三ノ輪の投込寺・浄閑寺

 東京メトロ日比谷線三ノ輪駅近くにある浄閑寺荒川区南千住2‐1‐12)。正式には榮法山清光院浄閑寺と称する浄土宗の寺である。このお寺はいわゆる「投込寺」として知られる。

 門前に立つ荒川区教育委員会による説明板。

安政二年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから、『投込寺』と呼ばれるようになった。花又花酔の川柳に、『生まれては苦界、死しては浄閑寺』と詠まれ、新吉原総霊塔が建立された。
 檀徒のほかに、遊女やその子供の名前を記した、寛保三年(1743)から大正十五年(1926)にいたる、十冊の過去帳が現存する。
 遊女の暗く悲しい生涯に思いをはせて、作家永井荷風はしばしば当寺を訪れている。『今の世のわかき人々』にはじまる荷風の詩碑は、このような縁でここに建てられたものである」

 門前にある地蔵尊。「小夜衣(さよぎぬ)供養地蔵尊」と呼ばれている。

 お寺のホームぺージにある説明。

「元々は境内にありましたが、今は山門前に立っています。『悪い部分をなでると良くなる』という言い伝えがあり、お参りの人が絶えません。 この小夜衣(さよぎぬ)については次のような話があります。
 京町1丁目の四つ目屋善蔵の抱え遊女、小夜衣は、女主人に放火の罪をきせられ、火あぶりの 刑になりました。ところが、一周忌、三回忌、七回忌のたびに廓内から火が出て四つ目屋はいつ も全焼し、ついには潰れてしまいました。廓内の人々が集まって霊を慰める仏事を行ってからは、 年忌ごとの火事はなくなったそうです」

 

 本堂裏手の墓地にある新吉原総霊塔。寛政五(1793)年に造られた供養塚を改修し、昭和四(1929)年に建立された。

 江戸時代から幕府公認の遊郭として栄えた吉原。もとは日本橋(いまの人形町付近)に元和三(1617)年に開設されたのが始まりで、それまではヨシの茂る湿地帯だったことから葭原と呼ばれていたのを縁起の良い「吉原」に字を改めた。明暦三(1657)年、江戸市中を焼き尽くした明暦の大火の後、当時の浅草千束村に移転し、新吉原が成立し、以後、昭和三十三(1958)年に売春防止法が施行されるまで三百年にわたって吉原遊郭は存続する。この新吉原もまた池や沼が点在する湿地を埋め立てて造成した土地ということだ。

 荒川区教育委員会の説明板に安政二年の大火のことが書かれているが、大正十二(1923)年の関東大震災の際にも悲劇は起きている。

 明治以降の遊女の中には貧困や飢饉に苦しむ東北地方の貧しい農家から身売りされてきた少女たちが多く、脱走防止の意味もあって遊郭の周囲は堀や塀で囲まれており、震災で遊郭内でも火災が発生する中、唯一の出入り口である大門が閉鎖されてしまったのだ。逃げ場を失った遊女たちは炎と煙に追われながら廓内にあった弁天池(花園池)に殺到し、次々と飛び込んでは、折り重なるように溺れて命を落とした。その数、実に490名と伝えられている。

 江戸時代から昭和までに浄閑寺に葬られた遊女や遊郭の関係者の総数は二万五千名にもなると推定されるそうだ。

 供養塔には「生まれては苦界、死しては浄閑寺」という花又花酔の句が刻まれている。

 花と共に口紅など化粧道具が供えられている。

 地蔵尊も紅をさしている。

 永井荷風の詩碑と追悼碑。

 昭和三十八(1963)年建立のこの追悼碑。設計者は建築家の谷口吉郎氏。大磯の高田公園にある劇作家、随筆家の高田保氏の墓碑と同じだ。そういえば、ちょっと雰囲気が似ている。荷風の歯と愛用の筆が納められているそうだ。