只見線・夏

 旅行をしてきた、と他人に話すと、どこへ行ってきたのか、とまず聞かれる。しかし、そう聞かれて、ちょっと答えに困る時がある。たとえば、こんな場合。

 8月1日、日曜日。「青春18きっぷ」で日帰りの旅に出る。
 早朝5時前に小田急の始発電車で出発して、新宿駅で切符に日付スタンプを捺してもらい、まずは山手線で上野へ。
 新宿駅のホームも山手線の車内も朝まで遊んで疲れ切った顔、顔、顔…。だらけた空気が漂っていたが、池袋で乗客が入れ替わると、ようやく空気もシャンとしてきた。隣の線路をどこから来て、どこへ行くのか分からない貨物列車が走っている。山手線ですらいつもと違った旅の気分がいくらかは味わえる。
 上野からは6時04分発の高崎行きに乗車。先発の宇都宮行きの車内に自転車の輪行袋が目についた。みんな大荷物だ。鈍行乗り継ぎで北海道まで行くのかな、と考える。僕の愛車は今日は留守番だが、なんだか血が騒ぐ。

 ところで、今日の目的は只見線に乗ることである。福島県会津若松新潟県の小出を結ぶローカル線で、まだ乗ったことがない。用がないから乗らなかったわけで、今日も用はないが、乗ってこようと思う。
 「青春18きっぷ」を利用して、日帰りで、まだ乗ったことのない路線に乗ってみようと考え、関東とその周辺の路線図を眺める時、まず目が行くのが、僕の場合は只見線だった。ただ、只見線は全区間4〜5時間を要する135.2キロもの長い路線で、しかも直通列車が3往復しかない。起点駅がいずれも東京からかなり遠いこともあり、日帰りで乗り通すのは新幹線を利用しないかぎり無理だろうと考えていた。
 ところが、時刻表で検討すると、たしかに会津若松から乗ると、その日のうちに東京まで帰れないが、逆に小出から入れば、日帰り可能なことが分かった。それでさっそく実行に移してみたわけだ。ほとんど列車に乗りっぱなしだから、まともな人には理解不能の旅程である。

 さて、電車は途中で金沢からの「北陸」や青森からの「あけぼの」といった寝台特急とすれ違い、各駅に停まりながら高崎をめざす。座席はロングシートだし、車窓も単調だし、まださほど面白くはない。
 ガランとした車内は冷房の効きすぎで、Tシャツ1枚だと寒いので、弱冷房車に移る。いまや列車も冷房付きが当たり前だが、夏の汽車旅というと、昔、上野から仙台まで常磐線の古い客車鈍行に揺られて旅したことなどが思い出されて、開け放った窓から吹き込む熱風と、窓辺にのせた腕に焼きつく夏の陽射しが皮膚感覚として残っている。只見線ならあの懐かしい感じが今も味わえるのではないかと、それが楽しみだ。

     上越線

 ポカンと口を開けて眠っている青年の顔をぼんやり眺めたりするうちに、7時47分、高崎到着。上越線の8時19分発水上行きに乗り換え。6両編成だが、前3両は2つ目の新前橋で切り離し。車内は立ち客が出るほどの混み具合。まだ近郊電車の雰囲気だ。
 それでも、だんだん山が近づいて、ようやく旅の気分が出てきた。沿線にはヒマワリやカンナ、ノウゼンカズラムクゲ、アオイ、カンゾウなど夏の花が咲き、とりわけ百日紅の花が目につく。
 「標高332m」の表示がある沼田で尾瀬へ行くらしい人々を下ろし、利根川の谷がだんだん狭まって平地が尽きると、9時26分に水上に到着。この路線は久しぶりで、独特の緑色に塗られた架線柱を見ると、改めて「上越線だなぁ」と思う。

 水上から先、上越国境を越える列車の本数が少なく、上越線のネックになっているが、ここは比較的接続がよく、9時50分の長岡行きが待っている。その車内にはいかにも「青春18きっぷ」を持っています、といった風情の若い旅行者と、それからやけに虫が多い。蛾や蜂やアブ、その他小さな虫たちが飛んだり這ったりしている。

 水上を発車した電車はすぐに山越えにかかる。
 5分ほどで右車窓前方の山の中腹を巻くループ線の線路と湯檜曽駅の上りホームが見えると、電車は13.5キロもある新清水トンネルに突入し、すぐ湯檜曽に停車。下りホームはトンネル内にあるのだ。
 次の土合も下り線は谷川岳の地中深くに位置する新清水トンネル内の駅で、地上の改札口とは長い階段(486段!)で結ばれていることは鉄道好きなら誰でも知っている。隣の席の青年はわずかな停車時間の間にホームに出て、地底駅の様子をカメラに収めていた。
 長い長い国境のトンネルをようやく抜けると、気温の低いトンネル内と外界の猛暑の温度差で窓ガラスがサッと曇る。その窓越しにトンネル工事の殉職者慰霊碑が見えた。
 新潟県に入ると、山という山がスキー場になっていて、ホテルやリゾートマンションが目立ってくる。夏のスキー場に活気があるはずもなく、すべてがまるで廃墟に見える。それでもやはり上越線の車窓は美しく、飽きることがない。ほとんどトンネルばかりの上越新幹線にはない汽車旅の味がある。
 トンネルを抜けてきた新幹線の高架橋が前方に立ちはだかると越後湯沢。新幹線に接続する北越急行線経由の金沢行き特急「はくたか」と直江津行き快速を先発させるため、14分停車。ホームに降りて身体を伸ばす。

 越後湯沢を出て、電車は魚野川を右に見ながら走る。沿線には相変わらずスキー場が多いが、風景はだんだん開けてきた。青々とした田圃がさわさわと風にそよぎ、どこの駅にも夏の花が咲いている。

     小出

 小出には11時23分に着いた。次の只見線は13時17分発で、まだ2時間近くもある。会津若松で2時間なら、ちょっとした観光ができるが、小出には特に見どころもなさそうだ。駅前もがらんとしている。とりあえずカンカン照りの中をあてもなく歩き出す。気温は東京と変わらず、すさまじく暑い。
 小出の市街地は魚野川の対岸にあり、立派な橋で結ばれていた。

 橋から眺める魚野川の青い清流と白く乾いた中洲、鮎釣りをする人々。まるで日本画家・川合玉堂の名作「夏川」そのままの風景だ。ツバメが飛び交い、トンビやキリギリスの声が聞こえた。
 駅近くの食堂で昼食。
只見線に乗るの?」
 と店のおばちゃん。正体不明の客のつもりだったが、すっかり見抜かれているのだった。

     只見線

 さて、只見線小出駅の駅舎から一番遠く、上越線ホームに比べて短く狭い4・5番ホームから発車する。ホームの屋根も古めかしく、只見線の線路だけ雑草が生え、ホームのコンクリートの割れ目からも草が伸びている。線路の先にはSL時代の名残の転車台が健在だ。

 そんな4番線で列車がエンジンを震わせて発車を待っている。白い車体の下側に濃淡2色のグリーンの帯を巻いたディーゼルカー・キハ48とキハ40の2両連結。国鉄時代からの古い車両で、予想通り冷房なし。車掌が扇風機のスイッチを入れ、窓を開けて回っている(車内の壁には扇風機の数だけスイッチがあり、乗客が自由に入れたり切ったりできる)。
「暑いですねぇ。トンネルに入ったら少しは涼しくなりますから、それまで我慢してください」
 トンネルというのは新潟・福島県境の長いトンネルのことだろう。

 定刻13時17分に発車。なんとこれが5時30分の始発列車以来の二番列車である。地元客だけならガラガラだろうが、「青春18きっぷ」族のおかげでそれなりの乗車率。ただ、僕も含めて「青春18きっぷ」では只見線の営業成績には何の貢献にもならないのだろう。
 小出駅の構内を出るとすぐに右にカーブして、魚野川の鉄橋を渡り、あとはわりと平凡な田園風景の中をしばらく走る。ディーゼルカーならではのエンジン音や排煙のにおいが昔の旅を思い出させる。冷房ナシも懐かしいといえば懐かしいが、やはり暑苦しい。
 小さな無人駅に停まりながら、魚野川の支流の破間川に沿って遡り、だんだん谷が狭まって、新潟県側最後の駅・大白川に着くと、ここでタブレットの交換。
 鉄道用語でのタブレットとはいわば単線区間の通行手形のようなもので、特定の区間に1つのタブレットしかなく、それを持たなければその区間に列車が入れない。これで列車同士の衝突を防ぐという昔ながらのしくみである。
 運転士はここまでのタブレットを大白川の駅員に渡し、かわりに次の区間タブレットを受け取るわけだ。こんな方式がまだ残っていることにも驚くが、ローカル線では合理化で無人駅が当たり前の時代に、こんなちっぽけな山間の駅に駅員がちゃんといることにも驚いた。この駅にやってくる列車は休校日運休の通学列車を含めて1日5往復しかない。
 とにかく、大白川を14時05分に発車すると、いよいよ山越えで、次の駅まで23分もかかる。急勾配の連続となり、トンネルや落石・雪崩避けのシェルターが多くなった。トンネルの両端にもシェルターが設置されている。只見線沿線は名だたる豪雪地帯だが、特にこの区間は雪が深く、冬の積雪に備えて、標識も高い支柱の上に取り付けられている。並行する国道も峠の区間が冬期は閉鎖になるそうだ。
 破間川の支流・末沢川の峡谷沿いに上っていき、やがて列車は長いトンネルに入った。新潟・福島県境の越後山脈を貫く六十里越トンネル。車掌さんが言っていた通り、開け放った窓から吹き込む風が冷えてきた。

 トンネルを抜けると田子倉駅。只見川を堰き止めた田子倉ダム沿いの急斜面にへばりつくような駅で、駅そのものがシェルターに覆われている。まわりに人家もなく、毎年12月から3月までの4ヶ月間は全列車が通過する。いわば冬眠する駅なのだ。
 その田子倉を発車するとすぐにまた長いトンネルに入り、これを抜けると少し平地が開けて水田や家並みが現われ、只見に到着。乗客がどっと降り、どっと乗ってくる。林間学校の帰りらしい小学生の団体が乗ってきたため、車内が賑やかになった。マウンテンバイクの輪行青年も1名。この駅でまたタブレットを交換。
  
 只見から先はずっと只見川沿い。この川は元来、険しい峡谷を流れる急流だったはずだが、いくつものダムで堰き止められ、谷間に満々と緑色の澱みをつくりながら続いている。只見線のかぼそい線路はトンネルをくぐり、鉄橋を渡りながら、延々と山峡を縫う。ときどき谷が開けて小さな集落があり小さな無人駅に停まる。新緑や紅葉の頃は車窓もさぞかし見事だろうし、雪の季節にも乗ってみたい気がする。

 小出を発車してから2時間が過ぎて、15時18分、線路のすぐ横が只見川の水面という会津川口に到着。ここで初めて対向列車と行き違うため14分停車。只見〜会津川口間のタブレットを運転士から受け取った駅員が、あとから来た小出行きの運転士に渡し、小出行きから受け取ったタブレット会津若松行きの運転士に渡す。アナクロニズムの極致のような作業ではある。



 それにしても、都会の電車で14分も停まると乗客が怒るだろうが、ローカル線の旅ではこういう時間が有り難い。みんなホームに降りて、タバコを一服したり、記念写真を撮ったり、改札を出て売店で買い物をしたりしている。この駅は行政上、金山町に属していて、「妖精の里」というのが町のキャッチフレーズらしい。なぜかは不明。まぁ、いるのでしょう。妖精が何人か…。

 さて、再び動き出した列車はなおも同じような風景の中を黙々と走る。今日は4時起きだったせいもあり、睡魔が襲ってくる。
 主要駅の会津柳津は知らないうちに通り過ぎて、ふと目が覚めると塔寺という山間の小さな駅だった。
 すぐにまた動き出し、相変わらず鬱蒼とした山林がどこまでも車窓に続くのかと思いきや、突如として左下に視界が開け、列車は急勾配を下りながら左に大きくカーブして、いきなり田園風景の中に飛び出した。会津盆地に下りてきたのだ。立派な家並みが近づいてきて、16時43分に会津坂下に到着。小学生の団体が降りていった。
 ここからはずっと田圃や畑や果樹園の中を行く。山に囲まれた盆地とはいえ、今まで狭く険しい谷沿いの旅だったから、やけに広々と明るく、心の中まで晴れ晴れとした気分になる。重畳たる山々が西日を浴び、遠い山ほど霞んだ、色彩のグラデーションが美しい。
 会津坂下から列車はまっすぐ南に向かい、会津高田からは東に向かい、次に北へ針路を変えると、いよいよ会津若松市街に入り、第三セクター会津鉄道(旧国鉄会津線)の線路が右から寄り添ってきて、西若松に着く。ここで小出行きの最終列車と行き違い、続いて七日町に停まれば、次は終点の会津若松だ。17時20分到着。

     磐越西線

 ここで磐越西線に乗り換えだが、18時14分発に乗ればいいので、少し街を歩いてみようと思っていた。ところが、すぐに発車の17時31分発快速「あいづライナー6号」が国鉄時代の特急列車そのままの姿なのを見て、これに乗車。先頭のヘッドマークもかつて上野〜会津若松間を結んでいた特急「あいづ」のものをそのまま使っている。古いとはいえ、只見線とは比較にならないぐらい快適な車両である。

 列車は右に左にカーブしながら勾配を上り、磐梯山の南麓、猪苗代湖の北側を行く。磐越西線に乗るのは中学時代以来だから実に久しぶりだ。あの時は8泊9日の東北ひとり旅で、最後に新潟から会津若松経由の上野行き急行「いいで」に乗ったのだった。春先のことで猪苗代付近は激しい雪だったのを思い出す。
 この区間にある中山宿という駅がかつてはスイッチバック式だったが、その後どうなっただろうかと車窓に注目していると、今は本線にホームを添えただけの普通の駅に変わり、まもなく眼下に昔の中山宿駅のホームや引込み線の線路が草に埋もれていた。

     東北本線

 郡山には18時29分着。駅ビルの食堂で夕食をとり、19時41分発の東北本線黒磯行きに乗る。隣のホームに札幌行きの寝台特急北斗星」が到着し、発車していった。北海道へ向かう人々を羨ましく思うが、こちらは東京をめざして各駅停車で夜道を南へ向かう。
 黒磯、宇都宮で電車を乗り継ぎ、車内も深夜の雰囲気になってきたが、小山で花火大会帰りの茶髪・浴衣・ケータイ族がどっと乗り込み、大混雑となった。しかし、その騒ぎも古河あたりまで。
 只見線で小出からずっと同じ車両にいた「青春18きっぷ」の男女5人組が少なくとも宇都宮までは同じ列車に乗っていた。同類がけっこういるらしかった。
 大宮を過ぎて、今朝すれ違った寝台特急「北陸」と再びすれ違い、23時27分着の赤羽で新宿行き最終の埼京線に乗り換え。新宿には23時49分に帰り着いた。
 一日乗り放題の切符だからといって、早朝から深夜までこんなに乗りまくるところが、我ながら、いかにも貧乏性という感じではある。