碓氷峠を横川から軽井沢まで歩く(その2)

 9月9日(土)に群馬県方面に出かけた話の続き。

 横川駅から信越本線廃線跡を整備した「アプトの道」を歩き、いよいよ旧線跡を歩き出したところから。

 歩き出して、まもなく北原白秋の歌碑がある。

 何と書いてあるのか、読めないのだが、松井田町による解説板によれば、

 「うすいねの 南おもてと なりにけり くだりつゝ思ふ 春のふかきを」

 と刻まれているようだ。大正十二年春、当時39歳だった白秋が信濃を訪れた帰り、ここ碓氷峠で「碓氷の春」と題して詠んだものだという。ちょうど100年前だ。元は横川駅近くの国道沿いに建てられたが、鉄道文化むら開設にあたり、ここに移されたそうだ。なお、松井田町は現在は合併で安中市編入されている。

 歌碑の先には初めてのトンネルがある。俄然、廃線歩きの気分が高まってくる。「第一号トンネル」の標柱があり、内部には照明も点っている。18時に消灯されるそうだ。

 石積みの坑口、レンガの内壁。見事な造りのトンネル。現代人にこのようなトンネルを造れ、と言っても、なかなか難しいのではないだろうか。

 カメラの感度を上げて撮影したので、実際はもう少し暗いが、真っ暗ではない。

 いよいよ山深くなり、周囲の地形も険しくなってきた。道は一貫して上りで、ここからはトンネルが連続する。このあたりから最急勾配66.7パーミルが続いているはずだ。

 第二号トンネル。右上に道路が見えるが、クルマはまったく通らない。横川を出てから、まだ誰にも会っていない。

 第二トンネルを抜けると、左下に碓氷湖らしき水面が見える。ダムが見えるから人造湖だ。水面を覆っているのは流木の類か。下へ通じる道があるが、立ち寄らない。

 第三号・四号・五号トンネルが連続する。

 横川駅から4.3キロ歩いて、この区間で一番の見どころ「めがね橋」まであと少し。

 第五号トンネルに入ると、闇の中から人の声が聞こえてきた。

 若い男の二人組とすれ違う。僕以外にもこの道を歩いている人がいたことに、少しホッとする。

 後方から「トンネルばかりだ」「この道、どこまで続くんだ?」などと言う声が聞こえ、二人はまた引き返してきたようだ。

 さらに前方からも人の声が聞こえてきた。この先のめがね橋付近には観光客がいるらしい。

 五号トンネルを抜けると、碓氷川の深い谷に架かる橋を渡る。それが通称「めがね橋」だ。正式には碓氷第三橋梁。

 橋の上から右の上流側を見ると、新線の橋が見える。あの橋をEF63の重連に後押しされながら特急電車が上っていく光景というのは横川~軽井沢間の鉄道写真の定番だった。

 それにしても、今にも列車が姿を現しそうに思えるほど、現役感がある廃線跡だ。

 眼下には国道18号線の旧道。僕以外はみな車で来て、めがね橋を見物しているようだ。

 めがね橋の先の第六号トンネル。

 橋を渡ったところから下へ降りる階段があるので、下から橋を見上げるべく、下ってみる。「熊出没注意」に「山ヒル注意」。どちらも嫌だ。

 200万個以上のレンガを使用した国内最大のレンガ造アーチ橋だそうだ。

 4連アーチで、長さは87.7メートル。

 さて、この「めがね橋」が現役だった昭和三十二年の夏に当時24歳の父がここを訪れ、写真を撮っているのをつい先日、父の古いアルバムの中に発見した。

 父と祖父母、曾祖母の4人で軽井沢へ車で一泊旅行をしたようだ。写っているのは祖父の車だろう。そして、めがね橋を行く列車はED42と思しき電気機関車が3台連なっている。当時は軽井沢側にも1台ついて、計4台の機関車で峠を上り下りしていたようだ。アルバムのこの写真の下には「信越線」とだけ手書きしてあるが、発見した時にはよくぞこんなに貴重な写真を撮っておいたものだとひとりで興奮した。

 この66年前の写真と同じ場所で写真を撮ろうと思ったのだが、改めて写真を見ると、思ったより橋から離れた場所で撮ったようだった。写真の記憶を頼りに撮ってみたが、ちょっと違った。もう少し離れたら、同じように見えたのかどうか。

 当時のフィルムカメラと今のデジタルカメラでは写真1枚のコストが全然違うので、父は1枚しか撮っていないが、僕は写真を撮りまくってから、再び階段を登って橋の上へ。

 ところで、橋の下に「めがね橋」停留所があったので、バスの時刻を確かめようとしたら、「休止のお知らせ」とあり、「碓氷峠旧道が災害通行止め」のため、当停留所を通るバスは全便迂回運転で、ここは通らないと書いてある。ここを通らないということは熊ノ平も通らないということか。国道の新道が旧道とは何キロも離れた場所を通っているとはこの時点では知らなかったので、まぁ、どうにかなるだろう、最悪の場合は引き返せばいい、と軽く考えて、廃線歩きを再開する。第六号トンネルに突入。

 この六号トンネルは旧線区間では最も長く(546m)、なかなか出口が見えてこない。そして、また誰もいなくなった。

 途中に横が開いていた。穴は五つで、天井にも穴が開いている(板で塞がれていたが)。開通当時は蒸気機関車で、トンネル内で機関士が失神するなど、煙の害がひどかったらしいので、煙を逃がすための穴だったのだろうか。

 また横穴が今度は三つ。また天井にも穴。

 その横穴に「熊出没注意」の警告が写真入りで。こんなところに?! 眼下に旧国道が見える。

 もし熊に遭遇した場合、どう対処すべきか頭の中でいろいろ思考をめぐらせる。冷静にゆっくりと後ずさりが基本だろうが、万が一、相手が襲いかかってきた場合、その辺の石ころを熊の顔面めがけて思い切り投げつけたら、相手が怯んで逃げてくれるだろうか、などとも考える。熊除けの鈴を持ってくればよかった。

 ようやく六号トンネルの出口が見え、その先に七号トンネル。

 七号トンネルの手前に道路へ通じる階段がある。車は全く通らない。災害通行止めというのは、どこがどうなっているのだろう。

 第七号トンネル。

 第七号トンネルを抜けると、第八号の手前に第六橋梁。

 第八号トンネル。

 すぐ第九号トンネル。

 第十号トンネル。

 十号トンネルを抜けると、そこは熊ノ平駅跡だった。

 単線だった時代、列車の行き違いのために設けられた駅。今でいうなら完全なる「秘境駅」だろう。遊歩道「アプトの道」はここで終点である。

 

 つづく