2月12日に神奈川県の伊勢原市から厚木市にかけて歩いた話の続き。日向薬師から薬師林道を通って厚木市の七沢温泉までやってきた。
梅の咲く七沢の山里風景。ここには古い社寺や室町時代に存在した七沢城(七沢要害)の趾が残る。
山間の温泉郷といった風情からだんだん土地が開けて、やがて県道に出る。先ほど伊勢原市街から西富岡まで歩いた道の続きで、北へ行くと津久井方面へ通じている。この道は過去に一度自転車で走ったことがある。
この道を南へ行く。七沢温泉から小田急・本厚木駅まではバスで30分ほどの距離である。まもなく道路際に道しるべを兼ねた庚申塔があった。
七沢村の庚申講中の人々が寛政十二(1800)年に建立したもので、この年の干支はまさに庚申(かのえさる)である。側面には「右 ひなた 一のさわ」「左 大山 いせはら」と刻まれている。この内、一の沢とは日向のさらに奥にある浄発願寺のことである。
この付近に古くから大山や日向からの道があったことが分かる。
室町時代の高僧で聖護院門跡の道興准后(1430-1501)は文明十八(1486)年六月に京都を発ち、東国を巡った際にこの付近を通っている。大山に登り、日向薬師の霊山寺に一泊した後、厚木の小野を経て、熊野堂に立ち寄り、現在の町田市図師町の半沢へ向かっているからである。この時の旅の記録『廻国雑記』には次のように書かれている。
宿相州大山寺、寒夜無眠。而閑寂之余、和漢両篇口号。
蓑笠何堪雪後峰 山隈無舎倚孤松
可憐半夜還郷夢 一杵安驚古寺鐘
わが方をしきしのべとも、夢路さへ適ひかねたる雪のさむしろ
此の山を立ち出でて、霊山といふ寺に到る。本尊は薬師如来にてまします。俳諧歌をよみて、同行の中につかはしける、
釈尊のすみかと思ふ霊山に、薬師彿もあひやどりせり
日向寺といへる山寺に一宿してよめる、
山陰や雪気の雲に風さえて、名のみ日なたときくも頼まず
熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、
色みえて移ろふときく、古への言葉の露か、小野の浅ぢふ
半沢といへる所にやどりて、発句、
水なかば沢べをわくやうす氷
道興准后は大山~日向~小野~熊野堂~半沢と辿っている。このうち小野は七沢と本厚木駅を結ぶルート上にあり、熊野堂も本厚木駅に近い旭町の熊野神社の別当であった。熊野神社は僕も一度訪ねたことがある。
関白・近衛房嗣の子で、本山派修験の総本山・聖護院の門跡(寺の住職を皇族や公家が務める場合の呼称)である道興准后は熊野三山の検校も兼務しており、全国の熊野修験を統括する地位にあり、この東国巡歴でも各地の熊野修験を訪ね歩き、聖護院のもとでの組織強化を図ったと思われる。
さて、県道を南へ行くと、やがて伊勢原方面と厚木方面の分岐点があり、ここを厚木方面へ左折。左手に日向川の下流でもある玉川が寄り添ってくる。
道路沿いに「ゆっくり走ろう七沢路」の看板。ヤマセミが描かれているということは、この付近に生息しているということか。
玉川沿いを行く。この川はかつては南へ流れて大磯付近で相模湾に注ぐ花水川に通じていたが、関東大震災で河口部の地盤が大きく隆起し、川の氾濫が多発するようになったため、治水対策として昭和二十一年から東流して相模川に注ぐように改修されている。
振り返ると、大山が少し遠くなった。
この先に「あひるの横断歩道」? 前方に見える横断歩道がそれか。
玉川と道を挟んだ向かい側にアヒルの小屋があり、横断歩道で結ばれている。アヒルが小屋と川の間を行き来するのだろう。
この時はアヒルは小屋の中にいた。
玉川のカワウ。
厚木市小野まで来た。道興准后が通った土地である。
熊野堂といへる所へ行きけるに、小野といへる里侍り。小町が出生の地にて侍るとなむ、里人の語り侍れば、疑しけれど、
色みえて移ろふときく、古への言葉の露か、小野の浅ぢふ
当時から小野小町の出生地であるという伝承があったようだが、道興は疑わしいと書いている。今も小野小町を祀る小町神社がある。小野緑地の丘の上にあり、登るのは意外に大変だった。
鎌倉時代、源頼朝の側室・丹後の局が頼朝の子を身ごもったことから北条政子に恨まれ、処刑されそうになるが、同情した者たちによってこの地に匿われた。しかし、丹後の局は心労のせいか、老婆のような白髪になってしまう。そこで小町神社に祈願したところ、もとの黒髪に戻ったという伝説があり、若白髪に悩む男女が小町神社にお参りするようになったという。
江ノ島。
山を下り、玉川の対岸(南側)にある小野神社にも参拝。
平安時代の延喜式神名帳(927年)にも記載された古社で、閑香明神社とも呼ばれたようだ。現在の拝殿は嘉永元(1848)年の建築で当初は茅葺屋根だったが、昭和四十三年に鉄板葺きに改められている。
社殿の裏手には双体道祖神が並べてあった。ひとつは単体像。
玉川のダイサギ。
あとは本厚木駅をめざして、ひたすら歩くだけだが、アップダウンの多い道で、駅まであと3キロほどの南毛利小学校前のバス停で、ちょうど後ろから来たバスに乗った。ちなみに戦国時代に中国地方を支配した大名・毛利氏は元は源頼朝の御家人で、このあたりの毛利庄が発祥地である。
2月12日(陰暦一月三日)の月。
矢倉沢往還に面した熊野神社は古くは厚木村の鎮守で、隣接する熊野堂(熊野寺)が別当として管理に当たっていた。道興准后が訪れたのがここである。
’’江戸後期の『新編相模国風土記稿』の「愛甲郡厚木村」の項にはこう書いてある。
別當熊野堂。或は熊野寺と稱す、長授山厚樹院と號す、本山修験京都聖護院末、(中略)文明十八年聖護院道興准后囘國の時、當寺に立寄あり、【回國雑記】曰、熊野堂と云所へ行ける道に小野といへる里侍り、按ずるに郡中小野村あり。
熊野神社と樹齢五百年を超える大銀杏。この一帯はかつては「熊野の森」と呼ばれたそうだが、今ではその面影はすっかり失われている。
熊野堂は明治初年の神仏分離で廃寺となっている。