4月9日に筑波山に登ってきた話の続き。女体山、男体山それぞれの頂きに立ち、あとは下るだけというところから。
帰りは前回と同じ御幸ヶ原コースをケーブルカーに沿うように下る。この道はいわゆる見どころはさほどないが、意外に険しいという印象がある。それでも子供たちも含めてたくさんの人が上り下りするルートである。
御幸ヶ原をあとにしたのは11時50分頃。
丸太の階段を下り始めてまもなくニリンソウが咲いていた。
そばにカタクリも咲いていて、下から登ってきた人が「カタクリが咲いている」と言っていたから、ここから下には咲いていないのだろう。実際、見かけなかった。
ブナ林から針葉樹と広葉樹の混交林に変わり、常緑樹も増えてくる。子どもの頃、このルートは家族で何度も上ったり下ったりしたが、こんな山の中で、ひとり取り残されて夜を迎えたら、どんなに恐ろしいだろう、などと想像したことを思い出す。
香取神社。
男女ノ川の湧水。そばでミソサザイがさえずっていた。アオゲラの声も聞こえ、すぐ後にドラミングが山中に響き渡る。山全体ではヒガラが多い印象。
御幸ヶ原のすぐ下にも源流があったが、男女ノ川の水源は山の中にいくつもあるのだろう。それらが合わさって山を流れ下り、桜川に合流し、土浦で霞ケ浦に注いでいるのだ。その先は利根川、そして太平洋である。
旧中ノ茶屋跡。ここでケーブルカーが行き違う。
子どもの頃はこの中ノ茶屋も弁慶茶屋も健在だったが、山頂の店と違って、商品を運び上げるのも、店主が通うのも大変な労力が必要で、後継者がいなかったのだろう。
1時間ほどでケーブルカーの宮脇駅まで下ってきた。ミツバツツジが咲いている。
桜がまだ美しさを保っている。
筑波山神社拝殿。山自体が御神体なので、ここには拝殿だけで本殿はない。
拝殿の脇に生えているのはマルバクス(丸葉楠)。葉っぱが丸っこいクスノキで、非常に珍しいもの。牧野富太郎が命名したとのこと。
境内社の日吉神社の三猿。日本最古と伝わり、有名な日光東照宮のものよりも古い。
ご神木の大杉の下でガマの油売りの口上の実演が披露されている。観客数名。
口上を考案した初代永井兵助は山上の「ガマ石」(雄竜石)の前で文句を考えたと伝わる。
さて、神社周辺はどこを歩いても懐かしい風景ばかりなので、しばらく散策して、あとは帰るだけなのだが、まだ13時半である。
ということで、ここからバスに乗るのはやめて、麓まで歩こうと思う。
筑波山神社から麓の北条集落までまっすぐ下る「つくば道」を行く。江戸の鬼門守護として筑波山を崇敬した徳川家光が整備させたといい、当初は神仏習合時代の中禅寺(現在の筑波山神社)の伽藍整備のための資材運搬路として利用され、そのまま参詣道となった道である。いまは「日本の道百選」にも選ばれている。
昔はずっと石段が続いたそうだが、今は車も通れるように舗装されており、石段は神社直下にごく一部残るばかり。ただし、道は超急勾配が多く、僕は自転車でも何度か登ったが、ほぼ全区間押して歩いた。怖いので自転車で下ったことはない。
旧筑波山郵便局。
謎のカエル。
宝暦9(1759)年造立の一の鳥居。ここから上が神域となる。
「親鸞聖人御舊跡地」と刻まれた石碑。小さな文字は判読不能。親鸞聖人が筑波山を訪れたことは確かなようであるし、男体山直下の「立身石」(間宮林蔵が立身出世を祈願したことからこの名前)には親鸞が餓鬼道を彷徨う亡者たちを念仏の力で救済したという伝説があるので、これはその旧跡地へ通じるという道標なのかもしれない。あるいは、この場所に何かがあったのだろうか。
さて、山麓まで下ってきた。途端に真っ平な田園地帯が広がる。今年初めてツバメの姿を目にし、ヒバリの声を聞く。鯉のぼりも泳いでいる。
馬頭観音。
風格のある旧家が並ぶ神郡の集落。
あの山頂からずっと歩いてきたのだ。
女体山頂付近をズームアップ。頂上に立つ人が見える。その下はロープウェイの駅。
さて、ここから北条までつくば道を歩くつもりだったが、帰りのバスのことも考えて、筑波山麓のかつての筑波鉄道筑波駅跡(現・筑波山口バス停)をめざすことにする。
ヒバリやカエルの声を聞き、春の草花やツクシに目を留めながら、田園風景の中を歩く。歩きながら、僕は登山よりはこういうのどかな道をのんびり歩くことのほうが好きなのだと改めて思う。
農業用溜池の燧ケ池。
ツグミ。
どこまでも歩いていきたくなる道。
つくばりんりんロードの桜並木。旧筑波鉄道の線路跡。
もう何度も自転車で走った道だが、こういう風景を見ると、また走りたくなる。また来ることになるのか?!
筑波駅跡に到着。
まさに発車寸前の15時05分発つくばセンター行きバスがあり、ぎりぎりで飛び乗る。
18時過ぎ帰宅。26,838歩。