線排水路として江戸初期に開削された人工水路で、上流端は今の下妻市にある。当初は小貝川に接続し、のちに分水路を開いて鬼怒川にも繋がった。その合流部に鬼怒川増水時に八間堀川への逆流を防ぐ目的で水門が設置されているのだ。隣接して、水門閉鎖時に八間堀川の水をポンプで排水する八間堀川排水機場があり、やはり真っ赤な排水ゲートが水門と並んでいる。
(八間堀川水門)

 ところで、この水門こそが僕の記憶に残る最初の水門である。筑波山への家族ドライブで鬼怒川を渡る際に、橋のすぐ上手にある大きな水門が目にとまったわけだ。まだ小学生だった当時はべつに水門に特別な興味を持ったわけではないが、その不思議な存在感ゆえに、それ以降も鬼怒川を渡るたびになんとなくこの水門をチェックするようになった。水門の完成は昭和50年ということなので、たぶん工事中から知っていたように思う。とにかく、その水門を訪ねて、間近に眺めたいと考えて、やってきたわけである。

 まぁ、水門に興味のある人は少ないと思うので、このぐらいにして、水門をあとに八間堀川に沿って東へ歩く。最初は水海道駅に戻るつもりだったが、途中で気が変わって、北隣の北水海道駅まで歩いた。

(途中で上り列車が通り過ぎる)

 常総線は水海道以北は単線で、列車本数も少なくなる。小さな駅にたどり着くと、まだ次の列車まで30分ほどあったので、近所のスーパーで弁当を買って食べる。


 北水海道13時38分発の85列車キハ2404に乗車。
 中妻、三妻、南石下と進むうちに、車窓右手にお城の立派すぎる天守閣が見えてくる。それが豊田城。といっても、本物の城ではなく、旧石下町(現・常総市)の地域交流センターで、郷土資料などを展示しているらしい。
(帰路に撮影)
 本物の豊田城は東方の小貝川のそばに南北朝時代に実在したが、戦国時代末期に廃城となり、今は河川改修により遺構も失われ、ただ城址を示す石碑があるのみだという。もちろん、当時の城はこんなに立派な天守を持つものではなかった。

(うっすらと筑波山が見える)

 石下を出て、玉村、宗道と過ぎると、曇り空の下に霞む筑波山がだんだん近づいてきて、下妻に到着。下妻市の中心駅で、3番線まである。ここで最新鋭の5000形ディーゼルカーと交換。

下妻駅で5000形と交換)

 下妻を出ると、次は大宝(だいほう)である。この駅には前回途中下車した。駅の東側に小高い丘があり、そこに大宝八幡宮がある。大宝元(701)年に創建されたと伝えられる古社で、1577年に再建された本殿は国の重要文化財にも指定されている。僕が訪れたのは2001年2月3日のことで、ちょうど節分祭りで賑わっていた。
 この大宝八幡宮を含む台地は西・北・東の三方を大宝沼(現存せず。今は水田)に囲まれた要害の地で、鎌倉中期の1232年に小山氏一族の下妻長政が築いた大宝城が存在した。南北朝時代には関東における南朝方の拠点・小田城(つくば市)陥落後、南朝方の重鎮・北畠親房が拠った関城(大宝城の北方)とともに南朝方の拠点となり、後醍醐天皇の孫・興良親王(=護良親王の子)を奉じた公家の春日顕国が籠城したが、高師冬の率いる北朝軍の猛攻を受け、食料不足や城内の不和もあって1343年、ついに落城、城主の下妻政泰は討死したという。今は八幡宮境内に土塁が残るぐらいだが、大宝城址は昭和9年、国の史跡に指定されている。南朝を正統とみなした戦前の大日本帝国政府は南朝方の史跡を優遇していたので、関城址や小田城址国史跡である。

 それはともかく、この大宝駅。10年前は単線にホームを添えただけの小さな駅だったが、いつのまにか、相対式ホームで列車行き違いができるようになっていた。2008年からとのこと。
 
 2001年の大宝駅

キハ102単行がやってきた。

 2008年から交換可能になった大宝駅

 大宝の次の騰波ノ江(とばのえ)で下車。14時11分。
 この駅は10年前に通った時に昔ながらの古めかしい駅舎が何とも言えないノスタルジーを感じさせ、とても印象に残っていたので、今回はぜひとも降りてみようと思っていたわけである。
 ただ、降りてみて、すぐに印象がなんだか違うな、と感じた。外観はいかにもレトロ風なのだが、あの味わい深い感じが消えている。常総線は大正2(1913)年に常総鉄道として開業した歴史の古い鉄道だが、騰波ノ江駅は13年後の大正15(1926)年開設。その時の駅舎が残され、「関東の駅百選」にも選定されたのだが、旧駅舎は老朽化のため2008年に取り壊されてしまい、現駅舎が新築されたのだった。ただ、一部に旧駅舎の部材が利用されているとのこと。

(2008年に建て直された騰波ノ江駅舎)

(伝統的な関鉄スタイルの駅名標

 駅舎内では鉄道模型運転会が開催されていたが、横目にちらりと見ただけで、駅を出て、次の列車まで30分余りあるので周辺を少し散歩。昔ながらの火の見やぐら(僕は水門と同じぐらい火の見やぐらも好きである)を見上げたり、猫の写真を撮ったり、梅の咲く田園風景の彼方の筑波山の写真を撮ったりして、駅に戻った。



 このあたりには果樹園が多く、梨かな、と予想しつつ、地元の方に聞いてみたら、やはり梨とのこと。これでも後継者不足などで、ずいぶん数が減ったという。寒風の中で行う冬の剪定作業が特に辛いそうだ。体を動かさない手先だけの作業なので寒さが応えるらしい。

(梨畑と筑波山


(次の下館行きキハ2203がやってきた)

 騰波ノ江発14時44分の89列車に乗り、終点の下館をめざす。
 下妻市から筑西市(旧下館市)に入って、3番線まである黒子で先ほど乗ったキハ2404の守谷行きと行き違い。この駅も確か前回は古い駅舎だったと思うのだが、やはり新しい駅舎になっていた(2003年新築)。
(黒子駅)

 昔は鬼怒川の砂利運搬のための支線が分岐していた大田郷を出ると、やがてJR水戸線が左から近づいてきて、下館には14時57分に到着。

(終点下館をめざして快走)

下館駅5番線に到着)

 下館駅水戸線常総線のほかにSLも走る真岡鉄道が乗り入れる大きな駅で、駅舎のある1番線が真岡鉄道、2〜4番線が水戸線、5・6番線が常総線である。

下館駅にて)

真岡鉄道ディーゼルカーとSLの補助機関車DE10-1535)

 下館からは10分後の15時07分発、守谷行き110列車ですぐに折り返し、守谷16時11分着、3分の連絡で112列車(キハ2112+2111)に乗り継ぎ、取手には16時31分に着いた。

 【サイクルトレイン情報】
 関東鉄道常総線では水海道〜大田郷間で車内に自転車をそのまま持ち込むことができます。ただし、9時30分〜14時30分に乗車の列車。
 自転車と列車を組み合わせながら、自転車でのどかな田園風景の中、史跡めぐりサイクリングなんていうのも楽しそうです。