竜飛崎

 函館0時10分出航の東日本フェリー2便「びいな」が津軽海峡を渡って青森港に到着したのは未明の3時50分。
 寝ぼけ眼で下船して、とりあえずフェリーターミナルの建物へ。青函航路は24時間運航なので、こんな時刻でも待合室はあかあかと電灯がつき、片隅のラーメン屋はトラック運転手たちで繁盛していた。彼らもここでしばしの休息をとった後、それぞれの目的地へ向けて再び旅立っていくのだ。
 朝まで待合室のベンチで仮眠をとってもいいのだが、眠れそうにもないので、青森駅へ向かうことにする。

 青森駅まで3キロ余り。雪の残る国道をてくてく歩く。
 もちろん、人影はなく、車もほとんど通らない。ミッドナイトブルーの空を見上げながら、なんでこんな時間にこんなところを歩いているんだろう、と我ながらばかばかしくも思うけれど、無意味でばかげた旅ほど面白いのだ。そう思うほかあるまい。

 ようやく青森駅西口が見えてきた。やれやれ、とホッとしたところでアクシデント発生。
 きれいに除雪された路面が早朝の冷え込みでコチコチ、ツルツルの天然スケートリンク状態。危ないな、と思った途端に足がツルッと滑り、一瞬全身が宙に浮いた後、身体の左側から凍った地面に叩きつけられた。
 グギッ!
 左手首に痛みが走る。あれっ、折れたかな、と思った。恐る恐る手首を動かして見ると、一応は動く。でも、そのたびにズキンと痛む。
 なんとか駅にたどり着き、販売機で熱い紅茶を買うと、そのまま左手首を押さえてベンチに座り込み、じっとしていた。
 さて、どうしよう。痛いのさえ我慢すれば手首は動くので、骨折ではなさそうだけれど、骨に亀裂ぐらいは入っているのかもしれない。骨折の経験がないので、その辺の判断がつかない。
 とりあえず、しばらく様子を見ることにして、今日はこれから津軽半島北端の竜飛崎まで行ってこようと思う。小泊からのルートは冬期通行止めだったが、津軽線三厩まで行けば、岬までバスが通じているのだ。
 それで、大きな荷物は青森駅のコインロッカーに預けて身軽になり、5時47分発の津軽線一番列車の乗客となった。身軽とはいっても今日は左手首という思わぬ荷物を抱え込んでしまった。どうなることやら不安である。まぁ、竜飛崎まで行こうという気分になるぐらいだから大丈夫かな、とは思うが…。

 ほとんど乗客のないまま、青森を出た列車は夜明けの津軽線を北上し、40分足らずで蟹田に着いた。この列車はここで終点、通勤通学客を乗せて青森へ引き返す。乗り換えの三厩行きの発車にはまだ50分余りあるので、駅を出た。

 二度と転ばぬように慎重確実に一歩一歩踏みしめながら駅前を通る国道に出ると、交通事故があったらしく、パトカーが来て、青年が自分のクルマの傍らで茫然と警察官の検分に立ち会っている。すでに救急車が来た後なのか、事故の相手の姿は見えないが、それが人身事故であったことは、そばで立ち話をしていたおばさんの会話から聞き取れた。朝早くから気の毒なことである。

 その国道を渡ると、家並みの向こうに陸奥湾が広がっていた。
 朝凪の海は鏡のように静かに空を映し、平館海峡を隔てて下北半島の海岸線が蒼黒いシルエットを描いている。上空は晴れているが、彼方には青を含んだ濃い灰色の雲が低く垂れ、それが朝日を浴びて、上の方だけ白や銀色や金色に輝いている。波静かな海にも光の色が満ちてきた。少し離れたところで、白鳥が餌を探している。ちょっと寒いが、穏やかな朝である。しかし、手首は相変わらずズキズキ痛む。

 蟹田駅の待合室のストーブにあたって手首をさすっているうちに列車の発車時間が近づいた。すでに待機中のディーゼルカーに乗り込み、何気なく窓越しにホームに目をやると、津軽特産のヒバを使った太宰治の文学碑があった。
蟹田ってのは風の町だね」
 小説『津軽』に出てくる太宰自身のセリフである。何でもない言葉ではあるけれど、出版社の依頼で津軽風土記を執筆するため、久々に故郷に帰った太宰が津軽を旅しながら懐かしい人々と再会し、楽しげに語り、酒を酌み交わす様子が目に浮かぶようだ。苦悩に満ちた生涯を最後は自殺によって閉じた彼であるが、この作品には束の間の幸福感とでもいうべき精神の静謐が感じられて、じんとくるものがある。

 その「風の町」蟹田を7時17分に発車した三厩行きは一旦海岸を離れ、雪原の中の信号場で青函トンネルに通じる津軽海峡線を分岐すると山間にさしかかる。周囲の針葉樹はヒバだろうか。樹木の知識が乏しいので、よく分からない。
 再び津軽海峡線と出合い、その高架橋の下をくぐって、今別川に沿って北上していくと、車窓にまた海が見えてきた。津軽半島北辺の海岸で、海は津軽海峡である。蟹田の海の穏やかさとは違って、北の荒海の表情。いつしかまた雪も舞っている。

 終点の三厩には8時01分に到着。駅前から8時10分発のバスに乗り継いだ。
 竜飛まで国道339号線を40分ほどの道のりで、急峻な断崖の下をくねくねとカーブしながら美しくも寂しい海岸づたいに走る。
 そそり立つ絶壁にはツララがずらりと滝のように連なり、あれが落ちてきたら大変だぞ、と思わせる。除去作業も行なわれているようだ。
 初めは数人の乗客がいたのに、みんな途中で降りてしまって、終点まで行ったのは僕だけであった。
 とにかく、本州の北の果て、竜飛崎へ到達した。雪が降り続き、暗く寂しげなところである。太宰もここを訪れているが、『津軽』における竜飛の描写は秀逸である。

 路はいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。
 「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。
 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。

 本当に路は絶えていた。国道339号線もここで終点。末端は階段になって岬の頂上へ駆け上がり、ぷつりと途切れている、というのをテレビで見たことがあるが、その階段もどこにあるのかよくわからない。
 竜飛の停留所には折り返しのバスに乗る学生風の旅行者が2人とタクシーが1台停まっているだけで、ほかに人影は見当たらない。集落全体が冬眠しているかの如く、しんと静まり返っている。

 津軽海峡日本海を分かつ岬の突端は険しい断崖となって海へ落下しているが、その崖下にへばりつくような遊歩道があるのに気づいて歩いてみた。
 岩礁の周りだけ白く泡立つ群青の海は寒々として、彼方には北海道最南端の白神岬がくっきりと望まれる。
 しかしながら、この遊歩道は風光を楽しみながら歩くには、あまりに危険な様相を呈してきた。周囲に落石がゴロゴロしており、そそり立つ絶壁を見上げれば、さらなる巨岩があちこちで「次はオレが落ちる番だ」とばかりに落下の頃合を見計らっているように見えるのだ。神の殺意。もし、あの岩が落ちてきたら…と悪夢のようなことを想像しながら足早に崖下を通り過ぎると、ようやく危険地帯を脱したところに、ここは落石の恐れがあるので通行禁止と書いてあった。反対側の入口にはこんな注意書きはなかったはずだが…。


津軽海峡の彼方に北海道の大地が見える)

 ウミウの群れがじっと風に耐える岩山を見上げ、冬枯れの急斜面につけられた階段を登ると、標高115メートルの岬の頂上に至る。
 海の眺望が三方に大きく開け、日本海から吹きつける風はいよいよ強く、地上の粉雪が煙のように地を這い、舞い上がる。


 津軽海峡の彼方の空は青いのに、本州側は暗雲が海面に接するくらい低く垂れ込める陰鬱な天候で、灯台周辺にもレストハウスにも人の気配はまったくない。
 しかし、本当に誰もいない、というわけではなかった。実はある者につけ狙われていたのである。岬の上を散策している間、その者は時折、視界の片隅にチラッと姿を現わしては消え、そろそろ竜飛の集落へ戻ろうか、と思ったところで、ついに目の前にやってきて、停まった。
 タクシーである。先刻、バス停にいた、あのタクシーだ。いま現在、この土地にいる恐らく唯一の旅行客なので、目をつけられたのだろう。
 さて、どうするか。もちろん、無視してもいいのだが、三厩行きのバスは11時過ぎまでないし、おまけに列車との接続も極めて悪いので、タクシーを利用したい気持ちは大いにある。問題は懐具合で、郵便局か銀行に行かなければ、財布の中には千円札が3枚しか入っていないのだ。しかし、手首は痛いし、この寒風の中でまだ1時間以上バスを待つのは辛いので、降りてきた運転手に三厩までの料金を尋ねると、3千円ぐらいとのこと(バスは660円)。途中に郵便局もあるというので、結局はタクシーに乗ることにした。それこそ運転手の思う壺だが、まぁ、いいか。
 しかし、運転手は少し走らせただけで、車を停めた。
「ここが有名な階段の国道ですよ」
 ずっと僕の行動を監視していたので、竜飛崎で僕が何を見て、何を見ていないか、すべて把握しているのだ。
 そこには「三厩駅行きバス停に至る」という案内板とともに国道339号線の青い標識が立ち、そこから下の集落へ雪の階段が続いていた。なるほど、これが…。車どころか自転車すら走れない国道なんて全国でもここだけではないか。そこで津軽海峡と北海道を背景に写真を撮ってもらって、改めて出発。

 ところが、車はまたも脇道に逸れて、今度は青函トンネル記念館前に停まった。竜飛はトンネル工事の本州側基地となったところで、ちょうどこの真下をトンネルが通っているのだ。ケーブルカーで地底へ下って、坑道内を見学できるそうで、興味があるけれど、当然ながら今はすべて休業中。記念館の開館期間は4月末から11月初旬までである。それでも運転手に促されて車を降り、前庭に展示された掘削機械を眺め、ここでも記念写真を撮った。
 次は東北電力風力発電実験施設「竜飛ウインドパーク」である。といっても、遠くから眺めただけだが、丘陵の稜線に沿って風車が5基並んで、北西の風を受けてクルクル回転していた。年平均風速が10メートルを超えるという有数の強風地帯、竜飛崎ならではの光景だが、昨年の台風19号(いわゆる「りんご台風」)の時にはあまりの強風で風車が1基吹き飛んだらしい。過去には観光客が強風で飛ばされ、海に転落して死亡するという事故もあったそうだが、運転手が竜飛の風の強さを語る時、何やら自慢話のようにも聞こえるのだった。

 その後、車は三厩まで快調に走った。往路は気づかなかったが、沿道にはまた例の聖書の言葉が続々と現われる。
「見よ、わたしはすぐに来る」
「わざわいなるかな、偶像崇拝する者」
「神と和解せよ」
 不気味である。
「なんかすごいですねぇ」
 運転手の解説によれば、
「田舎の人は貼らせてくれって頼まれるとイヤと言えないから…」
 とのこと。それでこんなことになってしまったのか。そういえば、処刑されたはずのイエス・キリストが実は無事に逃げ延びて最後に辿り着いた、という伝説の村が青森県の山奥にあったっけ。

 予想外に立派な三厩郵便局にも寄って、10時過ぎに三厩駅前に到着。寄り道の際にはメーターを止めていたので、料金は2,960円だった。
 今度の津軽線は10時27分の青森行きである。三厩駅瀟洒な造りで、待合室にはコーヒーや紅茶のセットまで用意されている。最果ての駅にありがちなうらぶれた感じはない。
 ホームの駅名標の下には誰が作ったのか、可愛らしい雪だるまが微笑んでいた。

 青森までほとんど眠って過ごして、12時21分着。
 今回の旅はずっと海辺ばかり廻ってきたので、今日は八甲田山中の酸ヶ湯へ行って泊まろうと思う。
 酸ヶ湯行きのバスの発車まで3時間以上あるので、昼食後、八戸行きの普通列車に乗って青森近郊の歓楽温泉街、浅虫へ行き、町なかをぶらっと散歩して、海を眺めて、バスで帰ってきた。

 さて、15時45分に青森駅前を発車したバスは市街地を抜けると真南へ向かう。郊外住宅地の停留所で数人ずつ乗客を降ろしながら山懐へ分け入るにつれ、だんだん積雪が多くなり、雲谷スキー場を過ぎる頃から雪が本格的に降り始めた。
 沿道には堆く積もった雪の壁が続き、周囲の山々も木々も路面も真っ白で、一点の汚れもない。もちろん、もはや一軒の民家も見当たらない。ひたすら雪、雪、雪、雪、雪、雪、雪…の世界である。これほどの豪雪地帯で一年中道路を確保するのは大変なカネと労力を要することだろう。

 降りしきる雪がますます激しさを増してきた。こんな山奥に泊まって大丈夫だろうか、閉じ込められたりしないだろうか、と不安にもなる。まぁ、その時はその時だ…と気楽に考えることにしよう。
 半ば雪に埋もれて、営業しているんだかどうだかよく分からない八甲田ロープウェイの山麓駅を経由して、ようやく酸ヶ湯温泉に到着。青森駅前からおよそ1時間20分。すでに17時を回っている。道路も冬期はここが終点で、この先、十和田湖方面へ続く道は雪に埋まっている。

 そんな雪深い山奥の一軒宿、酸ヶ湯温泉旅館は意外と大きな建物で、駐車場にも車がたくさん止まっていた。玄関の内側はさらに意外で、ホテル風のフロントに制服姿の若い女性がいて、予約管理のコンピュータを操作したりしている。そういえば、予約の電話をした時も出たのは若い女性の声だった。なんだか近代的な巨大観光ホテルみたいである。
 ところが、通された部屋は昔ながらの温泉旅館風。壁には明治・大正期の文筆家で、この奥の蔦温泉で生涯を閉じた大町桂月の書が掛かっている。窓の外にはどっさりと雪が積もり、やはりここは雪国の温泉宿なのだと実感する。
 一服してから、さっそく風呂へ。ここのお湯は打撲にも効くと書いてある。まぁ、一泊したぐらいで効果があるとも思わないけれど、とにかく早く温泉に浸かりたい。
 大浴場は「千人風呂」と呼ばれる総ヒバ造りの巨大なもので、泉質は酸性硫黄泉。
 濛々と湯気が立ち込める中に洗面器の音がコーンと響き、湯治の爺さん、婆さんのシルエットがぼんやり見えた。