東京~釧路航路(1997年8月3日‐5日)

 ついに北海道に旅立つことになった。

 愛用の空色のビアンキを連れて・・・。

 これまでにも北海道は幾度となく旅をしたけれど、それはすべて雪の季節のことだった。夏の旅は今回が初めて。

 果てしなく広がる緑の大地への憧れはあったものの、夏の北海道といえば、全国から観光客がどっと押し寄せ、どこへ行っても人、人、人、人、人・・・。そんなイメージがあって、ずっと敬遠してきた。
 しかし、自分の旅の相棒として自転車が確かな存在となるにつれて、やはり一度は愛車で北海道の大地を思う存分に走り回りたいという気持ちが自然に膨らんできたわけである。

 それにしても、大した進歩。初めて自転車で旅をした一昨年が房総半島一周だった。そして、去年が長崎県対馬。この間、日帰りサイクリングの距離もどんどん延びて、今春には三浦半島一周で190キロ以上も走り、その気になれば1日200キロにも手が届くところまできた。ここまでくれば、やはり一度は北海道を走らねばなるまい。
 しかも、今回は初めてのキャンプツーリング。自転車で旅をするにはやはりテントがあったほうがいい、というのがこれまでの経験から得た結論である。特にたくさんの観光客が押し寄せる夏の北海道では飛び込みで宿に泊まれる保証がないから、野宿の準備をしておいたほうが安心だし、気楽だし、安上がりでもあろう。そのぶん先行投資の費用は嵩んだけれど。

 というわけで、出発当日8月3日、日曜日の夕刻。今まではリュックサック1つの身軽なスタイルで走っていたのに、今回は自転車にフロントバッグやサイドバッグを取り付け、テントや寝袋やロールマットも積む重装備。細身のビアンキにもかなりの負担をかけることになって、実際に乗ってみたら「えーっ、こんなに重いの?」と内心驚いてしまった。これで長い距離を走れるのだろうか。いきなり不安になったが、もう出発の時間である。

 さて、夜の都心を25キロ走って21時前に有明の東京フェリーターミナルにやってきた。スタート直後はふらついていたものの、慣れればなんとか走れるようだ。
 そして、今回も旅立ちは船。かつては汽車旅派だったが、最近はすっかりフェリー&自転車派に鞍替えしてしまった。
 
 岸壁に接岸しているのは、これから乗る近海郵船の「サブリナ」。1990年に就航した全長186.5メートル、総トン数12,524トン、定員694名の大型フェリーである。
 20時40分に釧路から到着したばかりで、車両甲板からクルマやバイクが続々と降りてくる。
 折り返し出航の予定時刻は23時55分。まだ3時間もあるのに、すでに駐車場にはかなりの数の乗用車やバイク、それに自転車が待機している。昨年の北九州行きよりもバイクと自転車ははるかに多い。やはり、夏の北海道はツーリングの聖地なのだろう。

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 とりあえず、今年完成したばかりの真新しいターミナルビルの2階にある近海郵船の窓口で乗船手続きを済ませる。自転車の乗船開始予定は23時頃とのことで、それまでは特にすることもない。

 3階のラウンジには、自転車やバイクのツーリストとは明らかに服装の違う観光客の一団が陣取っていた。
 ははぁ、これが例の・・・。
 例の、というのは新聞で見つけたツアーの募集広告のことで、「近海郵船25周年記念企画」とかで、東京・釧路間のフェリー往復に高級ホテル1泊付きで総額14,900円という超格安ツアーが組まれ、今日はその出発日なのだ。これがどのぐらい格安かというと、僕が払ったフェリー料金が釧路までの片道2等で14,700円。それに自転車料金2,100円を加えて合計16,800円である。なんだかバカバカしくなるではないか。まぁ、現地で1泊だけの北海道旅行なんてさほど魅力は感じないけれど、それにしても、この多客期にそんな格安ツアーを企画するなんて、フェリーは空いているのだろうか。僕は昨年の北九州行きの混雑ぶりを勘案して、今回は異例の早さで6月初めに予約を入れたのだが、その時点で8月1日出発便はすでにキャンセル待ちになっていた。8月3日の予約が取れたものの、これもすぐに満員になるのだろうと覚悟していたら、7月末の新聞に3日出発のツアー募集広告が出ていたから不思議に思っていたのである。北海道へは飛行機が当たり前の時代に釧路まで海路はるばる31時間半もかけて行くような悠長な人間はやはり奇特というべきなのかもしれない。

 とにかく、その格安広告に釣られたらしい老若男女でラウンジはいっぱいである。彼らと違って、通路や階段にぺたりと座り込んでいるのがバイクや自転車の一派で、僕も階段に腰を下ろし、音楽を聴きながら文庫本を読んで時を過ごす。退屈だけれど、これは幸せな退屈なのだ、と自分に言い聞かせる。

 22時半頃、駐車場の自転車に戻り、いかにもサイクリングのベテランといった風のおじさんと話をするうちに乗船開始。
 乗船口付近に集結した自転車のほとんどがキャンプ装備をしていて、お互いに似たような感じである。昨年の九州ツーリングでは一人も見かけなかった女性サイクリストも少なくない。
 係員の指示に従って巨大な格納庫のような車両甲板に自転車を残し、船内で必要なものだけリュックに詰めて階上の客室へ。

 乗船券に示された302号室1番の2等寝台に荷物を下ろす。1区画に2段ベッドが4つで定員が8名。カーテンを閉めれば、とりあえず個人空間を確保できるし、ベッドは長さ2メートル余り、幅70センチ程度だが、居住性は悪くなさそうだ。昨年の「おーしゃんいーすと」のすし詰めの大部屋とは比較にならない。この船の2等(ツーリストクラス)にも寝台と和室の両タイプがあるのだが、予約の時点で迷わず寝台を希望したのは正解だった。

 船内をあちこち探検した後、展望浴場の今夜の利用時間は24時までということなので、さっそく汗を流すが、ひどく混んでいて、ゆったり感はなかった。
 カフェテリアのフロアでは鉄板を持ち出し、焼きそばを作っていて、ソースの匂いが乗客を誘惑しているが、ここは我慢して後部甲板に出る。風呂上がりの身体に夜風が心地よい。

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 出航は定刻通り23時55分。すでに貨物の積み込み作業も完了し、巨大な船体を岸壁に繋ぎ止めていた太いロープが地上作業員によって次々と解かれ、船上のローラーで巻き取られると、「サブリナ」はゆっくり静かに離岸した。

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 たくさんの船客が甲板で出航の様子を眺めている。さっきターミナルのラウンジで東京ディズニーランドのお土産を抱えた一団を見かけたから、きっと旅の終わりを噛み締めている人たちもいるに違いない。
 岸壁では見送りの花火を打ち上げている若者がいたが、その人影もまもなく闇に紛れ、ささやかな花火も徐々に遠ざかり、周囲に深夜の湾岸都市の夜景が広がっていく。高層ビル群の赤いランプが焚火の残り火みたいで、どこか物寂しい。わけもなくセンチメンタルな旅の始まりである。

 

   ☆   ☆   ☆   ☆   ☆


 快適なベッドで一夜を明かし、目が覚めたら5時過ぎだった。
 船内の掲示によれば、8月4日の日の出時刻は4時46分とのこと。甲板に出てみると、すでに東の水平線上に太陽が浮かんでいた。

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(房総半島沖の夜明け)

 エントランスホールの航路案内図はランプの点灯によって現在の航行地点がわかる仕組みで、見れば、船はまだ房総半島の東方海上、大原の沖あたりにいる。意外に進んでいないが、これは航行する船舶の数が多くて速度規制の厳しい東京湾を出るのに時間がかかったせいだろう。これからは航海速度23.2ノット(およそ時速43キロ)でひたすら北をめざす。
 中学生ぐらいの女の子が3人起きてきた。
「エーッ、まだこんなちょっとしか進んでないのォ?!」
 釧路に着くのは明朝7時半。まだまだ先は長い。

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 7時頃、ようやく犬吠埼の沖を通過。といっても、陸地はまったく見えない。晴れてはいるが、水平線付近は少し霞んでいる。
 ほかに船の姿もなく、ただ青海原が果てしなく広がるばかり。

 

 驚いたことに、そんな広い海の上を1匹の赤とんぼが飛んでいる。一体、どこからきて、どこへいくのだろう。その小さな命の冒険は人間の眼にはあまりにも無謀で心細いものに映るが、彼らは生きることにも死ぬことにも不安などありはしないのだ。

 

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(コーヒーラウンジ。早朝なので、まだ誰もいない)

 

 8時頃、例のサイクリングおじさんと顔を合わせたので、言葉を交わしていると、窓の外を大型船がすれ違っていった。船腹に真っ赤な太陽が描かれている。
「あぁ、『さんふらわあ』ですね」
 苫小牧発の東京行きだろう。ふたりとも自然に足が後部甲板に向かい、その後ろ姿を見送った。洋上でのフェリー同士の出会いというのはいいものである。

 陸の影はもはや見えそうになく、夏の日差しにきらめく海は青く穏やかで、実に単調な航海。
 わずかにミズナギドリが大きな円を描きながら海面すれすれを滑るように飛び回っているだけで、昨年はフェリーに乗るたびにたくさん目にしたトビウオもほとんど見かけない。

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(夏の海をゆく)

 

 10時、まもなく「ブルーゼファー」とすれ違う旨、船内アナウンスが流れた。東京と釧路を結ぶ「サブリナ」の僚船である。

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 左舷前方から接近してくる「ブルーゼファー」の真っ白な船体を眺めていると、立派なカメラを手にしたおじさんが、たった今、反対側の海面にイルカが姿を見せたと教えてくれた。その後、クジラが出たという話も耳にしたが、僕はこの航海中にイルカもクジラも目撃することはできなかった。

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(洋上の出会い~姉妹船「ブルーゼファー」。東京着は20時40分。ここは茨城県沖だが、まだ10時間以上もかかる)

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 双子の姉妹のようにそっくりな「ブルーゼファー」が南へ遠ざかってしまうと、「サブリナ」の周辺には再び青い海のほかは何も見えなくなった。カメラやビデオを手に甲板に集まっていた人々も三々五々散っていった。さすがに退屈になってきた。

 船内にどんな設備があるかといえば、レストラン、コーヒーラウンジ、テレビコーナー、売店、ゲームコーナー、カラオケルーム、プロムナードギャラリー(十勝地方の風景写真を展示)、展望浴場(10時~22時まで)など。要するにテレビ、読書、昼寝、散歩ぐらいしかすることはない。

 甲板のベンチに陣取ってビル・エヴァンスのピアノを聴きながら、文庫本を片手にウトウトする。なかなかいい気分ではある。最高にゼイタクな時間といってもいいかもしれない。
 どこかから、カモメが飛来し、船尾で翼を休め、また飛び去った。

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(カモメが飛んできて、翼を休める)

 11時半に塩屋崎を通過。やっと福島県沖に到達した。
 12時15分にレストラン「ラヴィアンローズ」が昼の営業を開始。
 朝食は乗船前に用意しておいたパンとお茶で済ませたが、すでに持ち込みの食料は尽きたので、昼はレストランで900円の海老ピラフを食べる。セルフサービスなどではない、わりと本格的なレストランで、接客係の数も多い。味も悪くなかった。

 ようやく宮城県金華山沖に達したのは15時過ぎのこと。もちろん、これは船内の航路案内図のランプ表示で分かることである。乗客が次々とやってきては、
「ずいぶん来たねぇ」
 などと口々に言っている。東京を出て15時間余り。それでもまだ航程の半分である。北海道は遠いのだ。

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 午後になって海の色は深みを増し、北方の海らしくなってきた。
 至るところで群青色の海面が山脈のように盛り上がっては白く砕け散っている。いくらかうねりがあって、多少の揺れを感じるが、大したことはない。かつて北海道旅行の際に利用した冬の青函連絡船の揺れ具合に比べれば、おとなしいものである。

 それにしても、海の上を旅していると、世界が普段とは違った姿に見えてくるものだ。この船の真下に広がる深遠な闇の世界を想像すると、気が遠くなるほど圧倒的な海の大きさに戦慄を覚えるし、はたまた一方では、この地球も実はぽっかりと宇宙に浮かぶ濡れた石ころに過ぎないんだ、と考えてみたりもする。いずれにせよ、地上での傲慢な振舞いが空しく思われるほど、人間というのはちっぽけな存在なのだと感じる。海の上を飛ぶ赤とんぼとどれほどの違いがあるのだろう。そんなことまで考えた。

 18時。夕暮れの三陸沖を航行中。ひと風呂浴びて、夕涼みに再び甲板に出ると、オレンジ色に染まった西の空の下に陸のシルエットがうすぼんやりと浮かび上がっていた。東京湾を出て以来、初めて目にする陸地である。

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三陸沖の夕暮れ)

 本日の日没は18時42分。
 荘厳な夕陽が北上山地の彼方に没すると、海はたちまち暗がりに包まれ、遠い町の夜景が浮かび、灯台が光を放ち始める。その光景をたくさんの人々が甲板に出て眺めている。海風が冷たく感じられるようになってきた。

 夜の訪れとともに賑やかに明かりをともした「サブリナ」は針路を北東に変えて次第に本州から遠ざかり、再び陸地の灯はどこにも見えなくなった。
 無数の星がきらめき、天の川が流れる夜空に煙を棚引かせながら船は進み、その航跡をかき消す闇の水平線上には蠍座のアンタレスが赤銅色に輝いていた。
 明日はいよいよ北海道上陸。この星空そのままに晴れてくれればいいけれど。

 

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 北の海はすっかり霧の中であった。
 8月5日。東京発釧路行きの近海郵船フェリー「サブリナ」船上で迎える2度目の朝。
 日の出は昨日より30分も早まって4時16分とのことだが、朝日が輝くこともないまま、白々と夜が明けた。
 「サブリナ」は濃霧をかき分け、のっぺりとした海面を切り裂くように黙々と進んでいる。いつしかぽつぽつと雨も降り始め、夏とは思えないほどに風は冷たく、肌寒い。

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 昨日は終日真っ青な夏空の下の航海で、夜にはきれいな星空が広がり、天の川もくっきり見えていた。しかし、それも遠い過去のものとなり、全くの別世界へ運ばれてきたのを実感する。まだ、めざす大地は見えないが、出迎えに現われたカモメが港の近いことを教えてくれる。

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 6時40分に船長自らのアナウンスがあり、船は現在釧路の沖合10キロ地点を航行中で、釧路港には定刻通り7時30分に入港予定と告げられる。
 テレビの天気予報に人だかり。今日の北海道は全面的に雨だそうだ。船内で顔なじみになった自転車旅行のおじさんが、
「最悪の天気だなぁ」
 と呟く。まったく、である。おじさんは今日は摩周湖方面まで走るらしい。僕の予定はまだはっきりしないが、この雨では気勢が上がらない。

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(雨に煙る釧路港

 甲板に出てみると、いつの間にか釧路の港が間近に見えてきた。すべてが灰色で、これでは冬の北海道と何ら変わりがない。夏の北海道は全く初めてで、緑輝く爽やかな大地を走りたいと憧れていたのだけれど。
 団体ツアーのおばちゃんに、
「あら、自転車なのぉ? 大変ねぇ」
 と言われる。本人もまだどのぐらい大変なのか、あまりよく解かっていないのだが。

 

 7時15分頃に車両デッキへの通路が開放され、自転車のもとへ。重い荷物を積んだままの愛車の固定ロープを解いてやる。いよいよ北海道の大地を走り出すのだ、という気分にはなってきた。ほかのサイクリストたちもそれぞれに自転車や装備のチェックをしつつ、接岸作業の完了を待っている。これから始まる旅への期待と不安が交錯して、胸が高鳴るようなひととき。

 いつ接岸したのか分からないうちに7時半を過ぎ、さらに10分ほど待って、ようやく下船開始。係員の指示で自転車を押したままスロープを下ると、真っ先にカモメの金属的な鳴き声が耳に届く。倉庫の屋根にオオセグロカモメがずらりと並んでいて、陰鬱な空模様と相まって、いかにも北国の港だな、と思う。寒々とした眺めであるが、寒くはない。もちろん、暑くもない。

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 ターミナルビルの玄関口でサイドバッグにレインカバーを掛け、荷台に積んだテントや寝袋、マットを半透明のビニール袋でくるみ、Tシャツの上にレインウェアを着込んで、雨の中を8時前に出発。いよいよこれからはあまり頼りにならない自分の体力だけが頼りの自転車旅行だ。

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(フェリーターミナルをあとにいよいよ北海道の大地を走り出す。)