嘉陵紀行「小日向道永寺・柏木村円照寺 桜のつと」を辿る(前編)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の道筋を辿るシリーズ。久々の今回は今の文京区から新宿区にかけて桜の季節に歩いた話。

 

 「文政三年辰の弥生十日、小日向はとり坂の上に、道永寺といふてらあり、その庭に、よき花ありと聞て、とみにおもひたちて、行てみる、げにも人のいふにたがはざりけり」

 文政三年三月十日は今の暦で1820年4月22日。「小日向はとり坂」は文京区小日向にある服部坂である(現代語訳の『江戸近郊道しるべ』で「小日向の鳥坂」となっているのは誤り)。また嘉陵が道永寺と書いているのは道栄寺である。「よき花」の「花」とは言うまでもなく桜のことである。

 当時、数えで六十一歳の嘉陵は浜町の家に住んでいて、小日向までの道筋は書いていないが、今でいう神田川に出て、川沿いを歩いてきたのだろう。僕は飯田橋駅から歩く。

 現代の神田川は両岸をコンクリートで固められ、しかもこの付近では右岸の上を首都高速が走り、まことに味気ない姿になっている。

 江戸時代からある石切橋から上流を望む。向こうに見えるのが古川橋。

 神田川に架かる古川橋。両岸の袂に氾濫防止のためのゲートが設置されている。

 古川橋から北へ向かい、文京区立第五中学校の東側を上るのが服部坂。坂の途中に服部権太夫の屋敷があったことからの名称。当時は坂下を神田川から分水した神田上水が流れていた。
 ちなみに服部坂下の道を東へ300メートルほど行くと、浄土真宗本法寺がある。その境内に子院の廓然寺(明治十二年廃寺)があり、そこの住職が『嘉陵紀行』と並ぶ当時の貴重な記録である『遊歴雑記』を著した十方庵敬順(津田大浄、1762-1832)だった。嘉陵が小日向を訪れた時、2歳年下の敬順はすでに住職の座を息子に譲って隠居し、携帯用の茶道具を持って、あちこちに出かけては行く先々の見聞を事細かに書き記していたので、当日、敬順が寺にいたかどうかは分からない。今でもキャンプなどでお湯を沸かしてコーヒーを楽しむ人は少なくないが、江戸時代にも携帯コンロと茶道具を持ち歩く人がいたわけだ。ちょっと真似してみたい。閑話休題

 正面が服部坂。

 坂を上ると、左手に小日向神社がある。ここが服部氏の屋敷跡(の一部)で、周辺にあった氷川神社八幡神社を明治になって合祀して、この場所に移し、小日向神社と改称している。

 坂上からの服部坂。昔は見晴らしがよかったのだろう。

 坂の上で道は二手に分かれるが、右へ行く。左手に新渡戸稲造(1862-1933)旧居跡の碑を見て、突き当りまで行き、左折すると道栄寺がある(小日向2-1-22)。この北向きの門は昔は裏門で、山門は東側にあったようだ。嘉陵が訪れた文政年間には1,269坪という広い境内を有していたというが(『小石川區史』)、今はだいぶ縮小されている。

 道栄寺は曹洞宗の寺で、山号は花渓山。創建年代は不詳ながら開山の久山全長和尚の没年が寛文九(1669)年なので、江戸前期だろう。当初は小日向の北に位置する茗荷谷に創建され、享保十六(1731)年に現在地へ移転している。

 さて、道栄寺は住宅街の中のごく普通の寺に過ぎなかったが、桜の木はあった。染井吉野と枝垂桜。でも、古木というわけでもなく、花の名所となるほどではない。桜のある寺は珍しくないし、むしろ境内に桜が一本もないほうが珍しいかもしれない。

(いつも思うことだが、寺社の境内のクルマというのは美観を損ねる)

 しかし、往時は花渓山の山号に相応しい花の名所であったらしい。その理由といえるのか、ここには嘉陵と同世代の大名で白河藩主の松平定信(1759-1829)が植えた桜があったそうで、境内に天保期の松平楽翁桜植樹記念碑があるというが、見逃した。楽翁は定信の隠居後の雅号である。幕臣・嘉陵がこの寺の花の見事さを耳にしたのも、それが徳川吉宗の孫で、11代将軍・家斉の下で老中首座としていわゆる「寛政の改革」など幕政を主導した定信が植えた桜であったからかもしれない。

 嘉陵によれば、本堂前に二本の桜があり、四方に枝を伸ばして庭の半分を覆うほどであったといい、また、書院の庭にも同じような桜が三、四本あり、いずれも薄紅色の八重桜であったとのこと。すでに盛りを過ぎていたが、庭の周囲が囲われているため、散った花びらが飛散することもなく、木々の周りに分厚く降り積もり、それが風に吹き寄せられ、花の浪となり、筆舌に尽くしがたい見事さであったようだ。

 嘉陵は中国明代の文人、虎寅(1470-1524、字名は伯虎)が落花詩の中で「香泥一尺」と表現したのはこのような眺めかと思い至り、自作の和歌と漢詩を書き記している。

 

 ちるはなに庭もまがきもうづもれてゆきのそこなる春のやまでら

 山寺晩桜三月天 淡紅淡花舞風前 満庭香雪深盈尺 来歳応知花有年

 

 当時の道栄寺は「山寺」であったのだ。

 

 往時の面影が失われた道栄寺の境内には敷地内の植え込みに多数の石仏が配されていた。地蔵尊如意輪観音などで、これらは江戸中期に流行した墓石として多く作られたものだろう。

 また、「秩父霊場第十三番写 正観世音菩薩」と彫られた石碑があるのはこの寺に秩父第十三番霊場・慈眼寺の聖観音菩薩像を模した観音像を安置していることを意味している。

 道栄寺の桜に満足した嘉陵は次に柏木村の花を訪ねることにする。柏木村とは今の新宿区北新宿で、そこにやはり桜の名木がある円照寺がある。

 

「日もまだ高きに、柏木むらの花をたづねばやと、坂をくだりに、わせだより牛込原まちを経て、若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町、ここに西南へ下る坂あり〔久左衛門坂と云〕、左のかたに大久寺といふてらあり」

 

 この記述から嘉陵の歩いたルートを割り出すわけだが、当時と現代では道が異なっているので簡単ではない。以下は江戸時代の切絵図と明治時代の地図から推定したルート。

 服部坂を下り、古川橋で神田川を渡って、そのまま南下。伝久寺の門前から南側を西へ行き、新宿区榎町の済松寺の東に出る。

 済松寺は徳川家光に仕えた祖心尼が正保三(1646)年に家光から寺領の寄進を受け、創建した臨済宗妙心寺派の禅寺。庭園には湧水の池(鳳凰池)があり、『江戸名所図会』にも描かれているが、境内は通常非公開。

 江戸時代から火災による焼失、明治の廃仏毀釈による破壊、昭和の戦災による焼失と幾多の苦難を受けてきたが、そのたびに再興され、現在に至る済松寺。

 山門前を南へ下り、通りに出ると向かい側に肴屋三四郎という鮮魚店があり、モダンな建物だが、看板に享保八年創業とある。1723年だから301年前である。嘉陵がこの付近を通った時からこの場所にあったのかもしれない。

 済松寺の西側を南北に走る外苑東通りを南へ行くと、すぐに早稲田通りと交差する「弁天町」交差点。今では自動車が行き交い、江戸情緒のかけらもないが、この一帯は住居表示が未実施で、古い町名が残っている。この交差点の北西側に早稲田町があり、嘉陵が早稲田を通ったというのはこの付近のことと思われる。

 さらに外苑東通りを南下する。両側に寺が多く、地形的にも起伏が激しい。外苑東通りの原形となった道は江戸時代からあり、嘉陵も歩いたはずである。当時は沿道に七つの寺があり、七軒寺町と呼ばれていた。

 右側の窪地に弁天町の由来となった弁天堂がある。近くにある宗参寺(曹洞宗、牛込氏の菩提寺)の境外仏堂。地形的に昔は湧水の池があったと思われるが、今は存在しない。

 モダン建築が多い寺を左右に眺めながら外苑東通りを南へ歩くと、「市谷柳町」の交差点で大久保通りと交差。昔は道路の形状が複雑だったが、とにかく、ここを西へ曲がると、新宿区原町で、嘉陵が「牛込原まち」と書いた地点である。

 この付近にも寺院が多く、大久保通りの南側に日蓮宗の経王寺がある。日蓮上人の高弟、日法作と伝わる大黒天を安置し、度重なる火災でも焼失を免れたことから「火伏せの大黒天」として信仰を集めた。

 経王寺前の坂を上がって原町を行くと、「若松町」交差点。嘉陵が「わせだより牛込原まちを経て、若松丁」と書いているから、まさにこの道を歩いたのだな、と分かる。

 新宿区原町付近の大久保通り。この地下を都営大江戸線が走っている。

 若松町交差点。嘉陵が「若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町」と書くように、ここを南(左)へ折れる。地下の大江戸線も同じルートを行く。

 道はゆるやかな下り坂。団子坂という。道の右は若松町、左は河田町で、まもなく

大江戸線若松河田駅がある。

 まもなく余丁町に入り、緩やかな坂を上ると「抜弁天」交差点がある。実はこの付近の嘉陵の記述が実際とは異なっている。記憶を頼りに書いたと思われ、その結果、ちょっとした間違いが生じたのだろう。

 嘉陵は「若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町、ここに西南へくだる坂あり」と書き、割註で「久左衛門坂と云」とし、「坂をくだりて、右に弁才天の祠〔南向也〕あり、ぬけ弁天といふはここ也けり」と綴っている。

 実際は抜弁天を過ぎた先に久左衛門坂があるので、彼がいう久左衛門坂は団子坂の誤りかもしれない。団子坂は若松町からまさに西南に下る坂である。久左衛門坂は抜弁天前から西へ下る坂なので、嘉陵の記述とは異なっている。

 従って、団子坂を下って、再び上った先に抜弁天があるのだ。しかも、嘉陵の文章では坂下の右側にあることになっているが、実際は左側である。江戸時代の絵図を見ても、道と弁天の位置関係は変わっていないので、これは嘉陵の記憶違いか、または達筆だった嘉陵の文章を原本から書写する時点で間違いが生じたかということになるだろうが、真相は不明。

 それよりも嘉陵は坂の途中で「左のかたに大久寺といふてらあり」と書いているが、この付近にそのような寺は現存しないし、過去に存在したという記録も見当たらない。

『江戸近郊道しるべ』の編注者、朝倉治彦氏は「大久寺(新宿区新宿七丁目)」と注釈をつけているが、疑問が残る。嘉陵によれば、その寺の門内に「五鬣の大松」という大木があったというのだが。考えられるのは久左衛門坂の上にある永福寺である。山号は大久保山であるが、大久山とする文献もある。この山号から嘉陵が大久寺と思い込んだ可能性はあるが、この寺は道の左ではなく、右側にあるのだ。それでも、永福寺が嘉陵のいう「大久寺」の最有力候補とはいえそうだが、ここに「五鬣の大松」があったという記録は今のところ発見できていない。

 とにかく、「抜弁天」交差点の傍らに抜弁天厳島神社がある。江戸時代の地図では別当二尊院が同居していたようだ。現在は狭い敷地だが、昔はもう少し広かったのだろう。

 この抜弁天に次のような由緒がある。平安時代の応徳三(1086)年、鎮守府将軍源義家後三年の役で奥州征伐の途上、遠く富士山を望むこの地に立ち寄り、安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後、その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始まりと伝えられている。江戸時代になって参道が南北に通り抜けでき、また義家が苦難を切り抜けた由来から、「抜弁天」として庶民の間で信仰され、江戸六弁天の一つにも数えられたという。

 境内には小さいながら池も作られ、鯉や金魚が泳いでいる。嘉陵は「祠のかたはらに、かた枝かれたる老木のさくら一木あり、みはやす人もなくて、花またちりがたなるぞ、いとあはれふかし」と書いているが、現在は桜の木はない。

 昔はここから富士山が望まれたようだが、もちろん今は見えない。

 つづく

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