稚内から東京へ(2)

 北海道で迎える最後の朝がやってきた。昨夜の雪も止み、よい天気になった。気温は氷点下8度。もうこのぐらいではちっとも驚かない。なんだ、その程度か、ってな感じである。
 そして、最後に神様からのプレゼント。ダイヤモンド・ダスト。窓辺に立って目を凝らすと、空気中で何かがキラキラ輝いているのが微かに分かる。ダイヤモンド・ダストは大気中の水蒸気が凍って、それが太陽の光で輝いて見える現象で、氷点下20度以下になると、よく見えるそうだが、氷点下8度でもわずかではあるけれど確かにキラキラしていた。

塩狩和寒旭川富良野〜滝川〜札幌

 昨日稚内から一緒にきたTさんは道東方面へ向かうといって早く発ってしまったが、僕はほかの人たちと朝風呂に入り、さっぱりした気分で出発の準備を済ませた。あとはもう帰るだけだ。
 それから玄関前にてみんなで記念撮影。こうして旅先で出会った多くの人々のアルバムに僕の顔が残ることになる。そのうちの何人かが将来アルバムをめくった時、そういえばこんな奴がいたなぁ、なんて思い出してくれるとしたら嬉しいことだ。日本中で一体何人が僕の写った写真を旅の記念に持っているのだろう。考えてみると、ちょっと面白い。

 記念撮影の後、駅のそばで雪に埋もれてひっそりと立つ長野正雄という人の殉職慰霊碑を訪れた。彼はこの塩狩峠の急坂で機関車から外れて暴走する客車を身を挺して止め、乗客の生命を救った鉄道員で、三浦綾子の小説『塩狩峠』はこの実話を題材にした作品である。

 さて、塩狩駅9時06分に発車した音威子府行きのディーゼルカーはユースのヘルパーさんたちに見送られて動き出すと、和寒へ向かってどんどん下っていく。旭川とは反対方向だが、これで和寒へ行けば、塩狩には停まらない札幌行きの急行列車に乗れ、旭川に早く着けるのである。今日は愛知県から来ているYさんと旭川まで同行するが、その先はまだはっきりと決めていない。

 和寒で30分ほど待って急行「紋別」(遠軽始発、名寄本線経由、キハ56-118ほか)の乗客となり、再び塩狩峠を越えてノンストップで10時35分に旭川に着いた。
 ここでYさんと別れ、ひとり列車を降りる。今日は深夜便の連絡船に乗るつもりなので、まだ時間的には余裕がある。とりあえず、駅前から久しぶりで自宅に電話を入れ、いま旭川にいて、東京に着くのは明日の夜になることを伝えた。家にはめったに連絡をしないので、僕は旅行中ほとんど行方不明の状態になっている。

 それから数十分後、僕は旭川富良野を結ぶ富良野線ディーゼルカー(キハ27-8ほか2両編成)に揺られていた。車窓に起伏に富んだ雄大な丘陵が続き、真っ白な丘にぽつんと木が1本…という感じのメルヘン調の風景が展開する。カレンダーの風景写真などでもお馴染みのヨーロッパ風の牧歌的な眺めだ。今度、北海道に来るチャンスがあったら、この辺にもしばらく滞在して丘の道を歩いてみたいと思う(その夢は自分の自転車で丘の道を自由気ままに走り回るという最高の形で実現しました)。

 
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 旭川から1時間20分。カラフルな屋根の住宅が多くなり、スキー場が見えてくると、まもなく根室本線と合流して終点の富良野に着く。ドラマ『北の国から』で有名になった北海道のど真ん中にある町だ。そういえば、『北の国から』の最終回は雪の降る夜に浜小清水のユースホステルで見たのだった。

 その富良野では何もせずにわずか4分後の12時44分発の滝川行き普通列車に乗り換える(キハ56-25に乗車)。
 空知川の清流に沿って走る列車の車内では若い旅行客が居眠りしていたりして、まったくののんびりムード。僕も川の流れを眺めたり、旭川で買った新聞に目を通したりして過ごし、13時58分に滝川に着いた。

 滝川は函館本線上の駅で、旭川から直行すれば普通列車でも1時間弱の距離だが、そこを2時間半以上もかけて大回りしてきたわけで、あまり常人のすることではない。しかし、旅は近道するよりは遠回りした方が、急ぐよりはゆっくりした方が面白い、というのも一面の真理ではあると思う。

 さて、滝川駅のホームの立ち食いスタンドでそばを食べて、14時11分発の札幌行き急行「かむい6号」に乗車。同じ区間を走る特急「ライラック」に比べると気の毒なほど空いていて、ガラガラだ(乗車車両はクハ711-202)。
 車内はポカポカと暖かで、陽のあたる座席でのどかな顔してぼんやりしていると、たちまち眠くなる。

     札幌

 列車は白く明るい石狩平野をビュンビュン飛ばし、15時21分に札幌到着。
 ホームに降り立つと、あぁ、帰ってきたなぁ、と思う。釧路行きの夜行で発ったのが2月28日の晩で、今日はもう3月15日。この半月ほどの間に旅した最果ての地もすでに遠くなってしまった。
 東京から札幌に着いた時には憧れの都へついにやってきた、という感激があったけれど、道内をぐるっと巡って札幌に戻ると、旅ももう終わりか、と寂しい気持ちになる。しかし、実際には東京まではまだ1,000キロ以上もの長い旅が残っているのだ。
 函館を深夜に出航する連絡船に乗るには札幌を19時過ぎに出る特急に乗ればよい。時間はまだあるので、荷物はロッカーに預け、札幌の街をぶらぶらと歩き回る。さすがに中心部は汚れた雪が少し残るばかりで、路面も乾き、行き交う人々のファッションも最果ての地とは違って華やいだものが目立つ。

 街を徘徊するうちに日が暮れて、ひんやりとした空気を心地よく感じながら駅に戻り、この前も入ったカレーショップに寄った。半月前にはいかにも不慣れな新人だったアルバイトの女の子(ちょっと小泉今日子似)がすっかり一人前になって、忙しそうにテキパキと働いていた。

 さあ、あとはもうただひたすら列車と船を乗り継いで帰るだけだ。
 改札口の上部に設置された発車案内ボードに小樽行きや手稲行き、千歳空港行きといった近郊電車が次々と表示されては消えていく。それらの列車で家路を急ぐサラリーマンやOLを眺めていると、この土地で生活する人々の日常的な時間と空間の外側にいる異邦人としての自分というものを自覚させられる。そんな瞬間に旅の楽しさと寂しさが凝縮されているように思う。
 その案内板に函館行きの特急「北海4号」の名前が表示され、改札が始まると、やっと自分の居場所を見つけたような気分で僕はホームへ急いだ。

     北海4号

 道内最後の列車は古臭い80系ディーゼル特急で、2両だけの自由席車はすぐ満員になった(乗車車両はキハ80-105)。函館まで4時間半。夜は長い。
 札幌駅のホームに発車のベルが鳴り響く。いよいよ札幌ともお別れだ。
 定刻19時21分、ドアが閉まり、小樽・倶知安回りの函館行き特急「北海4号」はゆっくりとすべるように動き出した。ゴトゴトと構内のポイントを渡り、本線上に出ると、列車は旅の終わりに向けて次第に速度を増していく。
 後ろ髪を引かれる思いで車窓に流れる街のネオンや街路灯を眺めながら、僕はあの札幌駅の雑踏も、華やかな地下街も、カレーショップの女の子も…すべてが浜小清水や羅臼の思い出と同じように少しずつ、しかし、確実に遠ざかっていくのを感じていた。旅の終わりにはいつも一抹の寂しさがつきまとう。

 まったく灯のない夜の山路。列車の窓から漏れる車内灯に照らされて雪だけがほんのりと白い。
 時折、小駅の灯火がひとつ、ふたつ…車窓をかすめ、駅を過ぎればまた仄かに白い闇がいつまでも続く。
 いつまでも…どこまでも…果てしなく…。

 ふと気がつくと、車窓前方に街の灯がチカチカと瞬いていた。時計をみると、すでに23時半を回っている。知らぬ間に函館が近づいていた。
 「北海4号」は函館の夜景に向かってどんどん下っていく。車内にチャイムが流れた。
 まもなく終点に到着するというアナウンスがあり、青函連絡船と明朝の青森からの接続列車、さらに盛岡からの東北新幹線とその上野到着時刻まで案内される。新幹線だと明朝10時過ぎには上野に着いてしまうらしい。でも、それは僕には速すぎる。
 ところで、放送を聞いていると、僕の眠っているうちに連絡船の乗船名簿が配布されたらしく、
『連絡船をご利用されるお客様は先ほどお配りした乗船名簿を乗船の際、係員にお渡し下さい』
 などと言っている。しかし、これは函館駅でももらえるので問題はない。
 列車が函館に近づくにつれ、車内通路に行列ができ始めた。到着と同時にホームを走って連絡船桟橋へ急ごうという人たちである。「そんなに慌てなさんな」と言いたいところだが、まぁ、仕方がない。

 特急「北海4号」は23時55分に定刻通り深夜の函館駅3番ホームに到着した。ドアが開くと同時に一斉に車外に吐き出された乗客が勢いよく前方の桟橋へと流れていく。隣のホームには古びた客車に荷物車を連ねた札幌行きの夜行普通列車が発車を待っていて、その車内には北海道に着いたばかりの旅行客が大勢座っている。これから旅の始まる彼らを少し羨ましく思いながら僕は桟橋への階段を駆け上がった。

     青函連絡船「羊蹄丸」

 今度の連絡船は0時40分出航の羊蹄丸。「北海4号」のほかにもう1本、札幌からの特急で0時25分到着の「北斗10号」の乗客を引き継ぐので、桟橋待合室は真夜中だというのに大変な混雑だ。整理する係員も懸命である。
 長らく待たされて、ようやく乗船開始となり、ざわついた行列が少しずつ前進しだした。僕も一歩一歩足を進め、案内所で入手し、住所、氏名などを記入した名簿を係員に手渡して改札を通った。
 ハッチで乗組員に迎えられて船内に踏み込んだ瞬間、すなわち、それが北海道との別れの時であった。しかし、今はとにかく早く座席を確保することが先決である。それで普通船室へ急ごうとしたら、4日前に釧路の宿で一緒だった一橋大学の兄さんに会った。彼は自由席グリーン券を持っていて、1,100円だそうだから、僕も混雑した普通船室は避けて、そっちへ行くことにした。
 係員に尋ねると、そのまま船室に行って座っていればよいというので、2階のグリーン船室へ行って、出航後の検札の際にグリーン券を発行してもらった。グリーンと名のつく席に座るのはこれが初めてだが、さすがにゆったりしていて、夜行便で眠っていこうという場合に限っていえば、1,100円の出費をするだけの価値はありそうだ。一橋の兄さんと話をしているうちにグリーン席もかなり埋まってきた。
 彼は明朝、青森から大阪行きの特急「白鳥」に乗って新潟へ出て、上越線経由で帰京するそうだ。実は僕もそうしようと思っていたのだが、「白鳥」は連絡船が青森に着くと、みんなホームまでダッシュして、あっという間に満席になってしまうといい、疲れそうなので、やめにしたのだ。で、僕は東北本線をのんびりと鈍行乗り継ぎで帰ろうと考えている。新潟回りで帰るというのも素直じゃないが、青森からずっと各駅停車というのはもっと常軌を逸している。しかし、旅の余韻を味わうにはそれもいいのではないか、と思う。

 0時40分、青函連絡船2便、羊蹄丸は静かに函館桟橋を離れた。窓の外を夜景がゆっくりと流れていく。夜更けの街のまばらな灯がなんとなく寂しげで、心に染みる。
 検札も終わり、船内がそろそろ寝静まる頃、北海道の灯は暗い海の彼方に夜空の星の如く遠く微かに見えるだけとなっていた。僕の旅のページがまた1枚、めくられようとしている。